ギリシャ史にして「映画史」!

テオ・アンゲロプロス『エレニの旅』

 

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時代に翻弄される、エレニとアレクシスのお話しです。


邦題が「そうなのか?そんなに旅してないけど」という気がしますけども、まあ、それはそれとして。


アンゲロプロスが3部作の第1作として発表した作品で、相変わらずの重厚な、歴史劇で170分の大作です。


残念ながら、次回作『エレニの帰郷』(内容的には続編ではありません)を完成させ、第3作目の撮影中に交通事故で亡くなってしまい、3部作は未完に終わりました。


アンゲロプロスの驚異的な長回し撮影は、やっぱり、溝口健二の影響なのかな?と昔から推測はしてたんですけども、本作はここまで露骨に溝口の影響を隠す事なく映像としてみせてしまうのか。という事実に驚愕しました。

 

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溝口健二の戦後の代表作の1つ、『山椒大夫』は本作アンゲロプロスに多大な影響を与えました。


恐らくですが、この3部作はアンゲロプロスにとっての「映画史」、それすなわち、「激動の20世紀ギリシャ史」にするつもりだったのではないかと。


それを伺わせるショットが、たったの一度、DVDで鑑賞しただけで、いくつか見えてきました。

その1。


主人公エレニが住んでいる、テッサロニキのゲットー(テッサロニキギリシャの港町で、ロシア革命第一次世界大戦トルコ革命という戦乱を逃れた人々が多く暮らしている、いわば、難民受け入れ都市になっていました)のシーンで何度も繰り返し映る、真っ白なシーツがたくさん干されて、風に吹かれているシーン。

 

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アレッ、これ、アンジェイ・ワイダ灰とダイヤモンド』なのかな?いやいやまさかね。と思っていたら、反体制派の音楽家ニコスが独裁政権の警察と思しきものに射殺されるシーンが(笑)

まんまじゃないか!

 

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灰とダイヤモンド』ではありません!

 

その2。


主人公エレニは、ロシア革命の勃発に巻き込まれ、ギリシャに逃げてきたという設定になっています。


彼女は、クリミア半島オデッサ(敢えて当時の名称とします)に住んでいて、そこに赤軍が乱入してきてして両親が死んでしまいました。


スピロスという、ギリシャ系住民のリーダーが幼いエレニを助け、ギリシャまで集団で逃げてきたんです。

 

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オデッサから命からがらギリシャまで逃げていきた、スピロスたちを荘厳に映すアンゲロプロスの演出!


この難民は新しく村を作りまして(なんと、本当にセットで村を作っています!)、エレニはスピロスの子として育てられます。


その村がですね、なんとなーくアンドレイ・タルコフスキーのような雰囲気を醸し出しているんですよ。


具体的な作品としては、遺作『サクリファイス』です。

 

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タルコフスキーサクリファイス』より。に、似ている!

 

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タルコフスキー『ストーカー』、『ノスタルジア』を思わせる廃墟。水と炎ですね。


内容に立ち入るので、説明は省きますが、この村は後に水没する事になります(コレを撮りたかったので、わざわざ、村をセットで作ったわけです)。


タルコフスキーじゃないか(笑)!


水没する村から人々が船で脱出するシーンの圧倒的な映像はアンゲロプロスの独断場ですね。

 

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この「水没する村」が撮りたくて、本作を作ったのでは。とすら思わせるほどに素晴らしいシーンです!

 

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で、やっぱり、溝口『山椒大夫』とも似てるわけです。

 

その4。


そして、主人公の幼なじみで、駆け落ちしてしまう、アコーディオン奏者のアレクシスが生活のために所属する楽団。


それはアンゲロプロスの代表作、『旅芸人の記録』の反復です。

 

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上が『旅芸人の記録」で下が『エレニの旅』です。

 

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そして、圧巻の悲劇的ラストシーンは、まるで、エレニに田中絹枝が憑依したようなシーンで、主人公が絶許して終わるという、アンゲロプロス作品としてはかなり異色な終わり方なんです。


おおおお、溝口や…

 

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西鶴一代女
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山椒大夫


という事で、タルコフスキー、ワイダ、溝口、そして自作のリミックスを基本に画面が作られている作品なのです。


さて。


本作は、日本では極めて馴染みのない、近現代ギリシャ史なので、ある程度、19-20世紀のギリシャについて知っていないととっつきにくいと思いますので、概説的に説明しておきますね。


1821年のギリシャ独立戦争によって、オスマンからの独立を求めて人にが蜂起します。


1832年には、ギリシャバイエルン王国から王室を招き、王政となり、オスマン朝からの独立が成立します。


ギリシャはヨーロッパの文化的ルーツだ!」という極めて身勝手で一方的な主張の後押しが国際世論を動かし、この奇妙な王国が出来上がりました。


こんな国家がマトモにやっていけるはずなどなく、以後、バルカン半島の動乱に常に巻き込まれ続けるわけです。


国王が途中からデンマーク王室から招かれるとか、もうギリシャ人の意向などお構いなしです。


オスマン朝第一次大戦に敗北したのをいいことに戦争をしかけたのですが、クーデタで政権を掌握した、ケマル・アタチュルに撃退されたり、その結果責任を問われ、王政は廃止となります。


そのお隣りでは、ロシア革命が起こり、ソヴィエト連邦が成立します。


コレが言って仕舞えば、現在のウクライナ問題の直接の始まりなのであって、ものすごく根深いのですね。。


この映画は、第一次大戦後の不安定なギリシャのお話しなんですね。


王党派は常に王政復古を狙っていて、実は何度もクーデタを起こしては、失敗しているんです(映画では出てきません)。


しかし、1935年に失脚していた、ゲオルギウス2世が国民投票により復帰し、更に翌年には、メタクサスによるクーデタが勃発し、彼の独裁体制が成立します。


しかし、この体制はナチスドイツの侵攻により呆気なく崩壊し、ゲオルギウスは亡命します。


ナチスドイツの占領は連合国イギリスによって解放されますが、今度は王党派と左翼勢力の内戦です…


アンゲロプロス作品の画面が常に曇天なのは、このような歴史的事実を反映したものなのですね。


およそ、「民主主義発祥の地」とは思えぬ歴史を終生描き続けてきたアンゲロプロスの、恐らくは集大成とも言える作品は、こう言った説明のほとんどがなされないため、エレニたちが何に翻弄されているのか、ほとんどわからないんです。


