胡波『象は静かに座っている』
アジアの映画で4時間の長編。というと、映画好きな方ならば、エドワード・ヤン『クーリンチェ少年殺人事件』を思い起こすのではないでしょうか。
実は本作もある過失事故死がお話しの中心となっているんですね。
しかも、それによって見えてくる、現代中国社会の閉塞感が浮き彫りになってくるところなどは、明らかに胡監督自身、意識していたのではないでしょうか。
しかし、両者の演出は明らかに違います。
エドワード・ヤンは、登場人物へ決してキャメラが迫っていかず、実に絶妙な距離感を厳密に保ちながら撮影されていくのですが(この『距離感』はヤン監督の独断場ではないでしょうか)、胡波は小型の手持ちキャメラ一台で動きま回りながら、しかも、驚くほど役者にまとわりつくように執拗なまでにキャメラが近いんですね。
しかもほぼ全編です。
なので、役者がどうしてもカメラ目線になってしまいます(映画のセオリーでやってはいけない事の一つですよね)。
それをなんとも思わず、執拗なまでに追い回すように撮影しているんですね。
このような撮り方ですから、自然光のまま、暗い場面は暗いままです。
また、常にキャメラは登場人物にかなり接近してますから、常に写っている場面の全体像が常に見えません。
時には、ピントを意図的に周囲をボンヤリとしたまんま、つまり、登場人物の主観のまま写したりもするんです。
つまり、そのような撮影手法それ自体ががそのまま登場人物たちの持つ閉塞感やイライラ、ひいては現在中国社会の抱える問題を表現しています。
また、全編が曇天であるのも、とても鬱々とした負のエネルギーを感じさせます。
さて、本作は4時間にも及ぶ大作でありながら、驚くべき事に、ある冬の1日のみに焦点を絞って描いているのも驚異的です。
河北省の寂れた都市(ストーリーの終盤になって、駅が出てきて、ようやくそこが石家荘市である事がわかります)のあさから夜にかけて、ほぼ一日を描いているのですが、なぜこれほどまでに長くなるのかというと、事実上、4人を主人公とし、それぞれをジックリと描くような演出を取った結果として長くなっているのであり、無闇矢鱈と長くなっている映画ではないという点は注意すべきです。
実際に見ると、どこにもカットしなくてはならないようなショットは見当たらず、その余りのストーリーの構成の見事さに驚いてしまいます。
先ほども書きましたが、本作の中心となる出来事はある高校生が事故で死んでしまう事がキッカケとなるわけですけども、エドワード・ヤンの映画は悲劇的な殺人は最後に突然訪れ、実は全編を丹念に見ても、それほど明確にその原因は言葉で説明する事は難しいです。
というか、ヤンの『クーリンチェ〜』は、一度見たくらいでは容易に理解できるように作られておらず、また、殺人を犯してしまう少年がある事情で夜学の中学校に通っていたため、必然的に夜の場面を中心に描く事となり、実は画面がいつもハッキリとしておらず、しかも、あまりキャメラは寄りませんから、登場人物の顔の判別が、時々わかりづらいですし、極力説明しないでストーリーが進む事が理解を容易にさせません。
コレに対し、本作は人間関係は非常に錯綜しますが、主要の4名の関係が明確であれば、ストーリーを理解するのはさほど困難ではありません。
事故死が起きてしまう原因も10代の今時の男の子らしい、いつの世も変わらない様なものなのですが、そこでのちょっとした、運命の皮肉やすれ違いのようなものが、登場人物を思わぬ方向(それはしばしば不幸な方向となります)に転げ落ちていきます。
その様子を主要な4人に執拗につきまとうようなキャメラワークによって、ジックリジックリと丹念に積み重ねていく様に描いていきます。
このように、歩いている登場人物を背後から必要に追いかけるショットはとても多いです。
よって、時間経過がとてもゆっくりとなり、映画の序盤は話が見えにくくできてますが、それこそが胡監督の意図である事を知るべきですね。
主人公の4人は高校生の韋布(ウェイ・ブー)、と黄玲(ファン・リー)、おじいさんの王金(ワン・チン)、ギャングスタの于城(ユー・チェン)です。
この4人の朝から始まります。
韋布の父は、脚を複雑骨折しているようで、失業しています(なぜ失業しているのかは、後にわかります)。
明らかにイライラしていて、息子に朝から怒鳴り散らしています。
母親が懸命に働く事で家計が成り立っているようです。
ブー。
黄玲は母子家庭であり、母親はセールスマンをしていて、疲れ果てていて、家事はほとんどやっていません。
リー。
王金は、娘夫婦から「娘の教育にカネがかかる」だの、「娘の勉強部屋がない」だのといい、露骨に老人ホームに入室する事を勧められていて、疎まれています。
家族から疎まれる老人は犬と町を彷徨う。
ギャングスタの于城は、愛人の家に入り浸っています。
ギャングスタのチェン。親からも妻からも疎んじられている。
そんな、一見、バラバラなのですが、家に居場所を失っているという共通点のある人々が一つの事故を巡って複雑に絡み合っていく、様子を丹念に描いているのですが、その事件とは、韋布が高校で起こしてしまった、過失殺人です。
彼の友人の黎凱(リー・カイ)が「スマホを盗んだ」という疑いを于帥(ユー・シュアイ)にかけられました。
金持ちの息子であるシュアイはカイを疑っている。
