無節操なまでに題材を次から次へと変えて撮っていくのが中平康の魅力です!

中平康紅の翼』『あいつと私』『牛乳屋フランキー』

 


黒澤明にとっての三船敏郎増村保造にとっての若尾文子がそうであったように、中平康と最高に相性の良かった俳優は我らが石原裕次郎である事はこの2作を見れば明らかです。


紅の翼』は1958年、『あいつと私』は1961年であり、要するに裕次郎が日活プログラムピクチャーに信じられない本数出ていた事の作品で、裕次郎本人も取り立てて思い入れがあるとも思えないし、敢えてネットで何も調べずに言うので、間違っていたら申し訳ないが、撮影も2週間くらいで終わっているのではないでしょうか。


『紅〜』は、破傷風になってしまった八丈島に住んでいる少年を救うために裕次郎がセスナ機血清を運ぶという、それだけのプロットだけで成り立っている作品で、アンリ=ジョルジュ・クルーゾー『恐怖の報酬』からあのニトログリセリンが爆発するかもしれないという、ジワジワと全体を支配する恐怖の代わりに、ルイ・マル死刑台のエレベーター』のような、計算外のトラブルが裕次郎に迫る、ちょっとした逸品です。

 

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裕次郎がらみで画像が余り落っこちてないので残念です(笑)


非常に限定されたシチュエーションドラマにしたのは、セットに費用がかからず、撮影も楽だからであろう(実際、年に信じられないような本数に主演してたのだ当時の裕次郎は)。


この映画、全然タイプの違う映画であるが、裕次郎芦川いづみ中原早苗滝沢修とメインキャストがかぶっていたりもします。


というか、1958年『日の当たる坂道』と『あいつと私』の原作石坂洋次郎と同じでキャスティングがもっとかぶっているのですが、この作品の一つの重要トピックは、60年安保時代があります。

 

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安保反対運動のシーンもちゃんと出てきます!「COFFEEクロンボ」が現在ではNGです。。


お話が1960年の東京の大学生のお話しなのですから、どうしたって避けようもないんですけども。


しかし、大島渚『青春残酷物語』や『日本の夜と霧』のような陰惨で怒りに満ちた表現というものが全面に来る作品ではなく、かなり裕福な階層に属する人々を描いているので、見え方がかなり違っています。

 

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明らかに富裕な層が学生の中心である私立大学が舞台です。裕次郎はポルシェで通学してます。

 


安保反対運動の活動家の女性が出てくるのですが、この女性が尊敬していた学生運動のリーダーがこの女性をレイプしてしまい、妊娠してしまったりと、なかなか凄絶なドロドロが展開はするんですけども、それを帳消しにしてしまう裕次郎のあの屈託のない笑顔と振る舞い(笑)。

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こういうなかなかの修羅場が出ては来るのですが。

 


今だったら、Me Tooで大変な事になりそうなテーマがサラっと流れていき、この女性は大学生を中退して裕次郎の母親の経営する美容師の見習いとして元気に再起してしまうんです(笑)。


大島渚の作品だったら、ココを容赦なくえぐっていくと思いますが、中原/裕次郎コンビには、全くそういうものがありません。


単に原作がそうなのだから。を超えたモノを感じます。

 

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美容院経営に成功した母親の子どもであるため、軽井沢に別荘すらあるのです!

 


地方と都会の格差、学歴の格差、ジェンダー問題がなどなど、実は現代につながる射程距離を持つ問題が、結構あるんですけども、それを中平演出と裕次郎がすべて相殺していくという、驚異的な構造で出来上がっていて、驚くほど軽快で快活に見ることができるのが実に不思議です。

 

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びっくりするようなところで呆気なく映画が終わってしまうのも驚きです。

 

『あいつ〜』のメインテーマは、一見、一代で成功した裕次郎の家庭の、現在から見ても相当にかっこ飛んだ複雑さを持った家庭環境なのですが、それすらも我らが裕次郎は悠々とあの笑顔で軽々と乗り越えてしまい、腰が抜けます(笑)

 

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母親の元愛人を演じるのが、なんと、滝沢修

この「戦前」と「戦後」のコントラストを説明なしに見せるところが中平演出のうまさですね。


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裕次郎の父親(ヒモです・笑)が貧相な宮口精二というのは、ほとんどギャグですが、コレが伏線です。


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裕次郎滝沢修が腕相撲というのは、なかなか貴重です!


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裕次郎の母親が轟夕起子滝沢修同様、画面が引き締まります!


この問題を深刻に掘り下げるのではなく、むしろ、主人公のバイタリティとかキャラクターで危機をいつのまにか乗り越えてしまう。という中平演出は実は結構一貫してまして、1956年公開の『牛乳屋フランキー』もそうです。

 


『牛乳屋〜』はキノトール原作のラジオドラマなのですが、フランキー堺という、不世出のバイタリティ溢れたコメディアンのフランキー堺を主人公としたスラップスティック・コメディでして、山口県の田舎(映画では一貫して長州と行ってます)から上京してきた田舎者のフランキー堺が、東京(ハッキリとは描かれませんが、出てくる地名から考えるに、世田谷区かと思います)で牛乳の販売店を経営する親族を助けるべく悪戦苦闘するお話しです。

 

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フランキー堺のポパイ刑事を超えるバイタリティが見モノです!よく見ると宍戸錠が!