しかも、アンゲロプロスはこの歴史を、あたかも、溝口健二の『雨月物語』や『山椒大夫』を思わせる幻想的な語り口で雄大で重厚ない映像で語るので、なかなかにわかりづらいですね。

 

 

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溝口健二の持つ、残酷で幻想的な美しさをアンゲロプロスは追求してますよね。


本作は他の彼の作品に比べると、登場人物に不満として語らせているので、むしろ驚きますが、私は結局のところ、先に述べた事がわからなくてもいいという事をアンゲロプロスは言っているのではないのかとも思います。


そういう事は、本などを読んでいくらでも勉強できるだろうし、それはむしろ個々人がやって欲しいのだろうと。


それよりも、この歴史的大悲劇を昇華して作られた、映画というものが持つ強度こそが肝心なのだと言っている気がするのです。


ですから、ギリシャ史と「映画史」を融合したような、誰にも作れない巨大な映像を敢えて作っているのではないのかと思うのです。


3部作の最後が一体、どのような「映画史」との融合を成し遂げるつもりであったのかは、残念ながら見ることはできませんが、このアンゲロプロスの渾身の大作は必見です。

 

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はい。コレはフェリーニ『そして船は行く』ですね。

 

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今こそ見るべきアンゲロプロス作品!

テオ・アンゲロプロスこうのとり、たちずさんで

 


映画製作中に交通事故で惜しくも2012年に亡くなった、テオ・アンゲロプロスの1991年作。

 

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テオ・アンゲロプロス監督。


アンゲロプロスの初期の作品、とりわけ、『旅芸人の記録』、『狩人』、『アレクサンダー大王』は、ギリシャ近現代史をある程度わかっていないと、見るのはなかなか難しい作品で、正直、初めて見る方にはオススメしません。


アンゲロプロスの作品は、説明を拒絶し、あの驚異的な長回しを駆使した撮影方法で見せる、映像の力でのみ語る作家なので、いきなり、4時間に及ぶ『旅芸人〜』を見ても、わからないと思います。


では、どこから?という問いには、


まずは『霧の中の風景』と『こうのとり、たちずさんで』の2本から入るのが良いかと答えたいと思います。


とは言え、アンゲロプロスなので、決してラクに見ることができる作品とは言えません。


が、どちらもあらすじがわかりやすく、彼の作品としては短いんです。


どちらも、それほどギリシャ近現代史に詳しくなくても入りやすく、また、あのアンゲロプロスの特徴とも言える、驚異的に長い、「ワンシーン、ワンショット」の演出が、様式美にまで完成された時期の作品でもあり、とても見やすいんです。


本作は、マルチェロ・マストロヤンニジャンヌ・モローという、世界的な大スターが出演しているのも、とっつきやすいところですね。


お話しは、ギリシャアルバニア(作中はハッキリとは述べられません)の国境付近の町で、テレビ番組の撮影をしているディレクターが、偶然、10年ほど前に突然失踪した、ギリシャの大物政治家と思しき男をその町で発見した事から始まります。

 

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その政治家を演じるのが、マルチェロ・マストロヤンニで、その政治家の妻がフランス人であり、ジャンヌ・モローが演じております。

 

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なぜ彼は失踪してしまったのか。

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自分の夫と認めようとしない、フランス人の妻。


2022年現在のギリシャは、世界各地で起こっている紛争や戦争を逃れ、西ヨーロッパへ亡命しようとしている難民が押し寄せるという問題が起こっておりますが、この映画はその難民問題が通奏低音になっており、河を隔てた向こう岸が外国であるという、日本に生活していると実感しにくい、国境という、ウクライナとロシアの戦争にもそのまま直結する問題を扱っています。

 

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本作のタイトルを象徴する国境にかかる橋のシーン。国境とは。


当時、この街に流れ込んでいる、クルド人難民など、真剣に考える人はあまりいなかったと思いますが、今や難民の増大は、大問題であり、アンゲロプロスの警鐘は決して大袈裟ではなかったわけです。


作中、マストロヤンニが演じる元政治家が失踪してしまった理由は明らかになる事はありません。


モローも彼に再会しながらも、「彼は違う」と認める事もなく、真相はわかりません。


もともと、著述家として高名であった元政治家は、失踪前に社会批評の本を刊行しており、そこには彼のペシミスティックな思考が色濃く反映しており、彼の苦悩は深いようなのですが、それが一体何なのかは特に明かされません。


まあ、アンゲロプロスの作品というのは、一貫して何かの答えを明確に示しているわけでもなく、しかし、未来への確実な希望をつないでいくものを示しつつ完結していくのですが、それは本作もそういう作品です。


アンゲロプロス作品には「言いたい事は山ほどあるが、それは言葉にしてもし尽くせないし、語り尽くせない。そして、それはそう易々とわかってもらえるまのでもない。が、しかし、わたしはいいたのだ」というアンビバレンスがあって、それが彼のエネルギーの根源だと思うのですが、であるが言えに彼の作品は言葉ではなく、映像でその決して流暢とは言えないが、実に重みのある思いを具体化する事に心血が注がれるのですね。


その最たるものが、婚礼のシーンである事は言うまでもないでしょう。

 

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国境である川を挟んでの、新郎と新婦は出会う事なく、声も発することのない、沈黙の支配する無言の婚礼を、あの重厚な長回しで撮影し(それは、テレビディレクターがこの類稀な婚礼を撮影しているという視点でもあります)、先に述べた事を静かな雄弁で示した、圧巻のシーンです。

 

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この、小説にも演劇にも還元しようのない、映画的としか言いようのない感銘を体験するかしないかが、その後の映画を見ることの態度を決定的に決めてしまうのではないのか。と言い切ってしまってもいいほどの素晴らしい体験であると思います。

 

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国境はなくならない。しかし、人はそれでもつながろうとするのだ。

 

 

 

これぞドライヤーの傑作です!

