変化とは単線的には起こらない。

ジャ・ジャンクー賈樟柯)『長江哀歌』

 


自らの故郷である、山西省黄河中流域)を描くことの多い賈監督が、タイトル通りに長江の、しかも、なかなか中国では取り上げにくい題材と思われる、三峡ダムの建設によって水没していく事運命の町を舞台とした傑作。

 


お話しは、「煙草」「茶」「飴」という、小津安二郎のようなタイトルから内容が一切想像できないような三部構成になっていて、1と3が離婚してしまった奥さんに16年ぶりに出会うためにやってきた韓三明(ハン・サンミン)演じる男の話しで、その真ん中に単身赴任で2年も帰って来ない夫に会いに行く趙濤(チャオ・タオ)演じる妻の話が挿入されるという構成になっており、この2人は一切出会わないですし、何のつながりもありません。

 

f:id:mclean_chance:20200802213038j:image

16年前に別れた妻と娘を探しに来た、サンミン。

 

f:id:mclean_chance:20200802213152j:image

仕事で2年も自宅に帰ってこない夫に会いに来た妻。

 


ただ、2人とも山西省から春節を利用して同じ頃に三峡ダムの水没予定の町にやってきた。という共通点があります。


趙濤がたまたま出会った少女が、恐らく、韓三明の娘と想像されますが、たまたま出会った程度。というですね。

 

f:id:mclean_chance:20200802213317j:image

サンミンの娘なのでしょう。


この二人の視点から、見えてくる急激に経済成長していく中国を見せていこうというのが、監督の意図であり、この「中国の厳しい現実」を見せるというモチーフそれ自体は、彼の前の世代の監督から中国でもよく見られますけども、賈監督は、彼ら彼女らをなぞるのではなく、より歪で、時にシュールですらある現実をしかし、淡々と撮るところがとても面白いですね。

 

f:id:mclean_chance:20200802213413j:image

水没するので取り壊される建物。

 


魯迅の短編小説の風景とほとんど変わらないような風景の中なのに、皆携帯電話を持っていて、それ自体がものすごい違和感を与えてますけども、そこから少し離れた街になると、突然、ビルかたくさん建造されていているような近代的な風景になります。

 

f:id:mclean_chance:20200802213449j:image

このような奥地でも近代化が急速に進みます。

 


しかも、そのビルはすぐに爆破してまた新しく立て直すんですね。


しかも、UFOすら飛んでいるのです(笑)。


日本の高度経済成長期も相当なものだったと思いますが、中国のソレは桁が違っています。


結果としてですが、この作品のロケ地は今では三峡ダムの完成により水没している。という事実も衝撃的です。

 

f:id:mclean_chance:20200802213543j:image

 

単に厳しい現実を示すのではなく、その変化の途方もなさをかなり大胆な手法で見せてしまう本作は、中国が単に経済的に豊かになったというだけではなく、その内実も伴って来ている事を示しているわけでして、日本映画はホントに今のままでいいのだろうか?と思ってしまうです。

 

f:id:mclean_chance:20200802213600j:image

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3つの世代を通じて描かれる、韓国現代史!

キム・ボラ『はちどり』

 


長編第1作との事ですが、普通、処女作というのは、やったるぞ感となんでも盛り込みすぎ気味をどんな監督でもやってしまうものですが、この風格と余裕と完成度には相当度肝を抜かれましたね。

 

f:id:mclean_chance:20200718105928j:image

キム・ボラ監督。

 


1994年の夏から秋にかけてのお話しで、14歳の少女、イ・ウニを通して見えてくる、韓国の現代史と彼女の成長の物語です。

 

f:id:mclean_chance:20200718105059j:image

三兄妹の末っ子である、ウニ。

 

このお話しは3つの世代が描かれています。

 