ここでは、昭和コメディによく使われる(ドリフのコントも田舎者をバカにするものが大変多かったですね)、ステレオタイプ化された田舎者で、終始デフォルメされた長州弁を使いますね。


こういう田舎者のフランキー堺と小狡い都会者の小沢昭一コントラストがいちいちおかしく、それが序盤を回転させていきます。


あと、長州。と終始使われるのは、薩摩が出てくるからなのですが(笑)、実にわかりやすく西郷隆盛ソックリのキャラクターがまんま出てくるベタでして(役名が南郷隆盛・笑)、そのド直球ぶりが爆笑モノです。


筋立てはとてもシンプルで、謹厳実直活動家バイタリティ溢れるフランキー堺が誠実に仕事をする事で、ライバル販売店の悪事が暴露され、お店は見事に立ち直るというモノなんですけども、そこに時代錯誤な明治維新からそのまんまやってきたようなフランキー堺の祖父(フランキーが主人公と祖父の両方を演じています)、水之江滝子のカメオ出演石原慎太郎のパロディである売れない学生小説家(中平の大ヒット作である『狂った果実』のセルフパパロディのシーンすら出てきます)、森永乳業をまんまとスポンサーにつけ、むやみやたらと牛乳を飲むシーンが挿入されるなど、とにかく太々しさが満載です。

 

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フランキー堺一人二役で大活躍です。


ここでのバイタリティと芸の細かさが川島雄三『幕末太陽伝』という大傑作につながっていくんですね。

 


通常、この頃の日本映画のエンドマークは「完」や「終」が普通ですけども、「OWARI」と出てきて終わるのは、ホントに珍しいです(笑)。


この軽快で、見終わった後になんだかわからないけども元気が出てしまう映画を作ってしまうのが、中平康の真骨頂であると思います。


すべてAmazonプライムで鑑賞できます。

 

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OWARI

 

 

なぜ2倍になってしまったのか?を考えてみました。

マイケル・マン『ヒート』

 


アル・パチーノロバート・デ・ニーロのダブル主演で、ヴァル・キルマーやジョン・ヴォイドという豪華なキャスティングで各シーンも大変にみなぎる映像ですし、主演二人の余裕綽々の見事な演技も見られるにも関わらず、総体としては大変凡庸と言わざるを得ない作品。


問題なのは、なぜなのか?という事なんですね。


クライム・アクションというのは、世界各国で腐るほど作られている、ある意味定番ジャンルものですけども、1つの鉄則があると思うんです。


それは警察側から描くのか、それとも犯罪者の側からなのか。ですね。


前者はアメリカ映画の得意とするところで、『ブリット』、『フレンチ・コネクション』、『ダーティ・ハリー』という、鬼刑事を通り越した、やや狂気すら感じさせる刑事の暴走気味の活躍を描くもの。


後者はフランス映画が得意とし、なんと言っても『さらば友よ』が思い出されます。


本作は欲張りにも、両面を描いてしまおう。という点に根本的な問題があります。


アクション映画というのは、胃にもたれてはいけませんに、後に何かを残してはいけません。


出来うれば90分くらいでサクッと終わるのがいいと思います。


しかしながら、この映画、なんと、約3時間もあります(笑)。


なぜなのかというと、善悪両側を描いているからです。


よって単純計算で90×2=180ですから、3時間という結果になってしまうんですね。


そんな単純なのか?と思うかもしれませんが、見ているとホントにそうなんです(笑)。


そして、この脚本の持つ構造がマズいダブル主演を成立させてしまいました。


デ・ニーロとパチーノはともにニューヨーク出身のイタリア系アメリカ人であり、デ・ニーロが1943年、パチーノが1940年生まれで、ともに注目を集めるキッカケとなった映画は、フランシス・フォード・コッポラ監督の『ゴッドファーザー・シリーズ』です。


2人ともオスカー俳優ですし、刑事やマフィア、ギャングなどの犯罪者役が多い事も実は似てます。


要するにキャラがモロに被りすぎているんです。


当人たちは仕事をするという上では恐らく台風の眼にいる状態でしょうけど(実際の両人の内心は知らんですが)、それぞれのエージェントが相当にピリつくのは、想像に難くありません。


パチーノが家庭を顧みない鬼刑事、デ・ニーロが冷徹な仕事ぶりの犯罪者をそれぞれ演じる。というのは、ビジネス上、譲歩の余地がないですね。


つまり、どちらかがウケの演技に回ることができないんですね。


『フォードvs フェラーリ』ですと、クリスチャン・ベイルに対し、マット・デイモンがうまくウケの演技をする事で双方がとても活きているんですけども、パチーノとデニーロではギンギンなんですよ(笑)。


もう公開してからかなりの年月が経過しているのである事をバラしてしまいますが、驚く事にこの2人が同じ画面に一度も映っているシーンは、わずか一つ!しかもボンヤリです!!


3時間もあるのに(笑)!

 

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なんと、二人が同じ画面に確実に写っているショットはコレだけです!デニーロがボケボケ(笑)!


パチーノとデニーロが直接向き合うシーンは実はたったの2回しかないんです。


最初はダイナーでコーヒーを飲みながらの会話シーンなんですけども、コレが小津映画の会話シーンと同じで、画面の切り返しでのみ表現されるんですね(笑)。

 

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ホントにコレの連続です(笑)。本人である必要が全くないです。

 

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コレ、本人である必要ないですよね(笑)。


で、カット数がそれぞれに全く同じ数だけあって完全に均分されています。

 

一応、肩越しの後ろ姿がそれぞれ映りますが、絶対に本人ではなく、代役でしょう、コレは。


まさか、こういう、1970年代を彷彿とさせ骨太な映画に小津安二郎のショットが出てくるところに私は腰が抜けましたね(笑)。


多分ですが、「出演ショットが同数である事」という契約になっているんですよね。


全部数えてなどいませんが、恐らくはホントにホントに同数なのではないかと(笑)。


次のシーンはラストの二人が一対一で対決するシーンなんですけども、コレすら同じ画面に二人は収まる事はなく、モンタージュをひたすら繋いでいくいう、前代未聞の演出が取られていて、呆気に取られます。


コレがそれ以外の重厚な演出をすべて相殺してしまい、凡作にしてしまってますね。

 

最初の犯行シーンは全体のアクションの白眉だと思いますが、ものすごいワクワク感があるんですよ。

 