カール・テオドア・ドライヤー『奇跡』

 

 

 

デンマーク、ひいては映画史に名を残す巨匠の最高傑作。


購入したパンフレットを見ると、ドライヤーかんとはチャップリンと同い年なのですね(1889年生まれ)。

 

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カール・テオドア・ドライヤー監督。若い頃はジャーナリストでした。


ですので、映画界に進出するのが彼と同じく1910年代です。


サイレント映画からキャリアを始め、映画がカラー撮影に移行していく1960年代まである監督なのですが、思いの外残された作品派多くなく、どちらかと言うと寡作な人です(長編で14本)。


よく、北欧の映画監督、イングマール・ベルイマンと比較される事がありますが、ベルイマンとは作風はそんなに似てないと思います。


というのも、作品によってかなり作風が異なる監督でして、一作ごとにそれに相応しい演出を練り上げる監督だったようで、それも寡作となった原因だったのでしょう(経済的な事が主な原因だったようですが)。


ベルイマンは50-70年代に結構なハイペースで映画を量産しており、しかも、テーマはかなり一貫したものがありましたから、ある意味、作風は一定していて、わかりやすい監督です。


しかしながら、ドライヤーは、サイレント末期に作られた『裁かるるジャンヌ』と本作が同じ監督が作ったと言われても、すぐにはわかりかねるところがあります。


とは言え、よくよく考えてみるも、そこには一貫したものがあります。


それはキリスト教批判ですね。


『〜ジャンヌ』は、史実として有名な「ジャンヌ・ダルク裁判」を極端な撮影手法を用いて明らかにする事で、カトリック教会の不条理を炙り出し、本作では、農場経営を行うボーオン家と仕立て屋であるペーターセン家の宗派対立(表面上は頑固なジイさん同士の低レベルな口論なのですが・笑)が三男のアナスの結婚問題から再燃するという出来事がお話の重要な部分になっています。


本作は、戦後の小津作品のほぼ定番となっている冠婚葬祭扱う、いわば、ホームドラマなのですけども、そこに、キルケゴールを勉強になりしすぎた発狂してしまった、ボーオン家の次男、ヨハンネスがいるというのが、やはり彼のオリジナリティだと思います。

 

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ほとんど松本人志の全盛期のコントのキャラクターを思わせる狂人、ヨハンネス。勉強はほどほに?

 


作品の中では一切説明されてませんけども、ボーオン家の邸の広い居間に、ものすごい髭を蓄えた肖像写真が何度か写り込んでいる(というか、ドライヤーの演出なんですけども)のですが、実はこの人はデンマーク人ならば、知らない人はいないほどの有名人、グルントヴィ(1783-1872)です。

 

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国内ではキルケゴールよりもはるかに知名度のある、グルントヴィ。

 


グルントヴィは、「宗教は社会に積極的に貢献すべき」という強い信念を持ち、既成の教会への批判を行っていた人で、「国民高等学校」の理念を提唱した人でもあります(弟子のコルが実現化していきました)。


ボーオン農場の経営者である、モーテンは、彼の影響を受けている事が暗に示されているのですね。


モーテンは利発な息子であるヨハンネスに、グルントヴィのような「宗教改革者」となる事を期待していたのですが、勉強のしすぎで、狂人になってしまいます。


コレに対して、仕立て屋の一家はより厳格で禁欲的な信仰を重視する宗派なんですね。


三男のアナスは、この仕立て屋の娘と結婚したいのですが、「お前の家とは宗派が違うから、娘はやれない!」と言い放ちます。


モーテンは自分がアナスに相応しいと思娘と結婚させるつもりだったのですが、この事を知るとムキになってアナスと一緒に仕立て屋の家に押しかけ、それが結局、頑固ジジイ同士のケンカになってしまうのです。


モーテンたちが帰ろうとすると、そこにボーオン家から、「インガーが危篤なんだよ!」と電話があるんですね。

 

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結婚騒動とインガーの病が同時進行的にストーリーを加速させていきます。


インガーとは長男ミケルの奥さんで、3人目の子供を妊娠していたのですが、産気づいたはいいのですが、かなり危険な状態に陥っていたんです。


急いで家に戻ると医者が既にインガーを診察していました。


結果として、赤ん坊は死んでしまい、インガーもまた死んでしまいます。


ココに狂人ヨハンネスが絶妙なタイミングで、ほとんどコメディのように関わってきて、「主が見えぬか。主が彼女の命を奪おうとしているのだ」と不吉なのかギャグなのかわからない事をか細い声で唐突に言い放っているのですが、なんと、ホントにその通りになる。

 

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子どもと狂人のみ、何故か会話が成立するという描き方が絶妙です。

 


本作の原題は「言葉」なのですが、狂人の言葉通りの事態になります。


そんな彼を見た医者(会話から無神論者である事がわかります)は、「この人は治りますよ」と、あっけらかんと言います。


「精神的なショックを加えれば」

 