于帥の父は経営者で、要するに金持ちの息子であり、しかも手下を引き連れているような、いわば、ジャイアンにしてスネ夫のようなキャラで、「休み時間に階段のところに来い!」と学校に着く早々、韋布と黎凱にカマシをかけています。
黄玲と韋布と同級生で、「帥はお兄さんがヤバい人だから、関わってはダメ」と警告するのです。
しかし、韋布と黎凱は休み時間に階段のところに向かいます。
「お前ら、よくも来やがったな。オレのスマホを盗みやがって。土下座して歌を歌いやがれ」
しかし、コレを韋布はコレを拒否して、黎凱を守るために帥に襲いかかるのですが、勢い余って于帥は階段から転げ落ちてしまい、そのまま動かなくなってしまいます。
于帥は救急搬送され、授業はなくなってしまいます。
この搬送された于帥の兄がギャングスタの于城なんですね。
で、韋布の住んでいるアパートと同じ階に住んでいるのが、王金老人なんです。
于城の手下は「韋布が于帥を殴って、階段から突き落とした」と誤解していて、韋布の居場所を突き止めるために、韋布の自宅に行くのですが、丁度、あてもなく、街中を彷徨っていると、飼い犬を逃げた飼い犬に咬み殺されてしまった王金がアパートに戻ってきたんですね。
その手には、ビリヤードのキューがあります。
このキューは、韋布が通っているビリヤード場に保管していたキューで、彼は事故を起こしてしまった事もあり、もう家にいるのがイヤになってしまい、家出の費用を捻出するために換金できまいか?と思っていたら、街で偶然、王老人と出会い、お金に替えてもらったんです。
スマホやキューなど、小道具の使い方が実にうまいです。
このように向き合った会話がとても少ないですね。
しかし、このビリヤード場は、実は、ギャングスタの于城のシマであり、このキューを韋布が使っていた事を知っていたんで、手下が、「あのキュー、見覚えがあるぞ。お前、韋布の知り合いだな?居場所を言え!」と、この事故の一件に巻き込まれてしまう事になります。
という事で、実に巧妙に、少年が起こしてしまった事故(結局、病院に搬送された于帥は死んでしまいます)によって、この4人が非常に絡み合った物語を展開させていくんですね。
ルイ・マル『死刑台のエレベーター』を遥かに複雑にしたような複数のお話を同時進行させ、時には時系列を若干前後させて進めていくんです。
この実に複雑な絡み合い、そして、実はこんな事でした。という事実がゆっくりと明るみになっていく事で、それぞれの人物が抱えている様々な苦悩が明らかにされていくのですが、そこにこの事故死から派生する様々なリアルが、鉛のように重苦しく、作品全体を覆う閉塞感を作り上げているのは、もう見事という他ありません。
このようなショットがよく用いられます。
『クーリンチェ〜』は、殺人事件に至る
過程を見せながら、実は、台湾社会の複雑な状況それ自体を重層的に描く作品でしたが、本作はその逆で、事故を着火点として、中国の地方都市に住む人々の抱える様々な問題を噴出させて見せた。というところに面白さがあります。
この居場所を失った人々が目指すのが「満州里の動物園にいる象」なのですが、監督がここに込めたものは明確ではありません。
本作に特徴的な「執拗なまでに登場人物を追い回すようなキャメラワーク」についてはすでに述べましたが、本作のラストシーンは唐突にキャメラは固定され、人物たちをかなり遠くから撮影するアングルになります。
初めて画面の全体が見渡せる構図になるのですが(注)、しかし、このシーンは深夜の屋外なので、真っ暗でやはり、全体がよく見えないどころか、そこが一体どこなのかすらわからないんです。
テオ・アンゲロプロス『霧の中の風景』のラストシーンのような、暗喩的なシーン。
長距離バスが照らす明かりのみによって、ようやく一部が見えている程度で、画面もコレが誰なのかが、辛うじて判別できるくらいの距離で撮影されています。
恐らく、バスの休憩のための停車なのでしょうが、しかし、そこは一体何なのかが、全くわからないように撮影されていて、夢のようにも見えます。
バスから降りてきた人々は、休憩のリクリエーションをしているのですが、そこである事が起きます。
大事件でも大事故でもないのですが、それについての説明はなく、映画はスッと終わってしまいます。
監督が最後に私たちに見せたものは、一体何だったのか?は、一言では言えませんけども、コレは実際にご覧になって、それぞが自分に問いかける他ないのではないかと思います。
それにしても、コレほどの巧みな演出を20代の監督が行ったという事実は、驚愕というほかありません。
しかも、本作の完成後、胡波監督は、自殺してしまい(享年29歳)、長編デビュー作にして、遺作となってしまうという、痛ましい事実があります。
コレほどの才能を示した監督の次回作は最早見る事はできません。
彼がなぜ自殺してしまったのか?という経緯を私は全く知りませんが、この余りにも若い才能の死を惜しむばかりです。
(注)実は、このような画面は映画でもう一つ出てきます。
それは于帥が搬送された病院のシーンで、廊下いる家族たちを遠くから見つめているようなアングルで、母親が「警察に通報よ!」と息子が亡くなった事に逆上している場面なんですね。
恐らくはこのシーンとラストシーンが一つの対になっているものと思います。
文章の構成上、このシーンへの言及は敢えて省きました。
RIP