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リアリズムに徹したアクションにこそ、マン監督の本領があると思います。

 


しかし、それと同じだけの長さのパチーノのシーンがやってくるので、ボヤけてしまってキレが全くないんです。


あと、このダブル主演によるピリつきがお話しのプロットすらも歪にしてしまい、とにかく「パチーノ、デニーロが最優先」みたいな作りになっていて、それ以外のぶぶがかなり雑でムリくりくっついているような塩梅で、それもムダに本作を遅延させ、おもろさに微塵も貢献しません。


なかなかいい身体のキレを見せる、デニーロの手下役のヴァル・キルマーの存在感が、完全に減殺されてますし(キルマーの能力の問題ではありません)、ジョン・ヴォイドが思い出したように数度登場するんですが、実に印象に残らず、唐突に出てくると「あっ、そうだ。ヴォイド出演してたんだよな」としか認識できないんですね。

 

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銀行強盗からの警察との銃撃シーンの迫力はホントに素晴らしいですね。この素晴らしさが緩慢な構成でダメになっているんですね。。

 


ちなみに、ヴォイドとデニーロは同じ画面に映って共演してますよ。二人ともオスカー俳優ですけども。


話がやや飛びますが、実はこの映画、リメイクです。ってココで言うとズッコケますでしょうか(笑)。

 


しかも、マイケル・マンが1989年に作ったテレビ映画『メイド・イン・LA』です。


驚くなかれ、このテレビ作品、92分なのです(笑)。


リメイクしたら2倍になったというね(笑)。


この作品は善悪両側を見せたいという、欲張りな欲求が生み出したのか、それとも、ぱちとデニーロを押さえることに舞い上がってしまった結果なのか定かではないですけども、要するに2倍になるという宿命が埋め込まれてしまっていて、そこからマン監督は逃れられなくない状態で作っていたわけなんです。


プロットはオリジナルと大体同じらしく、本来のバランスならば、午後ローでもちゃんと放映できるサイズにできたんです。

 

それをさせなかったのは、監督の方針ミスであり、キャスティングミスですね。


これによって脚本が歪になってしまい、いろんなところに皺寄せが押し寄せ、作品はムダに肥大化しました。

 

私はこの非常に優れたアクションシーンを活かすために、パチーノ側から描いた映画とデニーロ側から描いた映画をこの映像から2作作ったらどうなのか?と思うんですね。

 

足りないシーンを撮影し、当時の映像と違和感なく合わせ(デジタル技術だとできてしまいそうでズッコケ)、それぞれに90分くらいのアクション映画に作り上げたら、評価が上がるのではないでしょうか。

 

2人の共演はその後、2回あるのですが、コレはどうなっているのかも確認したいものです。

 

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脚本とキャスティングが映画は大事ですよねえ。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

皮肉の効いたラストがヒステリックになっていた米国人を怒らせるキッカケとなったのは、今もって残念。

チャールズ・チャップリン『殺人狂時代』

 


製作、監督、脚本、主演、音楽をこなす、チャップリンの戦後初の映画にして、赤狩りの直接のきっかけともなってしまった作品(ちなみにチャップリンは1930年代からFBIに危険人物として、すでにマークされています)。


なんと、放浪紳士チャーリーのキャラクターを完全に捨てて、重婚と殺人を繰り返す、アンリ・ベルドゥーというフランス人を演じているのがまずもって驚きです。

 

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チャップリンのファッションセンスの良さはなかなかの見どころです。

 


従来の巻き込まれ型のスラップスティックなキャラクターではなく、自ら意思を持って犯罪を犯しているキャラクターですから、全くの真逆です。


しかも、ボロボロの格好をしている(しかし、プライドは持っている)チャーリーではなく、大変にお洒落な格好をしており、チャップリン本来の洋服を着こなすセンスが伺えるのも特筆すべき作品です。


時折目につくサイレント期を思わせるような演出は、流石に当時でも既にオールドスクールだったと思いますが、その芸風に衰えというものが全く見られないところはさすがというほかありません。

 

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汽車に乗ってフランスの各地にいる愛人たちのところにいろんな偽名や職業を名乗って、べらぼうな早口(チャップリンの早口はハンパではないです)でだまくらかすテクニックは余りにも流麗で、呆れてしまいますよ(笑)。

 

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毒を調合して殺人を計画するが。

 


意図的に大時代的にし、自分をやや自虐的に表現しているところが、やはり、チャップリンがイギリス人である事に改めて気がつきます。


とは言え、チャップリンはサービス精神のあるひとですから、往年のファンを置き去りにするような、ブラックな犯罪劇のみを見せたりはしてません。


アナベラという女性を殺そうと画策する場面でのおかしさはやはり、チャップリンファンをホッとさせますね。


殺人事件なのに、ホッとするというのも何ですが(笑)、ボートのシーンのバカバカしさ。

 

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本編の白眉の一つはやはりボートのシーン!チャップリンはトコトンうまいです!


途中からヨーデルが聞こえるがホント爆笑モノです。


この殺人に失敗してしまう、ちょっと京唄子を思わせるアナベラという女性を愛人にしてしまったのが、チャップリン演じるベルドゥーの運のツキでして、この女性が出てくると、彼の計画はことごとく壊れていきます。

 

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どう壊れていくのかは見せ場ですので、是非ともご覧ください。

 

しかし、この映画の真骨頂はそこではないんです。

 

この作品、1929年が舞台となっています。


なぜわかるのかというと、ニューヨークのウォール街の株価の大暴落が始まり、コレが欧州に押し寄せ、やがて、ファシズムの台頭が描かれており、ベルドゥーはコレによって経済的に破滅してしまうんです。


そんなに丹念には描いてませんが、1920年代と1930年代の勝ち組がガラッと変わる姿を結構冷徹に見せてますね。


この辺が赤狩りにかかってしまう原因となったものと思われます。


後半の描写がやや唐突で、もしかすると、当時の表現としては際どかったのか、カットしているような気がしないではないですが、ベルドゥー氏が自分の「運命」を受け入れるキッカケとなったものは一体なんだったのか。を実際にご覧になってお確かめください。

 

こういう皮肉の効いた作品をもっと見てみたかったですねえ。

 

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なぜ、この様な犯罪を繰り返すのか?が本作の核心です。

 

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死刑判決後の短い演説は為政者への痛烈な皮肉です。『独裁者』と合わせて見たいですね。

 

 

 

 

 

意味とかリアルを失っても残存する気分こそが映画なのではないのか?