果たして、それはすぐに起こりまして、ヨハンネスはインガーを甦らせるための奇跡を起こそうと彼女に近づくのですが、途中で昏倒します。


途中経過は省略しまして、ヨハンネスは正気に戻ります。


医者の言った通りになるんですね(笑)。


そして、ヨハンネスは文字通りの「奇跡」を起こすのですが、それは実際にご覧いただくとして。


本作のほとんどがボーオン家の居間を中心とした、いわば、『奥様は魔女』や『アーノルド坊やは人気者』のようなテレビドラマの形式で描かれていて、ドライエルは、その事を意識していたのかどうかはわかりませんが、シリアスな話しのはずなのに、どこかそう言うテレドラマを思わせる絶妙なタイミングで笑っていいのかどうなのかわからないギャグが入ってくる宗教劇。という、やはりベルイマンともタルコフスキーとも違うドライヤーという映像作家がいる事を痛感せざるを得ない、映画史上の金字塔。

 

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石原慎太郎がこんな軽佻浮薄な小説を書いてたんですね(笑)しかも川島雄三が映画化

川島雄三『接吻泥棒』

 


石原慎太郎原作の小説の映画化ですけども(松山善三が脚色)、東京都知事の頃の彼しか知らない人には、この猛スピードで展開するラヴコメディとあのタカ派政治家はほとんど結びつきません(笑)

 

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なんと、カメオ出演してます(笑)


ちなみに、音楽は川島雄三作品に多い参加している、黛敏郎なのでした。


黛も作曲家として活動しつつも、憲法改正に熱心な方でしたが。


この90分にも満たない東宝のプログラムピクチャーを川島の代表作という人は余り聞いたことはないですけども、彼のベスト5に確実に入る、いわば隠れ傑作と言ってよい作品です。


ウェルター級ボクサー役の宝田明は生涯のベストアクトと言ってよい素晴らしさで心底驚きます。

 

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宝田明と団令子の代表作です!


正直、それほど好きな役者ではないのですが、ここで演じる高田明。というキャラクターは(石原慎太郎が宝田をモデルにして小説を書いたそうです)、どこからが宝田明でどこまでが高田明なのかわからないほどで、彼の評価が私の中で変わりました。


高島忠夫船越英二という、なんだかグニャグニャしている男の系譜というのが川島作品にしばしば登場しますが、その最高の存在が宝田明ですね。


実際の宝田明まんまのプレイボーイ役であり、4人の女性とのドタバタぶりを猛スピードの演出で見せる川島雄三の手腕には、相変わらず素晴らしく、日本映画界で屈指の群像劇の才能を発揮した天才でした。


中でも川島の晩年の作品によく出演している、団令子のやんちゃなキャラクターは、宝田明を絶妙に翻弄します。


川島作品に出てくる女性たちはどれも生き生きとしていて、後半部の3人の愛人と次々と別れていくいう展開での、宝田を三者三様に痛めつけていくシーンは実に痛快です。

 


ジャズやラテン音楽を基調とした黛敏郎も絶好調です。

 

 

その、一見な軽佻浮薄な作風が生前は過小評価されている向きがある人ですけども、本作の「炎上ビジネス」の先駆のようなマスコミのあり方へや、「純潔教育」という、人間の現実のあり方を無視したような教育へのさりげない批判は、今もって色褪せる事はなく、全く古びた過去の作品とは思えません。

 

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作中に出てくるパパラッチ。コージーコーナーってこんな昔からあるんですなあ。


まるで、自分の死期が近い事を悟っているかのように、50年代から 自宅で急死する1963年までの川島の作品はいずれも見応えがあり、本作もその中の一つです。

 

ボクシングの試合のシーンが予想以上にちゃんとしてます。

 

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草笛光子はホントに若い頃のまんまですよね。

手塚治虫オマージュが込められた室町時代のロッキーホラーショー!

湯浅政明『犬王』

 

 

なんなのだ、この大傑作は!


とにかく浴びるように映画館で見るべし!

 

スマホで見るなど論外です。


「浴びる」事でまずは全身を感動させ、然る後にディテールを確認するためにサントラやDVDで隅々までチェックする。


コレが本作を見るための作法であり、それ以外はないのです!


さて。


犬王ですが、実は実在の人物なのですね。


能楽の祖とされる、観阿弥世阿弥が活躍した、室町時代初期に活躍した、天才猿楽師なのですが、じつは彼の演目は全て散逸してしまったため、どのような演舞をしていたのか、実はまったくわかりません。

 


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足利義満はアニメ『一休さん』とはエラく風貌が違います。

 

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義満の寵愛を受ける、世阿弥

 


要するに、どういう人物だったのか、よくわからない人なんです。


コレを大胆にロックオペラとして作り上げたのが本作なのです。


室町時代の京都を舞台とした、『ロッキーホラーショー』なのですよ、コレは!


そして、本作には、もう1人の主人公がおりまして、それが琵琶法師の友魚(ともな)です。


なので、タイトルとしては、『犬王と友魚』でもよいのですが(実際、そういう内容です)、敢えてそうしていないんだと思います。


ご覧になった方はすぐに気がついたと思いますが、犬王のモデルは手塚治虫の『どろろ』です。

 

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失われた身体を取り戻すために戦う百鬼丸は、『ベルセルク』のガッツにも影響を与えました。


どろろの主人公、百鬼丸は、戦国時代の父親の野望実現のために、肉体のほとんどを悪霊に奪われてしまったという設定になっており、義手や義足をつけて、悪霊たちを倒す事にもとの身体を一つずつ取り戻していくお話しになっていますが、犬王もまた、天下一の猿楽師となるために、悪魔と契約をし、息子の肉体を与えてしまいました。


その結果、まるで怪物のような存在として生まれてしまうのです。


百鬼丸の基本設定と全く同じですね。


しかし、全く違うのは、犬王は踊りの奥義を身につける事によって、身体がもとに戻っていくというところなんです。


つまり、異形の肉体を持った猿楽師。という設定を大胆に作り出しているんです。

 

