ジョセフ・コシンスキー『トップガン マーヴェリック』
まさかの続編がとうとう公開です!
この作品の続編を望んでいた人はほとんどいなかったと思いますし、やる必然性もほとんど感じなかったです。
正直なところ言いまして、トム・クルーズが続編を作りたいと考えているのがメディアから伝わって来たとか、「はぁ?」とか思えなかったです。
しかしながら、「これ、かなりよい」という感想がネット上で結構出てきましてですね、コレは行ったどういう事なのか?と思いまして、たまたま時間があって見に行きましたら、予想を遥かに超える痛快作なのですよ、コレが!
まだ公開したばかりなので、内容に深く立ち入るような事を書くつもりはございませんが、前作を遥かに超える作品であると言って良いと思いました。
『トップガン』と言えば、アメリカ海軍の全面協力による、ホンモノの戦闘機を用いたものすごいアクションがウリな訳ですが、それが現在の撮影技術を使って、もっとすごいものを提供している事は保障いたします。
そして、コレを映画館で見るだけで、充分に元が取れます。
しかし、私が感銘を受けたのは、実はそこではありません。
トム・クルーズは、良くも悪くも本作によって、世界的な知名度を得たわけですけども、その後の彼が目指していたのは、なんと、アカデミー賞でした。
が、それは残念ながら、彼の力量不足が如何ともし難いものがあり、叶える事はできませんでした。
そこで彼が目指したのは、内面を持たない記号的な役割を持つ主人公です。
「記号的役割」というと、なんだか悪い意味のように聞こえるかも知れませんが、そうではないのです。
記号的。であると言うのは、誰でもないということであり、それはいい同時に誰でもあると言う事なんですね。
つまり、観客が移入できるキャラクターなんです。
例えば、『トップガン』に出演したヴァル・キルマー演じるアイスは、トム・クルーズ演じるマーヴェリックのよきライヴァルを演じておりますが、彼を主人公にしてしまうと、見る側は感情移入しにくいんです。
ヴァル・キルマー演じるアイスなくして『トップガン』は考えられないでしょう。
ヴァル・キルマーは大変素晴らしい役者であり、いろんな役を演じる事のできる人ですけども、内面がシッカリとありすぎるわけです(それが悪いと言ってるのではないですよ、念のためですな)。
クルーズは、いつの時点かはわかりませんが、アクションスターとして記号の役割を果たしていこう、画面では、ひたすら「アクションする記号」であろうとする事を極め、それはやがて、バスター・キートン、ジャッキー・チェンのような、スタントなしで驚くべきアクションをこなす、イーサン・ハントという、マンガのような超人を生み出すに至ったわけです(なんと、すでに2023年に新作公開が決まっております)。
バスター・キートンという、サイレント期に大活躍した喜劇俳優は、もっぱら、その驚異的な身体能力を駆使して、とてつもない作品を作り出していましたが、よく考えると、その内面がまるでない存在を演じていました。
時代を経るごとにその評価を高めている感すらある、バスター・キートン。
現在の映画のようなキャメラワークも編集技術もない映画に於いても、すごいと思わせる映画を見せるためには、必要以上に危険なアクションをしないとすごさが伝わりません。
バスター・キートンのスタントマンを用いないアクションは、一歩間違うと死んでしまうような危険なものばかりですけども、それをあの独特な無表情で何という事もないような感じでこなしております。
「すごいアクションをこなす、内面ない存在」というのは、実は、トム・クルーズが演じでいるキャラクターと同じですよね。
『ミッション・インポッシブル』のイーサン・ハントのアクションはあまりにも凄すぎて、最早リアリティが失われており、それを平然と行う彼の内面はよくわからず、匿名の存在をなのですね。
極端な事を言えば、ダーク・ボガードやマガリ・ノエルでは、イーサン・ハントにはなり得ないんですね(笑)。
そして、ジャッキー・チェンです。
カンフー映画にコミカルな要素を導入したジャッキーの功績はあまりにも多いですね。
1970年代に数多くのカンフー映画の主演をこなした後、自らの作家としてのエゴを示し始めてからの諸作品のジャッキーはどの映画でもジャッキー・チェンという、陽気で正義感の強い、やや直情径行のあるキャラを演じていて、そこにはあの驚異的としか言いようのない、カンフーアクションにキートン的な危険なアクションを3次元に発展させて繰り広げているのですが、このコミカルと凄絶がないまぜになったようなアクションを誰よりも正統的に継承しているのが、トム・クルーズなのですね。