中平康『月曜日のユカ』

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このタイトルのカッコよさ!

 

 

中平康の生前の評価は芳しいものではなかったようです。

 

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中平康。果たして、満足できた映画をどれだけ作れたのでしょうか。。

 

 

たしかに、同世代といってもよい、市川崑増村保造岡本喜八という監督と同じような評価を現在でも受けているのか?というと、それはないと思います。

 

同じテクニシャンであった市川崑は中平と比べて明らかにスタッフに恵まれていたし、なんといっても奥さんの和田夏十が名脚本家でしたから、市川はキャメラや編集に熱中していればよかったところがあります。

 

しかし、中平が在籍した日活は東宝、松竹、大映東映よりも厳しい環境でしたから、作れる作品は、青春路線しかありませんし、大物スターではなく、なんとか発掘したニュースターを起用したものにならざるを得ず、それはプログラムピクチャーのみです。

 

そういう劣悪な環境に置かれていた中平が取った方法論はロケーション撮影の多様です。

 

本作は横浜のほぼ中区の出来事ですので、ひたすら横浜ロケ撮影であり、屋内のみセットです(車のシーンもセットですね。コレは予算の問題でしょう)。

 

パパの資金援助を受けながら生きている、加賀まりこ演じるユカの生き様は、例えば、増村保造作品の常連であった若尾文子のような強烈な意志の力や強かさを持った強力さがあるわけではなく、しかし、確実に劇中の3人の男性の人生を狂わせ、この内の2人は死にます。

 

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加藤武演じるパパの愛人であるミカ。

 

加賀まりこはまだ売り出し中の女優で、演技はお世辞にもうまいとは言えませんが、この小悪魔的な存在感は今見ても強烈です。

 

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小悪魔的としか言いようのない加賀まりこの魅力が満載です!

 

 

中平の、ほとんどルイ・マル地下鉄のザジ』的とも言える、過激にしてポップなテクニックで、加賀まりこの魅力を存分に見せつけているというだけで本作の存在意義は充分であり、他の問題点は霞んでしまいます。

 

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ななんと、中尾彬が出演してます!

 

 

小津安二郎溝口健二のような巨匠は、とても文章にしやすいし、いくらでも「テクストの快楽」に満ち満ちています。

 

が、中平のそれは、快楽はあるのですが、それを言葉として伝えるのがとても難しいんです。

 

難解なのではなく、むしろわかりやすいくらいなのですが、しかし、言葉にしてしまうとその魅力が雲散霧消してしまうというのか。

 

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とにかく、スタイリッシュでモダンが感覚が素晴らしい!

 

 

すべてが映像それ自体によって語り尽くされてしまっていて、その背景というものは全く存在していないかのような塩梅なんですね。

 

キューブリックゴダールなど、一体どれほどの事が語れるのか?というものと真逆なんです。

 

似ている監督に、藤田敏八がいると思います。

 

この監督はイザとなると、キッチリとした娯楽アクション活劇である、『修羅雪姫』二部作のようなエンタメも作れるのですが(タランティーノを大感激させ、『キル・ビルvol.1』に多大なるインスピレーションを与えた事は言うまでもありません)、この監督の真骨頂は、なんとも言えない、都会の空気感とか雰囲気です。

 

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内面がない。という事をここまで開き直って見せてしまうと、清々しさすらあります。

 

 

そこには際立った主張があるわけではないし、エモーションも希薄です。

 

しかし、断固としてそこに映画でしかなし得ない表現と感銘があるのですが、コレが文章として表現しにくい世界です。

 

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こんな、アントニオーニみたいな映像も出てきます。

 

実際、中平康論とか藤田敏八論というのは、私の不勉強もありますけども、黒澤明岡本喜八のように、多いとは思えません。

 

本作は、なんともリアリティというものが欠落していて、実にファンタジックでそれと同じくらいにモダンでシャープなのですけども、実はリアルでない。というものは、日本映画のお家芸です。

 

黒澤明『用心棒』や深作欣二仁義なき戦い』は、前者はかなりシュールなお話しですし、後者は実録という名ファンタジーです。

 

しかし、本作は根本的なリアリティがまるでないんです。

 

この徹底さは、日本映画の中でも抜きん出ていていると思います。

 

鈴木清順ですら、どこかにギクリとするリアルがむしろあるわけです。

 

それは、若い頃の戦争体験のような気がするのですが。

 

中平も戦前生まれですから、「戦争体験」はあるでしょうけども、彼には、そういう経験とかそういったものから滲み出てくるものが丸っきり見えてきません。

 

情緒も希薄で、ボリス・ヴィアンの小説の世界のようなスカスカ感があります。

 

とにかく、日本人離れした華麗さと類い稀なセンスで都市の空気感を見せてしまうという一点に於いて、中平康は今もって輝いており、その映像は決して古びて来ず、オシャレでカッコいい映像を作りたいと思う人々にとって今もって教科書だと思います。

 

そして、この快楽は映画館で体験するのを至上とします。

 

本作はDVDで楽しむものではなく、あくまでも映画館という空間でこそ活きる世界ではないでしょうか。

 

中平康作品は近年は再評価が高まってますので、機会がありましたら、是非とも映画館で鑑賞ください。

 

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何という濃密な4時間!!

