中平康『紅の翼』『あいつと私』『牛乳屋フランキー』
黒澤明にとっての三船敏郎、増村保造にとっての若尾文子がそうであったように、中平康と最高に相性の良かった俳優は我らが石原裕次郎である事はこの2作を見れば明らかです。
『紅の翼』は1958年、『あいつと私』は1961年であり、要するに裕次郎が日活プログラムピクチャーに信じられない本数出ていた事の作品で、裕次郎本人も取り立てて思い入れがあるとも思えないし、敢えてネットで何も調べずに言うので、間違っていたら申し訳ないが、撮影も2週間くらいで終わっているのではないでしょうか。
『紅〜』は、破傷風になってしまった八丈島に住んでいる少年を救うために裕次郎がセスナ機血清を運ぶという、それだけのプロットだけで成り立っている作品で、アンリ=ジョルジュ・クルーゾー『恐怖の報酬』からあのニトログリセリンが爆発するかもしれないという、ジワジワと全体を支配する恐怖の代わりに、ルイ・マル『死刑台のエレベーター』のような、計算外のトラブルが裕次郎に迫る、ちょっとした逸品です。
裕次郎がらみで画像が余り落っこちてないので残念です(笑)
非常に限定されたシチュエーションドラマにしたのは、セットに費用がかからず、撮影も楽だからであろう(実際、年に信じられないような本数に主演してたのだ当時の裕次郎は)。
この映画、全然タイプの違う映画であるが、裕次郎、芦川いづみ、中原早苗、滝沢修とメインキャストがかぶっていたりもします。
というか、1958年『日の当たる坂道』と『あいつと私』の原作石坂洋次郎と同じでキャスティングがもっとかぶっているのですが、この作品の一つの重要トピックは、60年安保時代があります。
安保反対運動のシーンもちゃんと出てきます!「COFFEEクロンボ」が現在ではNGです。。
お話が1960年の東京の大学生のお話しなのですから、どうしたって避けようもないんですけども。
しかし、大島渚『青春残酷物語』や『日本の夜と霧』のような陰惨で怒りに満ちた表現というものが全面に来る作品ではなく、かなり裕福な階層に属する人々を描いているので、見え方がかなり違っています。
明らかに富裕な層が学生の中心である私立大学が舞台です。裕次郎はポルシェで通学してます。
安保反対運動の活動家の女性が出てくるのですが、この女性が尊敬していた学生運動のリーダーがこの女性をレイプしてしまい、妊娠してしまったりと、なかなか凄絶なドロドロが展開はするんですけども、それを帳消しにしてしまう裕次郎のあの屈託のない笑顔と振る舞い(笑)。
こういうなかなかの修羅場が出ては来るのですが。
今だったら、Me Tooで大変な事になりそうなテーマがサラっと流れていき、この女性は大学生を中退して裕次郎の母親の経営する美容師の見習いとして元気に再起してしまうんです(笑)。
大島渚の作品だったら、ココを容赦なくえぐっていくと思いますが、中原/裕次郎コンビには、全くそういうものがありません。
単に原作がそうなのだから。を超えたモノを感じます。
美容院経営に成功した母親の子どもであるため、軽井沢に別荘すらあるのです!
地方と都会の格差、学歴の格差、ジェンダー問題がなどなど、実は現代につながる射程距離を持つ問題が、結構あるんですけども、それを中平演出と裕次郎がすべて相殺していくという、驚異的な構造で出来上がっていて、驚くほど軽快で快活に見ることができるのが実に不思議です。
びっくりするようなところで呆気なく映画が終わってしまうのも驚きです。
『あいつ〜』のメインテーマは、一見、一代で成功した裕次郎の家庭の、現在から見ても相当にかっこ飛んだ複雑さを持った家庭環境なのですが、それすらも我らが裕次郎は悠々とあの笑顔で軽々と乗り越えてしまい、腰が抜けます(笑)
母親の元愛人を演じるのが、なんと、滝沢修!
この「戦前」と「戦後」のコントラストを説明なしに見せるところが中平演出のうまさですね。
裕次郎の父親(ヒモです・笑)が貧相な宮口精二というのは、ほとんどギャグですが、コレが伏線です。
この問題を深刻に掘り下げるのではなく、むしろ、主人公のバイタリティとかキャラクターで危機をいつのまにか乗り越えてしまう。という中平演出は実は結構一貫してまして、1956年公開の『牛乳屋フランキー』もそうです。
『牛乳屋〜』はキノトール原作のラジオドラマなのですが、フランキー堺という、不世出のバイタリティ溢れたコメディアンのフランキー堺を主人公としたスラップスティック・コメディでして、山口県の田舎(映画では一貫して長州と行ってます)から上京してきた田舎者のフランキー堺が、東京(ハッキリとは描かれませんが、出てくる地名から考えるに、世田谷区かと思います)で牛乳の販売店を経営する親族を助けるべく悪戦苦闘するお話しです。
フランキー堺のポパイ刑事を超えるバイタリティが見モノです!よく見ると宍戸錠が!
ここでは、昭和コメディによく使われる(ドリフのコントも田舎者をバカにするものが大変多かったですね)、ステレオタイプ化された田舎者で、終始デフォルメされた長州弁を使いますね。
こういう田舎者のフランキー堺と小狡い都会者の小沢昭一のコントラストがいちいちおかしく、それが序盤を回転させていきます。
あと、長州。と終始使われるのは、薩摩が出てくるからなのですが(笑)、実にわかりやすく西郷隆盛ソックリのキャラクターがまんま出てくるベタでして(役名が南郷隆盛・笑)、そのド直球ぶりが爆笑モノです。
筋立てはとてもシンプルで、謹厳実直活動家バイタリティ溢れるフランキー堺が誠実に仕事をする事で、ライバル販売店の悪事が暴露され、お店は見事に立ち直るというモノなんですけども、そこに時代錯誤な明治維新からそのまんまやってきたようなフランキー堺の祖父(フランキーが主人公と祖父の両方を演じています)、水之江滝子のカメオ出演、石原慎太郎のパロディである売れない学生小説家(中平の大ヒット作である『狂った果実』のセルフパパロディのシーンすら出てきます)、森永乳業をまんまとスポンサーにつけ、むやみやたらと牛乳を飲むシーンが挿入されるなど、とにかく太々しさが満載です。
ここでのバイタリティと芸の細かさが川島雄三『幕末太陽伝』という大傑作につながっていくんですね。
通常、この頃の日本映画のエンドマークは「完」や「終」が普通ですけども、「OWARI」と出てきて終わるのは、ホントに珍しいです(笑)。
この軽快で、見終わった後になんだかわからないけども元気が出てしまう映画を作ってしまうのが、中平康の真骨頂であると思います。
すべてAmazonプライムで鑑賞できます。
OWARI