カール・テオドア・ドライヤー『奇跡』
デンマーク、ひいては映画史に名を残す巨匠の最高傑作。
購入したパンフレットを見ると、ドライヤーかんとはチャップリンと同い年なのですね(1889年生まれ)。
カール・テオドア・ドライヤー監督。若い頃はジャーナリストでした。
ですので、映画界に進出するのが彼と同じく1910年代です。
サイレント映画からキャリアを始め、映画がカラー撮影に移行していく1960年代まである監督なのですが、思いの外残された作品派多くなく、どちらかと言うと寡作な人です(長編で14本)。
よく、北欧の映画監督、イングマール・ベルイマンと比較される事がありますが、ベルイマンとは作風はそんなに似てないと思います。
というのも、作品によってかなり作風が異なる監督でして、一作ごとにそれに相応しい演出を練り上げる監督だったようで、それも寡作となった原因だったのでしょう(経済的な事が主な原因だったようですが)。
ベルイマンは50-70年代に結構なハイペースで映画を量産しており、しかも、テーマはかなり一貫したものがありましたから、ある意味、作風は一定していて、わかりやすい監督です。
しかしながら、ドライヤーは、サイレント末期に作られた『裁かるるジャンヌ』と本作が同じ監督が作ったと言われても、すぐにはわかりかねるところがあります。
とは言え、よくよく考えてみるも、そこには一貫したものがあります。
それはキリスト教批判ですね。
『〜ジャンヌ』は、史実として有名な「ジャンヌ・ダルク裁判」を極端な撮影手法を用いて明らかにする事で、カトリック教会の不条理を炙り出し、本作では、農場経営を行うボーオン家と仕立て屋であるペーターセン家の宗派対立(表面上は頑固なジイさん同士の低レベルな口論なのですが・笑)が三男のアナスの結婚問題から再燃するという出来事がお話の重要な部分になっています。
本作は、戦後の小津作品のほぼ定番となっている冠婚葬祭扱う、いわば、ホームドラマなのですけども、そこに、キルケゴールを勉強になりしすぎた発狂してしまった、ボーオン家の次男、ヨハンネスがいるというのが、やはり彼のオリジナリティだと思います。
ほとんど松本人志の全盛期のコントのキャラクターを思わせる狂人、ヨハンネス。勉強はほどほに?
作品の中では一切説明されてませんけども、ボーオン家の邸の広い居間に、ものすごい髭を蓄えた肖像写真が何度か写り込んでいる(というか、ドライヤーの演出なんですけども)のですが、実はこの人はデンマーク人ならば、知らない人はいないほどの有名人、グルントヴィ(1783-1872)です。
国内ではキルケゴールよりもはるかに知名度のある、グルントヴィ。
グルントヴィは、「宗教は社会に積極的に貢献すべき」という強い信念を持ち、既成の教会への批判を行っていた人で、「国民高等学校」の理念を提唱した人でもあります(弟子のコルが実現化していきました)。
ボーオン農場の経営者である、モーテンは、彼の影響を受けている事が暗に示されているのですね。
モーテンは利発な息子であるヨハンネスに、グルントヴィのような「宗教改革者」となる事を期待していたのですが、勉強のしすぎで、狂人になってしまいます。
コレに対して、仕立て屋の一家はより厳格で禁欲的な信仰を重視する宗派なんですね。
三男のアナスは、この仕立て屋の娘と結婚したいのですが、「お前の家とは宗派が違うから、娘はやれない!」と言い放ちます。
モーテンは自分がアナスに相応しいと思娘と結婚させるつもりだったのですが、この事を知るとムキになってアナスと一緒に仕立て屋の家に押しかけ、それが結局、頑固ジジイ同士のケンカになってしまうのです。
モーテンたちが帰ろうとすると、そこにボーオン家から、「インガーが危篤なんだよ!」と電話があるんですね。
結婚騒動とインガーの病が同時進行的にストーリーを加速させていきます。
インガーとは長男ミケルの奥さんで、3人目の子供を妊娠していたのですが、産気づいたはいいのですが、かなり危険な状態に陥っていたんです。
急いで家に戻ると医者が既にインガーを診察していました。
結果として、赤ん坊は死んでしまい、インガーもまた死んでしまいます。
ココに狂人ヨハンネスが絶妙なタイミングで、ほとんどコメディのように関わってきて、「主が見えぬか。主が彼女の命を奪おうとしているのだ」と不吉なのかギャグなのかわからない事をか細い声で唐突に言い放っているのですが、なんと、ホントにその通りになる。
子どもと狂人のみ、何故か会話が成立するという描き方が絶妙です。
本作の原題は「言葉」なのですが、狂人の言葉通りの事態になります。
そんな彼を見た医者(会話から無神論者である事がわかります)は、「この人は治りますよ」と、あっけらかんと言います。
「精神的なショックを加えれば」
果たして、それはすぐに起こりまして、ヨハンネスはインガーを甦らせるための奇跡を起こそうと彼女に近づくのですが、途中で昏倒します。
途中経過は省略しまして、ヨハンネスは正気に戻ります。
医者の言った通りになるんですね(笑)。
そして、ヨハンネスは文字通りの「奇跡」を起こすのですが、それは実際にご覧いただくとして。
本作のほとんどがボーオン家の居間を中心とした、いわば、『奥様は魔女』や『アーノルド坊やは人気者』のようなテレビドラマの形式で描かれていて、ドライエルは、その事を意識していたのかどうかはわかりませんが、シリアスな話しのはずなのに、どこかそう言うテレドラマを思わせる絶妙なタイミングで笑っていいのかどうなのかわからないギャグが入ってくる宗教劇。という、やはりベルイマンともタルコフスキーとも違うドライヤーという映像作家がいる事を痛感せざるを得ない、映画史上の金字塔。