胡波『象は静かに座っている』

 

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アジアの映画で4時間の長編。というと、映画好きな方ならば、エドワード・ヤン『クーリンチェ少年殺人事件』を思い起こすのではないでしょうか。


実は本作もある過失事故死がお話しの中心となっているんですね。


しかも、それによって見えてくる、現代中国社会の閉塞感が浮き彫りになってくるところなどは、明らかに胡監督自身、意識していたのではないでしょうか。

 

しかし、両者の演出は明らかに違います。

 

エドワード・ヤンは、登場人物へ決してキャメラが迫っていかず、実に絶妙な距離感を厳密に保ちながら撮影されていくのですが(この『距離感』はヤン監督の独断場ではないでしょうか)、胡波は小型の手持ちキャメラ一台で動きま回りながら、しかも、驚くほど役者にまとわりつくように執拗なまでにキャメラが近いんですね。

 

しかもほぼ全編です。


なので、役者がどうしてもカメラ目線になってしまいます(映画のセオリーでやってはいけない事の一つですよね)。


それをなんとも思わず、執拗なまでに追い回すように撮影しているんですね。


このような撮り方ですから、自然光のまま、暗い場面は暗いままです。


また、常にキャメラは登場人物にかなり接近してますから、常に写っている場面の全体像が常に見えません。


時には、ピントを意図的に周囲をボンヤリとしたまんま、つまり、登場人物の主観のまま写したりもするんです。


つまり、そのような撮影手法それ自体ががそのまま登場人物たちの持つ閉塞感やイライラ、ひいては現在中国社会の抱える問題を表現しています。


また、全編が曇天であるのも、とても鬱々とした負のエネルギーを感じさせます。


さて、本作は4時間にも及ぶ大作でありながら、驚くべき事に、ある冬の1日のみに焦点を絞って描いているのも驚異的です。


河北省の寂れた都市(ストーリーの終盤になって、駅が出てきて、ようやくそこが石家荘市である事がわかります)のあさから夜にかけて、ほぼ一日を描いているのですが、なぜこれほどまでに長くなるのかというと、事実上、4人を主人公とし、それぞれをジックリと描くような演出を取った結果として長くなっているのであり、無闇矢鱈と長くなっている映画ではないという点は注意すべきです。


実際に見ると、どこにもカットしなくてはならないようなショットは見当たらず、その余りのストーリーの構成の見事さに驚いてしまいます。

 

先ほども書きましたが、本作の中心となる出来事はある高校生が事故で死んでしまう事がキッカケとなるわけですけども、エドワード・ヤンの映画は悲劇的な殺人は最後に突然訪れ、実は全編を丹念に見ても、それほど明確にその原因は言葉で説明する事は難しいです。


というか、ヤンの『クーリンチェ〜』は、一度見たくらいでは容易に理解できるように作られておらず、また、殺人を犯してしまう少年がある事情で夜学の中学校に通っていたため、必然的に夜の場面を中心に描く事となり、実は画面がいつもハッキリとしておらず、しかも、あまりキャメラは寄りませんから、登場人物の顔の判別が、時々わかりづらいですし、極力説明しないでストーリーが進む事が理解を容易にさせません。


コレに対し、本作は人間関係は非常に錯綜しますが、主要の4名の関係が明確であれば、ストーリーを理解するのはさほど困難ではありません。


事故死が起きてしまう原因も10代の今時の男の子らしい、いつの世も変わらない様なものなのですが、そこでのちょっとした、運命の皮肉やすれ違いのようなものが、登場人物を思わぬ方向(それはしばしば不幸な方向となります)に転げ落ちていきます。


その様子を主要な4人に執拗につきまとうようなキャメラワークによって、ジックリジックリと丹念に積み重ねていく様に描いていきます。

 

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このように、歩いている登場人物を背後から必要に追いかけるショットはとても多いです。

 


よって、時間経過がとてもゆっくりとなり、映画の序盤は話が見えにくくできてますが、それこそが胡監督の意図である事を知るべきですね。


主人公の4人は高校生の韋布(ウェイ・ブー)、と黄玲(ファン・リー)、おじいさんの王金(ワン・チン)、ギャングスタの于城(ユー・チェン)です。

 


この4人の朝から始まります。


韋布の父は、脚を複雑骨折しているようで、失業しています(なぜ失業しているのかは、後にわかります)。


明らかにイライラしていて、息子に朝から怒鳴り散らしています。


母親が懸命に働く事で家計が成り立っているようです。

 

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ブー。


黄玲は母子家庭であり、母親はセールスマンをしていて、疲れ果てていて、家事はほとんどやっていません。

 

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リー。


王金は、娘夫婦から「娘の教育にカネがかかる」だの、「娘の勉強部屋がない」だのといい、露骨に老人ホームに入室する事を勧められていて、疎まれています。

 

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家族から疎まれる老人は犬と町を彷徨う。

 


ギャングスタの于城は、愛人の家に入り浸っています。

 

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ギャングスタのチェン。親からも妻からも疎んじられている。

 


そんな、一見、バラバラなのですが、家に居場所を失っているという共通点のある人々が一つの事故を巡って複雑に絡み合っていく、様子を丹念に描いているのですが、その事件とは、韋布が高校で起こしてしまった、過失殺人です。


彼の友人の黎凱(リー・カイ)が「スマホを盗んだ」という疑いを于帥(ユー・シュアイ)にかけられました。

 

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金持ちの息子であるシュアイはカイを疑っている。


于帥の父は経営者で、要するに金持ちの息子であり、しかも手下を引き連れているような、いわば、ジャイアンにしてスネ夫のようなキャラで、「休み時間に階段のところに来い!」と学校に着く早々、韋布と黎凱にカマシをかけています。