1つはウニの両親の世代のお話しです。


ハッキリとは描かれませんが、恐らくは朴正煕政権時代に青春を生きたと想像されます。


もう一つが、ウニの漢文塾の先生、キム・ヨンジ(ホン・サンス作品によく出演している、キム・セビョクが演じています)。


そして、主人公のウニたち。


先の2つの世代の挫折が、韓国の歴史をよく知らない者にも、明らかに何かがあった事が示唆されます。


ウニの両親や自殺してしまった伯父さんは、韓国の学歴社会から落ちこぼれてしまった人々です。


商店街で餅を作って売っている、それほど楽ではない生活です。


韓国は日本など比べものにならないほどの学歴社会であり、大学受験は、まさに科挙のように熾烈を極めます。


韓国では大学へ進学しない事は即ち、兵役を意味します。


大学へ進学するのか否かがその後の社会的地位を明確にしてしまうんですね。


それは、ウニの時代どころか、現在の韓国も何も変わってません。


ウニの兄であるデフンをソウル大学に入れるために両親は必死です。

 

韓国は儒教の考え方が日本よりも遥かに厳格ですので、男性社会です。


ウニはデフンの進学ばかり気にかける両親からあまり関心を持たれておらず、学校でも大学進学のプレッシャーばかりを受け(担任の先生は日本の「東大合格するぞ!」的なノリで、生徒たちをソウル大学へ行け!みたいに煽りまくります)、それにウンザリしているのでしょう、友人とカラオケやクラブへ行き、隠れてタバコを吸ったり、ボーイフレンドとデートをしたりしていました。

 

f:id:mclean_chance:20200718105220j:image

時折差し込まれる、瑞々しいショットが素晴らしい。

f:id:mclean_chance:20200718105233j:image


ウニのお姉さんのスヒは、あまりいい高校には進学できず、ボーイフレンドと遊び呆けています。


ウニは、マンガを描くのが好きではあるけども、特に将来に何の夢も持てないような日々を送る中、漢文塾にやってきた新しい先生、女の先生であるヨンジに出会います。

 

f:id:mclean_chance:20200718105755j:image

ヨンジという「高等遊民」に惹かれるユニ。


ヨンジはソウル大学の学生ですが、長いこと休学しています。


このヨンジの飄々とした魅力に惹かれるんですね。


このお話しは、ほとんどどういう人物なのかよくわからない、でもとても魅力的なヨンジが重要なキャラクターです(ウニとヨンジはどちらも左利きです)。


お話しでは一切語られませんが、恐らくヨンジはソウル大学学生運動の活動家であったと思います。


それは、彼女が唐突に歌うシーン(ウニと友人は何の曲か全くわかりませんが、実は1980年代の民主化運動でよく歌われていた曲なのです)、そして、塾の本棚にマルクス資本論』が置いてある事で暗に示されます。


ヨンジが休学している理由も、学生運動が関係しているものと思います。

 

つまり、ウニの両親たちは、大学へ行けなかった事への挫折、ヨンジには、大学へは行ったけれど。という挫折があったんですね。

 


そして、ウニは金泳三政権、すなわち、民政以降の新しい世代なんですね。

 


この事がある程度わかっていないと、本作が言いたい事は少しわかりづらいかもしれません。

 


この3つの世代というのが、お話しの大きな枠組みとなりながら、そこにサクッと韓国現代史がさりげなくテレビからコレまた3回流れてきます。

 


1つが1994年のサッカーワールドカップアメリカ大会です。

 


韓国代表が初めて大会に出場しましたね。

 


次が北朝鮮の最高指導者、金日成の死去です。

 


いきなりドスンと来るんで、思わず笑っちゃいました(笑)。

 


ウニが耳の下にできたしこりを手術で取るために入院している病院で知ります。

 


そして、3つ目の1994年10月21日。

 


ソウル市内を流れる大きな河、ハンガン(漢江)にかかっていたソンス(聖水)大橋が崩落するという大事故が起こります。

 

f:id:mclean_chance:20200718110136j:image

崩落した実際のソンス大橋。業者による手抜きが原因で、死傷者が多数出ました。。

 

アメリカ、北朝鮮、そしてソウルと、歴史的事件はだんだんとウニに近づいてきている事が重要です。

 


基本は、思春期の少女の淡々とした日常を、実に巧みな省略法を駆使して描いていくところが素晴らしい映画なのですが、そこに唐突に差し込んでくる歴史的事件との絡み方が、まるで近年のクリント・イーストウッド作品のようはうまさがあり、第1作目にして、すでに老練さすら感じさせます。

 


韓国映画は内容は素晴らしいのはですが、音楽が今一つ。という事が多かったのですが、本作の音楽を担当するマティア・スティルニシャのエレクトロニカを基調にしたサントラが、映画に絶妙な距離感を与えてくれて素晴らしいです。