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犬王には始めは脚すらまともな長さがありませんでした。


コレに対してもう一方の主人公、友魚は、あの平家が滅亡し、安徳天皇三種の神器が海に沈んだ壇ノ浦で生活している、いわば、漁民兼トレジャーハンターの一族の子です。


しかし、とある人物から失われた三種の神器の1つ、草薙剣の捜索を命じられ、言われるがままに父と協力して見つけるのですが(案外簡単に見つかるんですけども・笑)、その剣の持つ霊力によって父親は死んでしまい、友魚は失明してしまいます。


こうして、友魚は琵琶法師として生きていく事となり、諸国を放浪しながら、師匠の谷一とともに平家物語を歌うようになり、やがて、京都までやってきます。


谷一は、京都の琵琶法師の座である、「覚一座」に所属しており、友魚もこの座の一員として認められて、友一(ともいち)と名乗るようになります。

 

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友魚はやがて、斬新な平家物語を歌う、ほとんどロックスターへと変貌していきます。

 

この、友魚が何度か名前が変わっていくの事がお話しの重要な伏線になっていますが、ネタバレになりますので深くは立ち入りません(煩わしいので、友魚で統一します)。


怪物として生まれたため、父からも彼の座の一員からも疎んぜられていた、犬王は、持ち前の並外れたバイタリティで無手勝流に踊りを身につけていくのですが、やがて、勝手に犬王の猿楽を踊るようになります。

 

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犬王の奇抜な演舞は本作の見せ場です!


その内容な奇しくも平家物語なのでした。


この主人公の二人には、平家側についた武士たちの無念の霊たちを見る事ができ、2人の音楽や踊りは、この霊たちを成仏させるために行うものなんですね。

 

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しかし、その踊りや音楽が完全に70年代のハードロックであり、犬王の動き、マイケル・ジャクソンだったり、チェコスロヴァキアの体操選手のヴェラ・チャフラフスカ、ひいては、日本でも長年上演されている、ピーター・パンであったり(文献には、犬王は天女の舞が得意であったとあり、そこから拡大解釈した演出ではないかと思います)、もう破天荒の極みなのですね(笑)。


従来の芸能を打ち破る二人の天才の爆発が、このお話の最大の見どころであり、湯浅政明の見事な演出、そして、大友良英の驚くほどの王道ロックな音楽、そして、犬王を演じるアヴちゃんと友魚を演じる森山未來の歌の素晴らしさにとにかく圧倒されっぱなしです!

 

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アヴちゃんという稀有な存在なくして、本作は成立しなかったでしょう!

 


一見、破天荒な設定のお話なのですが、時代考証は驚くほど精緻に行われていて、絵や美術の素晴らしさにはとにかく驚きます。

 

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室町の庶民の描き方の丁寧さには驚きます!

 


この世界観に一切手抜きのないところに、犬王や友魚の飛躍が荒唐無稽とならない秘訣があるのでしょう。


この二人の評判はやがて足利義満の知るところとなり、このお話はやがて、「政治と芸能」という、古くて新しい問題に向かっていきます。


本作が大変な傑作に高められるのは、やはり、この問題に正面から挑んでいるからであり、それは、今日の日本に於いても抜き難い問題である事を私たちに、犬王と友魚を通じて突きつけられているからですね。

 


この2人の対照的な生き様は、手塚治虫の傑作『火の鳥 鳳凰編』にも通じるものを私は感じました。

 

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茜丸と我王の対象的な生き方を通じて、「表現とは何か?」を描き切った『火の鳥鳳凰編』。

 


一方は名のみ残り、もう一方は名すら残らない。という、この残酷さ。


100分にも満たない長さでこの物語を描ききったのは、見事だと思います。

 

 

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2人の友情は永遠破滅です!

 

 

 

 

 

 

 

 

おじさん達の涙腺を刺激しまくるまさかの痛快作!

ジョセフ・コシンスキートップガン マーヴェリック』

 

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まさかの続編がとうとう公開です!

 


この作品の続編を望んでいた人はほとんどいなかったと思いますし、やる必然性もほとんど感じなかったです。


正直なところ言いまして、トム・クルーズが続編を作りたいと考えているのがメディアから伝わって来たとか、「はぁ?」とか思えなかったです。


しかしながら、「これ、かなりよい」という感想がネット上で結構出てきましてですね、コレは行ったどういう事なのか?と思いまして、たまたま時間があって見に行きましたら、予想を遥かに超える痛快作なのですよ、コレが!


まだ公開したばかりなので、内容に深く立ち入るような事を書くつもりはございませんが、前作を遥かに超える作品であると言って良いと思いました。


トップガン』と言えば、アメリカ海軍の全面協力による、ホンモノの戦闘機を用いたものすごいアクションがウリな訳ですが、それが現在の撮影技術を使って、もっとすごいものを提供している事は保障いたします。

 

そして、コレを映画館で見るだけで、充分に元が取れます。


しかし、私が感銘を受けたのは、実はそこではありません。


トム・クルーズは、良くも悪くも本作によって、世界的な知名度を得たわけですけども、その後の彼が目指していたのは、なんと、アカデミー賞でした。


が、それは残念ながら、彼の力量不足が如何ともし難いものがあり、叶える事はできませんでした。


そこで彼が目指したのは、内面を持たない記号的な役割を持つ主人公です。


「記号的役割」というと、なんだか悪い意味のように聞こえるかも知れませんが、そうではないのです。


記号的。であると言うのは、誰でもないということであり、それはいい同時に誰でもあると言う事なんですね。


つまり、観客が移入できるキャラクターなんです。


例えば、『トップガン』に出演したヴァル・キルマー演じるアイスは、トム・クルーズ演じるマーヴェリックのよきライヴァルを演じておりますが、彼を主人公にしてしまうと、見る側は感情移入しにくいんです。

 

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ヴァル・キルマー演じるアイスなくして『トップガン』は考えられないでしょう。