黄玲と韋布と同級生で、「帥はお兄さんがヤバい人だから、関わってはダメ」と警告するのです。

 

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しかし、韋布と黎凱は休み時間に階段のところに向かいます。


「お前ら、よくも来やがったな。オレのスマホを盗みやがって。土下座して歌を歌いやがれ」


ジャイアンキャラをむき出しにして2人にカマシてきます。


しかし、コレを韋布はコレを拒否して、黎凱を守るために帥に襲いかかるのですが、勢い余って于帥は階段から転げ落ちてしまい、そのまま動かなくなってしまいます。


于帥は救急搬送され、授業はなくなってしまいます。

 

この搬送された于帥の兄がギャングスタの于城なんですね。


で、韋布の住んでいるアパートと同じ階に住んでいるのが、王金老人なんです。


于城の手下は「韋布が于帥を殴って、階段から突き落とした」と誤解していて、韋布の居場所を突き止めるために、韋布の自宅に行くのですが、丁度、あてもなく、街中を彷徨っていると、飼い犬を逃げた飼い犬に咬み殺されてしまった王金がアパートに戻ってきたんですね。


その手には、ビリヤードのキューがあります。


このキューは、韋布が通っているビリヤード場に保管していたキューで、彼は事故を起こしてしまった事もあり、もう家にいるのがイヤになってしまい、家出の費用を捻出するために換金できまいか?と思っていたら、街で偶然、王老人と出会い、お金に替えてもらったんです。

 

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スマホやキューなど、小道具の使い方が実にうまいです。

 

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このように向き合った会話がとても少ないですね。

 


しかし、このビリヤード場は、実は、ギャングスタの于城のシマであり、このキューを韋布が使っていた事を知っていたんで、手下が、「あのキュー、見覚えがあるぞ。お前、韋布の知り合いだな?居場所を言え!」と、この事故の一件に巻き込まれてしまう事になります。


という事で、実に巧妙に、少年が起こしてしまった事故(結局、病院に搬送された于帥は死んでしまいます)によって、この4人が非常に絡み合った物語を展開させていくんですね。


ルイ・マル死刑台のエレベーター』を遥かに複雑にしたような複数のお話を同時進行させ、時には時系列を若干前後させて進めていくんです。


この実に複雑な絡み合い、そして、実はこんな事でした。という事実がゆっくりと明るみになっていく事で、それぞれの人物が抱えている様々な苦悩が明らかにされていくのですが、そこにこの事故死から派生する様々なリアルが、鉛のように重苦しく、作品全体を覆う閉塞感を作り上げているのは、もう見事という他ありません。

 

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このようなショットがよく用いられます。


『クーリンチェ〜』は、殺人事件に至る

過程を見せながら、実は、台湾社会の複雑な状況それ自体を重層的に描く作品でしたが、本作はその逆で、事故を着火点として、中国の地方都市に住む人々の抱える様々な問題を噴出させて見せた。というところに面白さがあります。


この居場所を失った人々が目指すのが「満州里の動物園にいる象」なのですが、監督がここに込めたものは明確ではありません。


本作に特徴的な「執拗なまでに登場人物を追い回すようなキャメラワーク」についてはすでに述べましたが、本作のラストシーンは唐突にキャメラは固定され、人物たちをかなり遠くから撮影するアングルになります。


初めて画面の全体が見渡せる構図になるのですが(注)、しかし、このシーンは深夜の屋外なので、真っ暗でやはり、全体がよく見えないどころか、そこが一体どこなのかすらわからないんです。

 

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テオ・アンゲロプロス霧の中の風景』のラストシーンのような、暗喩的なシーン。 

 

長距離バスが照らす明かりのみによって、ようやく一部が見えている程度で、画面もコレが誰なのかが、辛うじて判別できるくらいの距離で撮影されています。


恐らく、バスの休憩のための停車なのでしょうが、しかし、そこは一体何なのかが、全くわからないように撮影されていて、夢のようにも見えます。


バスから降りてきた人々は、休憩のリクリエーションをしているのですが、そこである事が起きます。


大事件でも大事故でもないのですが、それについての説明はなく、映画はスッと終わってしまいます。


監督が最後に私たちに見せたものは、一体何だったのか?は、一言では言えませんけども、コレは実際にご覧になって、それぞが自分に問いかける他ないのではないかと思います。


それにしても、コレほどの巧みな演出を20代の監督が行ったという事実は、驚愕というほかありません。


しかも、本作の完成後、胡波監督は、自殺してしまい(享年29歳)、長編デビュー作にして、遺作となってしまうという、痛ましい事実があります。


コレほどの才能を示した監督の次回作は最早見る事はできません。


彼がなぜ自殺してしまったのか?という経緯を私は全く知りませんが、この余りにも若い才能の死を惜しむばかりです。

 

 

(注)実は、このような画面は映画でもう一つ出てきます。

それは于帥が搬送された病院のシーンで、廊下いる家族たちを遠くから見つめているようなアングルで、母親が「警察に通報よ!」と息子が亡くなった事に逆上している場面なんですね。

恐らくはこのシーンとラストシーンが一つの対になっているものと思います。

文章の構成上、このシーンへの言及は敢えて省きました。

 

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RIP

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

非常に正攻法の男の子必見のドラマです!