『プロジェクトA』はその後のジャッキー・チェンを決定づけた傑作です。
彼はスターでありながら、ジャッキーのそれと同じ意味で作家になったのだと思います。
ジャッキーがアクションとともに得意とするのが、コテコテとしか言いようのない、時には古いアメリカ映画をそのまんまパクったようなドタバタコメディです。
私はジャッキーのアクションと同じくくらいにこの肉感的な、人種や国籍、文化などの要素に余り左右されないコメディ作家である事は、とても重要な要素だと思うのですが、本作はその要素が幾つも出てくるのですね。
『トップガン』ってそんなドタバタコメディみたいなノリでいいのか?と思うくらいに不安になるのですが(笑)、とにかく面白いので、そんな事はもうどうでも良くなってしまうのです。
この問答無用の演出力は、恐らくはトム・クルーズのアイディアだと思う思われます(本作の実質的な監督はトム・クルーズなのでしょう)。
この発見こそが私の最大の驚きでしたね。
戦闘アクションでビックリさせ、コメディて笑わせたら、後残るは泣かせるという要素が残るのですが、コレもちゃんとあるのです。
そこがこの作品に深みを与えているのであり、これだけの月日を経ての続編である事の必然性を与えています。
最早、『トップガン』は古典的作品でありますから、盛大にネタバレさせても問題ないと思いますが、重要な登場人物にグースという、マーヴェリックの相棒が出てきますが、彼は戦闘機のトラブルによって不慮の死を遂げています。
グースとマーヴェリック。このコンビの話が今回の最大の伏線です。
実はその息子がトップガンの一員として、マーヴェリックのにも姿を現すことになるのですが、その当時シーンが実にうまいですね。
えっ、あの時ピアノに座ってはしゃいていたあの子がこんなになったの?というのもビックリなのですが、グースに驚くほど似ています。
このグースの息子、ルースターとのドラマが実はメインドラマになっています。
あたかも、黒澤明作品における、志村喬と三船敏郎のような、「父」と「子」のドラマが展開するんですよ。
この辺は前作を見た人にはかなりたまらないものがあると思います。
ここは、ライアン・クーグラー『クリード』が、まさかの傑作であったという事と軌を一にするものがありますね。
そして、もう一つトップガンおじさん達の涙腺を刺激しまくるヴァル・キルマーの出演です。
どこでどのように出てくるのかは言いませんが、大変重要なシーンで出てくるんですね。
こういうドラマ部分が薄味で軽薄にすぎるところが前作の最大の欠点であったと思いますが(故にヒットしたのだと思いますけど)、今回の話には、トム・クルーズの人間的な深みがキチンと織り込まれていて、見ていて驚きました。
誰でもない人(つまり誰でもある人)を演じ続けた、ハリウッドスター、ジェイムズ・スチュアートに並んだ。とまでは言いませんが、トム・クルーズが肉体的人衰えた後に目指すべきものが何であるのかが、見えてきた気が私にはしました。
『トップガン』に過多であった、フジテレビのトレンディドラマが継承したであろう薄っぺらいチャラさや、エアコンが効いてないのでは?としか思えないシズル感は程よく本作にも継承されていて、オールドファンをちゃんと安心させる配慮をしているのもさすがだなあと思いました。
本論では言及しませんでしたが、ジェリファー・コネリーがはバツグンに素晴らしいです!
見ていて初めて気がついたのですが、『トップガン』二部作は、いずれもジェリー・ブラッカイマーがプロデューサーなのであり、そう言われてみれば、彼のイズムがものすごく貫かれている作品だよね。という事にも気がつきました。
最後に。
中国からのクレームでポスターから消えた日の丸と青天白日旗満地紅旗が入った、マーヴェリックのジャケットを思い切り大写しにする映像を敢えて映画の中に入れているのは、アメリカ海軍の全面協力で製作されているという、本作の性格を考えると、現在のアメリカの対中政策を考える上でも見逃してはならないでしょう(そこには日の丸も存在します)。
それは公開時期とアメリカ大統領のタイミングかピッタリ合っている事が偶然ではないという事からも容易に想像されます(前作もレーガン政権におけるたいソ連政策を反映した国策映画であると側面が濃厚です)。
とにかく、本作は映画館で見なくてはほとんど意味をなしません(スマホで見る等問題外です)。
是非とも映画館でご覧ください。
特に前作を見なくても充分に楽しめるつくりになっていますので、ご安心を。