ヴァル・キルマーは大変素晴らしい役者であり、いろんな役を演じる事のできる人ですけども、内面がシッカリとありすぎるわけです(それが悪いと言ってるのではないですよ、念のためですな)。

 

クルーズは、いつの時点かはわかりませんが、アクションスターとして記号の役割を果たしていこう、画面では、ひたすら「アクションする記号」であろうとする事を極め、それはやがて、バスター・キートンジャッキー・チェンのような、スタントなしで驚くべきアクションをこなす、イーサン・ハントという、マンガのような超人を生み出すに至ったわけです(なんと、すでに2023年に新作公開が決まっております)。

 

バスター・キートンという、サイレント期に大活躍した喜劇俳優は、もっぱら、その驚異的な身体能力を駆使して、とてつもない作品を作り出していましたが、よく考えると、その内面がまるでない存在を演じていました。

 

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時代を経るごとにその評価を高めている感すらある、バスター・キートン


現在の映画のようなキャメラワークも編集技術もない映画に於いても、すごいと思わせる映画を見せるためには、必要以上に危険なアクションをしないとすごさが伝わりません。


バスター・キートンのスタントマンを用いないアクションは、一歩間違うと死んでしまうような危険なものばかりですけども、それをあの独特な無表情で何という事もないような感じでこなしております。


「すごいアクションをこなす、内面ない存在」というのは、実は、トム・クルーズが演じでいるキャラクターと同じですよね。


『ミッション・インポッシブル』のイーサン・ハントのアクションはあまりにも凄すぎて、最早リアリティが失われており、それを平然と行う彼の内面はよくわからず、匿名の存在をなのですね。


極端な事を言えば、ダーク・ボガードやマガリ・ノエルでは、イーサン・ハントにはなり得ないんですね(笑)。


そして、ジャッキー・チェンです。

 

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カンフー映画にコミカルな要素を導入したジャッキーの功績はあまりにも多いですね。


1970年代に数多くのカンフー映画の主演をこなした後、自らの作家としてのエゴを示し始めてからの諸作品のジャッキーはどの映画でもジャッキー・チェンという、陽気で正義感の強い、やや直情径行のあるキャラを演じていて、そこにはあの驚異的としか言いようのない、カンフーアクションにキートン的な危険なアクションを3次元に発展させて繰り広げているのですが、このコミカルと凄絶がないまぜになったようなアクションを誰よりも正統的に継承しているのが、トム・クルーズなのですね。

 

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プロジェクトA』はその後のジャッキー・チェンを決定づけた傑作です。


彼はスターでありながら、ジャッキーのそれと同じ意味で作家になったのだと思います。


ジャッキーがアクションとともに得意とするのが、コテコテとしか言いようのない、時には古いアメリカ映画をそのまんまパクったようなドタバタコメディです。


私はジャッキーのアクションと同じくくらいにこの肉感的な、人種や国籍、文化などの要素に余り左右されないコメディ作家である事は、とても重要な要素だと思うのですが、本作はその要素が幾つも出てくるのですね。


トップガン』ってそんなドタバタコメディみたいなノリでいいのか?と思うくらいに不安になるのですが(笑)、とにかく面白いので、そんな事はもうどうでも良くなってしまうのです。


この問答無用の演出力は、恐らくはトム・クルーズのアイディアだと思う思われます(本作の実質的な監督はトム・クルーズなのでしょう)。

 

この発見こそが私の最大の驚きでしたね。


戦闘アクションでビックリさせ、コメディて笑わせたら、後残るは泣かせるという要素が残るのですが、コレもちゃんとあるのです。

 

そこがこの作品に深みを与えているのであり、これだけの月日を経ての続編である事の必然性を与えています。


最早、『トップガン』は古典的作品でありますから、盛大にネタバレさせても問題ないと思いますが、重要な登場人物にグースという、マーヴェリックの相棒が出てきますが、彼は戦闘機のトラブルによって不慮の死を遂げています。

 

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グースとマーヴェリック。このコンビの話が今回の最大の伏線です。


実はその息子がトップガンの一員として、マーヴェリックのにも姿を現すことになるのですが、その当時シーンが実にうまいですね。


えっ、あの時ピアノに座ってはしゃいていたあの子がこんなになったの?というのもビックリなのですが、グースに驚くほど似ています。


このグースの息子、ルースターとのドラマが実はメインドラマになっています。


あたかも、黒澤明作品における、志村喬三船敏郎のような、「父」と「子」のドラマが展開するんですよ。


この辺は前作を見た人にはかなりたまらないものがあると思います。


ここは、ライアン・クーグラークリード』が、まさかの傑作であったという事と軌を一にするものがありますね。


そして、もう一つトップガンおじさん達の涙腺を刺激しまくるヴァル・キルマーの出演です。


どこでどのように出てくるのかは言いませんが、大変重要なシーンで出てくるんですね。


こういうドラマ部分が薄味で軽薄にすぎるところが前作の最大の欠点であったと思いますが(故にヒットしたのだと思いますけど)、今回の話には、トム・クルーズの人間的な深みがキチンと織り込まれていて、見ていて驚きました。


誰でもない人(つまり誰でもある人)を演じ続けた、ハリウッドスター、ジェイムズ・スチュアートに並んだ。とまでは言いませんが、トム・クルーズが肉体的人衰えた後に目指すべきものが何であるのかが、見えてきた気が私にはしました。


トップガン』に過多であった、フジテレビのトレンディドラマが継承したであろう薄っぺらいチャラさや、エアコンが効いてないのでは?としか思えないシズル感は程よく本作にも継承されていて、オールドファンをちゃんと安心させる配慮をしているのもさすがだなあと思いました。

 

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本論では言及しませんでしたが、ジェリファー・コネリーがはバツグンに素晴らしいです!