ジェイムズ・マンゴールド『フォードvsフェラーリ


1966年のル・マン24時間耐久レースをめぐる、まさに男のドラマです。


史実があまりにも劇的であり、カーレース史に残る出来事なので、ある意味、盛大なるネタバレ案件です。


坂本龍馬が明治直前に暗殺される。くらいの出来事なのですね、カーレースの世界では。


この映画のタイトルは原題通りであり、たしかに、そこが描かれているんですが、実はそれほどメインではないんです(事実、フェラーリ側のシーンはそんなに多くないです)。


この映画のタイトルをこのようにする事で、真のテーマを意図的に監督も隠蔽しているんですね。


本作はフォードのドライバー、ケン・マイルズと彼の才能を見抜き、協力した、キャロル・シェルビーの物語が実は中心であり、そこを掘り下げている作品ですね。

 

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実際のケン・マイルズです。

 

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実際のキャロル・シェルビー。


ベビーブーマーたちが免許を取り、車を乗る時代がやってきた事を考え、フォードの重役、リー・アイアコッカ(のちにフォードの社長になる、あのアイアコッカです)は、「彼ら彼女らにアピールするカッコイイ車を作りたい!そのために、フェラーリを買収しましょう!」と持ちかけるんです。

 

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アイアコッカフェラーリを買収しようとしますが。

 


ル・マン24時間耐久レースで無敵を誇っていたフェラーリは、実は頑固な町工場のような経営を貫いていたことが災いして、経営が悪化していました。


フォード2世も、ちょうど経営の刷新を考えており、アイアコッカの考えを受け入れ、フェラーリの買収に乗り出すのですが、なんと、フィアットに既に出し抜かれていて、フェラーリはフォードを足蹴にして、フィアットと手を結んでしまったんです。

 

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ヘンリー・フォード2世。かのヘンリー・フォードの孫です。


コレに2世は激怒し、何としてもフォードはル・マンフェラーリに勝てるマシンを作れ!という事になるんです。


そこで白羽の矢が立ったのが、アメリカ人で初めてル・マンで優勝した経験のある、キャロル・シェルビーが立ち上げていた「シェルビー・アメリカン」というスポーツカーの設計会社だったんです。

 

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シェルビーは、心臓の病気があったため、レーサーを引退して、スポーツカーの設計会社をし、成功を収めていたんですが、やはり、レースの世界への未練がありました。


シェルビーは、フォードの資本力があれば、すごいマシンは作れる事がわかってましたが、強豪フェラーリに勝つには、並大抵のドライバーではダメであると思っていました。


そんな彼が見出したドライバーがイギリス人のケン・マイルズです。

 

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シェルビーはマイルズの才能を見抜きます。

 


マイルズは典型的な天才肌で、アメリカに渡って、カーレースの世界でかなりの成績を出していたのですが、普段の自動車修理工の仕事があまりうまくいっておらず(賞金だけで食っていけるレーサーというのは、限られています)、経営する修理工場を税金の滞納で差押えられてしまうような体たらくで、全くダメな男でした。


人間的にはかなり問題のある人物ですけども、そのポテンシャルの高さを見抜いたシェルビーは、彼をスカウトするのです。


しかし、マイルズは「フォードみたいな大企業が好きなようにマシン作られてくれると思えない」と承知しません。


しかし、試作品の試乗に無理矢理誘うなどし、シェルビーは何とかしてマイルズをチームに引き入れようとし、努力したのが功を奏し、とうとうチームに入ります。


が、やはり、その尊大なキャラクターがアダとなり、1964年のル・マンの「シェルビー・アメリカン」のチームドライバーとしては招集されませんでした(史実では1964年はシェルビーのチームは参戦しておらず、デイトナレースなどに参加してます)。


チームの車両がすべてリタイアという散々か結果で終わったため、チームの再建をするためにフォードの責任者が、変わったのですが、シェルビーたちと対立している重役が就任し、もはや、アイアコッカはほとんど手出しできなくなります。

 

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このレオ・ビーブが実にムカつくキャラでございます(実際はそうではなようです)。

 


その中でも、シェルビーやマイルズたちは、フェラーリに勝つために必死で、マシンの改良に次ぐ改良を重ねていくのです。

 

さて、ここまでがお話の中盤なのですが、ほとんどフェラーリが出てこないですよね?


序盤のアイアコッカの買収交渉にエンツォ・フェラーリが出てきて、フォードを散々に罵倒するところだけです。


あくまでも、フォードのチームの中のドラマが描かれているんですね。


この映画が非常に好ましく思うのは、この元々の事実に大きな変更を加える事なく、見せている事なんですね(一番大きな変更は1965年のル・マン参戦が省略された事くらいです。途中リタイアです)。


その正攻法が何よりも良いですけども、やはり、ケン・マイルズを演じる、クリスチャン・ベイルが素晴らしいですね。


私は今ひとつ彼の魅力がよくわからなかったんですが、本作では、この変人を見事に演じてます。


彼の代表作と言ってよいのではないでしょうか。

 

そんな彼を引き立てる役回りをマット・デイモン演じるシェルビーがやっているわけですけども、コレまたいいですね。


この二人のしょうもないケンカシーンとか、まあ、大きな男の子ですね。

 

男の変わらないところを非常に端的にわかりやすく見せる。映画ですね。


カーレースに夢中になっている大きな男の子たちの映画ではあるわけですけども、しかしながら、彼らにカネを出しているのは、世界的な大企業、フォードなんですね。


フォードがル・マンに参戦したのは、要するに車を売りたいからなんです。


エンツォ・フェラーリに「この2世のボンボンが!」と罵倒されたのはありますが、フォード2世は、本質は冷徹な経営者なのであり、ル・マン参戦はあくまでもビジネスです。

 

そもそもが夢ばかり見ているマイルズやシェルビーとは相いれないわけなのです。


この二人は人間的には、明らかにフェラーリ寄りな、凝り性の職人てやんでえ体質なんですね。


それが、1966年のあのル・マンの結果になるんですけども、ここは事前情報なしで見た方が面白いと思います(私も知らずに見ました)。

 

こういう男臭い人間ドラマが正攻法で丁寧に描かれているからこそ、CGではなく、ホントにレースマシンを爆走させて撮影した迫力満点のレースシーンが活きるんですね。


コレは映画館で見たかった!!

 

ティーヴ・マックイン。という名前が映画の中でチラッと出てきますが(クリスチャン・ベイルの役作りがマックインに似せていますよねね)、彼が活躍していた時代の、ちょっとほろ苦さのあるハリウッド映画の良さが全編に感じる、実に素晴らしい作品でした!