見ていて初めて気がついたのですが、『トップガン』二部作は、いずれもジェリー・ブラッカイマーがプロデューサーなのであり、そう言われてみれば、彼のイズムがものすごく貫かれている作品だよね。という事にも気がつきました。


最後に。


中国からのクレームでポスターから消えた日の丸と青天白日旗満地紅旗が入った、マーヴェリックのジャケットを思い切り大写しにする映像を敢えて映画の中に入れているのは、アメリカ海軍の全面協力で製作されているという、本作の性格を考えると、現在のアメリカの対中政策を考える上でも見逃してはならないでしょう(そこには日の丸も存在します)。


それは公開時期とアメリカ大統領のタイミングかピッタリ合っている事が偶然ではないという事からも容易に想像されます(前作もレーガン政権におけるたいソ連政策を反映した国策映画であると側面が濃厚です)。


とにかく、本作は映画館で見なくてはほとんど意味をなしません(スマホで見る等問題外です)。


是非とも映画館でご覧ください。


特に前作を見なくても充分に楽しめるつくりになっていますので、ご安心を。

 

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2022年、なんでスパークスが急に注目を浴びているのか?

レオス・カラックス『アネット』、

エドガー・ライトスパークス・ブラザーズ』

 

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現在のスパークスのお二人。左が兄のロン、右が弟のラッセルのメイルズ兄弟です。この2人を不動のメンバーとするのがスパークスです。


スパークスというロックバンド、というか、メイルズ兄弟によるユニットをご存じだろうか?


実は未だに日本のロックファンには、知る人ぞ知る存在なのかもしれないですね。


2022年時点で、ほぼ50年、休止する事なく活動し続けている、脅威のユニットなのですが、その次々と作風を変えていくあり方が、なかなか実体が掴みづらかったのか、なかなか日本では紹介されてこなかったように思います。


日本では、熱狂的なスパークスのファンである、岸野雄一さんが編集された当時の最新作、『Hello, Young Lovers』までの紹介を行った本が出ていましたが、現在な入手が困難です(私はこの頃の来日公演で初めて彼らの音楽を知りました)。

 

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あらゆるカテゴリーで説明できない岸野雄一さんもまた、スパークスの熱烈なファンです。

 

 

そんな彼らが関与、または出演している映画が、2022年の日本で相次いで公開となったのは、ホントに驚きでした。


『アネット』は、音楽と脚本を担当してしており、コレを監督したのが、レオス・カラックスであるのも驚きです。

 

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寡作なカラックス監督が、スパークスと組んでミュージカルを作るというのは全く予想だにしませんでした(注、ネットに答えがありました・笑)。


およそ、スパークスとカラックスが結びつく点はほとんど見いだせないですから(注、前作『ホーリーモーターズ』でスパークスの音楽を使っていたのでした!すみません!カラックス、やはりすきだったんですね、スパークスが)。


コレは大丈夫なのか?無茶苦茶なことになってやしないだろうか?とかなり不安でしたが、劇場で見てそれは杞憂である事がわかりました。


結論から申し上げれば、コレはまごう事なきスパークスによるミュージカル映画であり、現場監督はカラックスというもので、カラックスは相当にエゴの強い監督だと思いますが、本作はメイルズ兄弟の脚本と作詞、作曲、編曲を活かす事に徹しきっている事が見ていてわかります。


スパークスの企画にカラックスが心底感銘を受けのでしょうね。


お話しの筋は極めてシンプルで、過激な芸風のスタンダップ・コメディアンのヘンリー(アダム・ドライヴァー)と世界的ソプラノ歌手のアン(マリオン・コティヤール)の間に生まれた子どもがアネットなのですが、ヘンリーは、気分屋で酒癖の悪い男であり『天才型にありがちな事ですが)、やがてコメディアンとしての人気に翳りが出てきます。

 

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ヘンリーとアン。

 

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ヘンリー・マケンリーの過激なスタンダップ・コメディは必見です!


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世界的なソプラノ歌手、アン。

 


夫婦の仲も悪くなっていくのですが、ヨリを戻すために、ヨットで一家は船旅に出ます。

 

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ある日、アンはヘンリーが6人の女性にテレビで告発される夢を見ます。「ヘンリー8世の6人の妻」を暗示していますね。


しかし、嵐に見舞われた日にまたしても飲んだくれてしまうヘンリーは、不可抗力でアンをヨットから突き落としてしまい、殺してしまいます。


ヘンリーとアネットのみがなんとか救命ボートで脱出するのですが。。という、ところまではネタバレさせても問題ないところです。


ミュージカルですから、お話しのスジはさほど複雑でもなく、メインの登場人物はヘンリー、アン、アネット、そしてここではどこでどう絡んでくるのか説明しなかった、アンの伴奏者で指揮者(サイモン・ヘルバーグ)しかいません。

 

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指揮者がどう話に絡んでくるのかは見てのお楽しみに。

 


このシンプル極まりないお話を極上にしているのが、なんと言っても、スパークスの音楽なのですね。


スパークスはカリフォルニア出身のロンとラッセルのメールズ兄弟を不動のメンバーとするバンドでして、アメリカではあまり芳しい評価が得られず(初めはハーフネルソンというバンド名でした)、イギリスに渡ってから評価が高まり、主にヨーロッパで評価されました。


ヨーロッパで評価されたアメリカ人のミュージシャン。というのは、別にスパークスが初めてではありませんが(ジミ・ヘンドリクスやウォーカー・ブラザーズが先行しておりますよね)、彼らはアメリカでの評価よりもヨーロッパでの評価が今でも高く、ヘタをすると、イギリス人のバンドと勘違いされているくらいなのです。


その毒のあるユーモア、ラッセルの驚異的な音域を活用した、ロンの作曲、美男子のヴォーカルとまるでアドルフ・ヒトラーのような風貌のキーボード奏者という、不思議なキャラで、時にグラム・ロックのようないでたちになったり、パンクに接近したり、テクノポップになったりと、ものすごい振幅で音楽が変貌していくので、アメリカの西海岸のロックバンドとは思えなかったのでしょう。