 

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そっちから見せるの?なるほどね!という傑作ネオ透明人間

リー・ワネル『透明人間』

 

一体何回目のリメイクなのかわかりませんが、「なぜ今更?」としか思えなかったのですが、いやいやどうして、コレはめちゃくちゃ面白かったですよ!


ドント・ブリーズ』以来の傑作ホラーサスペンスです!


「透明人間」って映画的にものすごく美味しいネタだと思うんです。


要するに見えないわけですから、クリーチャーとかを作る必要がないですよね。


安上がりなんですよ(笑)。


でも、透明人間というのは、存在それ自体がなくなっているわけではなくて、見えないという事ですから、それこそ、人の気配は消えませんし、転んだりしたら、ドスンと音がしてしまいますよね?

 

映像として、「実はここに透明人間がいるんですよ」という事を、いろんな方法で見せる事それ自体が楽しいわけです。

 

なにしろ、1897年にH.G.ウェルズの小説が発表されると、コレを原作として1933年にはもう映画になっているんです。


それから、まあたくさんの透明人間映画が作られているですけども、どうやって透明人間になるのかという透明人間である「科学的根拠」もいろいろ工夫されてますが、共通しているのは、透明人間側から描いている事が多く、透明人間という存在それ自体の面白さのバリエーションにだったように思います。


が、本作はウェルズの小説を原作としつつも、透明人間の悲劇、喜劇に注目してするのではなく、メインとなるのは、なんと、女性の自立なんですよ。


しかも、透明人間は、マッドサイエンティストによって作られた、ものすごいハイテクで作られたスーツなんですよ(笑)。

 

有り体に言えば、士郎政宗攻殻機動隊』に出てくるようなアレです。


ですから、透明人間になってしまった事による悲劇みたいなものはないんですね。


何しろ、特殊なスーツ着ているだけですからね。


というネタバレがあっても、この作品の面白さは些かも損なわれません。


このお話しは、R.ケリーを地で行くような、女性を極端なまでに拘束するようなかなり病的な研究者から、奥さんがいかにして逃げるのか?というサイコサスペンスになってるんです。


映画の冒頭が奥さんがサンフランシスコの郊外にポツンとたっている超モダンで恐ろしく厳重なセキュリティに守られた邸宅(このセキュリティがあくまでも侵入者から守るためにあるのではなく、嫁を屋外に一歩も出さないためのものであるのところからして異様です)から、なんとか逃げ出すところから始まります。

 

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目の下に最大なクマのメイクまでして頑張るエリザベス・モスの熱演が見ものです!

 


この奥さん、セシリアは、ジョーンズという友人の黒人刑事の家にいるしばらく逗留する事にしたのですが、いつまた狂った夫が連れ戻しに来るのかが、恐ろしく、家から一歩でも出るのがコワイんですね。

 

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ジョーンズたちもこの事件に巻き込まれていく事に!

 


そんなセシリアの事をジョーンズとその娘さんは心配しているのですが、そんな所に妹がやってきます。


なんと、夫であるアドリアンが自殺したと。


しばらくすると、遺産相続があるので、アドリアンの兄トムが手紙をよこしてきました(アレッ、ここに逗留している事がどうしてわかったんでしょうか?)。

 

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アドリアンの兄、トム。彼もまたアドリアン支配下にあるのでした。。

 


トムは、「500万ドルが相続される。毎月10万ドルずつ支払います。ただし、犯罪を犯したり、心身喪失状態になった場合は支払いを停止しますが」と告げます。


実は、ジョーンズの娘、シドニー美大への進学を考えていたのですが、セシリアは、この相続のお金の一部をシドニーの進学のためにあげる事にしました。


なんだか、呆気ないほど、人生が好転してしまうんですが、セシリアの人生はここから一挙に暗転していきます。


サスペンスものですから、ここからは内容に立ち入る事は極力避けて、話を進めていきましょう。


おわかりの通り、この暗転の原因はもうタイトルでバレていますから、言ってしまいますが、セシリアの人生が驚くべき速度で暗転していく原因は、サイコ野郎のアドリアンです。


この暗転のさせ方が、まあ、エゲつない。


この男の狡猾な頭脳とサイコな内面が透明人間スーツという、自ら開発したハイテクと結びつく事で起こる出来事。


この見せ方がもう、とにかく映画的な快楽に満ち満ちていて、ホントに堪能できるんですね。

 

 

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透明人間の見せ方それ自体は、もはや、現在のCGの水準を超えるものではなく、それほど驚くべきものではないんですが、本作の面目躍如は、その見せ方であり、アドリアンという人間の完全に狂った欲望、そしてそれを貫徹しようという意思と行動力の凄まじさに圧倒されるんですね。


とにかく、「見えないサイコ野郎」というのは、こんなにも恐ろしいのかと。


コレにひたすら翻弄される、セシリアを演じる、エリザベス・モスの演技がホントに素晴らしいです。

 

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透明人間というは、内容の性質上、透明人間でないもののが演技するしかないので、事実上の一人芝居になるんですけども、モスの熱演は見る者をサスペンスに没入させますね。


当然の事ですが、監督であるリー・ワネルの脚本が実に素晴らしい事は言うまでもなく、サスペンスの成否のかなりの部分はやはり良くできた脚本です。


で、ほぼサイコ夫に一方的にやられまくっているセシリアですけども(その肉体的、精神的な追い込み方は尋常ではないです)、この反転攻勢がコレまた信じられないところから開始されます。


そして、実に清々しいラスト(笑)。


とにかくですね、荒木飛呂彦ファンにはたまらんと思います。


タイトルからは到底想像もつかない、実に映画的な見せ方に徹した秀逸なエンターテイメントでした!必見!

 

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