アメリカのロックが持つマッチョさが一貫して欠如しているのも、イギリスのバンドと思われやすいのかもしれません。


しかし、本作の舞台はロサンジェレスであり、セリフも英語のミュージカルです。


皮肉な事に、監督はフランス人なのに、フランス映画っぽくないという捻れが起きてもいます(笑)


こういう一筋縄ではいかない彼らの魅力をバンドの演奏とアダム・ドライヴァーらメインキャストによるヴォーカル、フルオーケストラによって見事に表現されています。


スパークスの音楽の魅力に、ラッセル・メールズのヴォーカルは欠かせませんが、なんと、彼が歌わなくてもスパークスらしさが些かも失われていない事にも驚きます。


スパークスはついに、スティーリー・ダンのようなユニットとしても機能してしまう可能性すら持っている事を示しており、未だに変貌しつづけ、新しい事に挑み続けているのが凄いですね。

 

しかも、音楽が今もってフレッシュであるという事です。


実は、メイルズ兄弟は大の映画好きで、UCLAに通っている時、ロンは映画制作を行っているほどです。


実は1970年代にフランスの巨匠、ジャック・タチの映画の音楽を担当するという企画が持ち上がったのですが、これはタチが健康上の問題で降板した事で立ち消えとなっていました。


ティム・バートンが監督する、日本の漫画を原作とする映画の音楽を担当する企画には、かなりの年月を費やしたのですが、結局、バートン監督が降板し、企画自体がなくなってしまいます。


メールズ兄弟はスタジオで曲作りに取り組んでいたのですが、この間、スパークスとしての活動がほとんどなく、アルバムが6年間も出ていないという、多作であった彼らが味わった、唯一の低迷期が実は映画の仕事でした。


『アネット』はまさに満を持して持ち込んだ企画で、遂にそれが大爆発した痛快事であり、カラックスにとっても大変な傑作を撮る事になりました。


スパークスの奔放なイメージを更に増幅させるような驚きの映像は、カラックスとスパークスが殊の外相性が良かった事を示しております。


このお話しは登場人物が、史実の人物をモデルとしております。


主人公のヘンリーは、恐らくはイングランド王、ヘンリー8世をモデルとしたキャラクターです。


ヘンリー8世には6人の妻がいたのですが、離婚を繰り返し、2番目の妻、アン・ブーリンは処刑されています。


夫ヘンリーが妻アンをを殺す。という、『アネット』の前半のエピソードは、明らかにヘンリー8世アン・ブーリンの処刑をイメージしているのですね。


そして生まれて来た子どもの名前がアネット。というのも、意味深です。


実はアネットはマリオネットとして表現されています。

 

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なぜマリオネットなのか?

 


つまり、「アネット」とは、「アンのマリオネット」である事を意味していると思います。

 

そして、「ヘンリーのマリオネット」でもある。


その事を表現するために、アネットはマリオネットなんですね。


話しのスジはシンプルなのですが、その少ない登場人物を使って表現される重層的なテクストが単なる知的な操作ではなく、物語の核と巧みに結びついている所に、この作品の脚本の素晴らしさを思わざるを得ません。


単に音楽が素晴らしい映画なのではなく、脚本が素晴らしい作品なのだという事は強調しておく必要があります。


メイルズ兄弟がカメオ出演しているのも嬉しいです。

 

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なんと、いきなり冒頭にメイルズ兄弟がカメオ出演します。


さて、そんな現在絶好調のスパークスの現在までの歩みを丁寧に追ったドキュメンタリーが日本では同時に公開されているというのも痛快事です。

 

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監督はスパークスの熱烈なファンである、エドガー・ライトです。


劇場最新作は私には不満の出来でしたけども、このドキュメンタリーは掛け値なしに素晴らしいですね。

 

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全編がスパークス愛に満ちているのはいうまでもありませんが、単にバンザイ!バンザイ!とするだけの作品ではなく、なぜ、アメリカの西海岸出身の兄弟でありながら、ヨーロッパでは大人気なのに、アメリカでは今一つ人気がなく、日本では未だにほとんど知られていない(レコード会社の皆さま、頑張りが足りませぬ!)事から始まり、では、何が彼らの魅力なのか?を実に丁寧に解明していくんですね。

 

メイルズ兄弟のみならず、歴代のバンド参加者、そして、スパークスファンを自認するミュージシャン、挙句の果てにはライト監督自らも出演し、彼らのアルバムをすべて検証していくという、ある意味、王道中の王道をやっているのですが、同じ事をやり続ける事を拒否するスパークスは、もうそれだけで波瀾万丈です。

 

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スパークスの代表作の1つ、『Big Beat』。ジャケットが秀逸なのもスパークスの特徴です。


驚く事にスパークスには、ロックミュージシャンにありがちなドラック、アルコール、セックス・スキャンダルが皆無であり、彼らの人生のほとんどは、音楽に注がれているのですね。


しかも、それはプリンスのような息が詰まるようなストイシズムではなく、実に淡々とした歩みであり、気が付いたら、とてつもない大山河になっていました!という凄さなんですね。


そういうお二人なので、ドラマティックな劇映画にはなり得ないのが、彼らの唯一の欠点(?)なのでしょう。


しかし、作り上げられた、泣き笑いの極上のポップス山脈に人生の波瀾万丈が全て注ぎ込まれているのであり、よって、実生活は実に慎ましくならざるを得ないんです(映画でも出てきますが、ものすごく規則正しく生活していて、無知なワーカホリックもないようです)。


この2作を見ることで、「スパークスとは何か?」という事が一挙にわかると思いますので、どちらもご覧になる事を強くオススメします!


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スパークスはこんなに大人気なのです!