 


あと、途中で、使われる、チープなシンセでできている妙にクセになる韓国歌謡曲がツボですね(笑)。


韓国は、こういう音楽に合わせて踊る文化があるらしく、いろんな映画に出てきますね。


そして、なんと言っても主人公である、キム・ウニを演じるパク・ジフの見事さですね。


今後が注目される役者です。


公開してから間もない映画ですので、あまり内容には立ち入りませんでしたが、ヴィクトル・エリセ『エル・スール』のように、あからさまに歴史の悲劇を見せないという描き方は私にはとても好ましく思えました。


とにかく、韓国映画はあらゆる意味で黄金期と言わざるを得ないですね。コレも必見です。

 

f:id:mclean_chance:20200718110042j:image

 

 

 

 

 

 

 

レノンとモローによる『シン・突然炎のごとく』

グレタ・ガーヴィク『Little Women』

 

この原題でないと、ラストの意味が失われるので敢えてこうしました。


幾度となく映像化されてきた、ルイーザ・メイ・オルコット『若草物語』の映画化。


何の予備知識もなく見始めた最初の印象は、正直、


「なんだかいそいそとして、堪能できないなあ」

 

というもので、よくなかったです。


しかし、もう少し我慢して、この悪印象について付き合ってもらいたいのですが、コレはガーウィグ監督の意図するところなんですね。


現在のニューヨークで仕事を掛け持ちしながらも短編小説を書きながら生きているジョーと、伯母に連れられてフランスに渡っているエイミーの現在と7年前のマサチューセッツ州のコンコードでの4姉妹の楽しい生活という、この三場面がものすごいスピードで切り替わりながら進んでいき、およそ、19世紀後半の人々の時間感覚ではなく、完全に21世紀の現在の感覚ですね。

 

f:id:mclean_chance:20200703003213j:image

おなじみ、メグ、ジョー、ベス、エイミーの4姉妹。


しかしながら、映像それ自体は、時代考証もしっかりとしたもので、19世紀のままなのです。

 

ココが面白いですね。

 

バズ・ラーマン『Romeo+Juliet』はセリフはシェイクスピアのままで、完全に現在を舞台としていましたね。


映画は過去と現在が目まぐるしく変わっていくので、ボヤッとしていると、同じ人物が過去も現在も演じているので、わからなくなりそうになりますが、軸にあるのは、ジョーのニューヨークとコンコードの生活と、パリで大おばと生活する四女のエイミーの対比で、ここに、ローリーとの三角関係を作っての、かなりのスピード感のある恋愛物語なのです。

 

f:id:mclean_chance:20200703003308j:image

f:id:mclean_chance:20200703003335j:image

 

実際には地理的な距離があるのですが、時間軸が自在に動く事で、空間的にも自由になっていき、ちゃんと恋愛ドラマになっています。


しかも、ここに目いっぱい原作の様々なエピソードをドンドンと放り込んでいくので、相当な情報量なんですね。


見ていて思い出すのは、昨年、史上最低の低視聴率を誇りながらも、一部で熱狂的なファンを生み出した大河ドラマ『いだてん』ですね。


原作のいわゆる第三若草物語のベア学園のところまでを140分ほどで駆け抜けているのですから、それはギュウギュウです。

 

しかし、古典文学の持つ格調の高さとか、ピューリタニズムとか、そういう本作の持つ部分を監督は呆気なく捨て去っている事にだんだんと気がついてくるんです。

 

そして、過去が猛烈なスピードで現在に追いついていくような構成がやがて過去と現在がほとんど一つになっていくところからが、実はこの監督の描きたかったところなんですね。


それが見ていてだんだんとわかってきて、コレは古典文学の構造から揺るがしていって、とうとうジョーなのかオルコットなのかが、もう混濁してしまって、見事に改変されたラストに結実していきます。


この監督のもはや使い古されたタノではないのか?と思われた題材から、ものすごいモノを、しかも取ってつけたようにくっつけるのではなく、恐らくは結末から考え、結末にいかに必然性を持たせるのかに考えに考え抜かれた、敢えてのスピードと情報過多。


そして、この斬新な構成に説得力を与える見事なキャスティング。


当然ながらですが、シアーシャ・ローナン演じる、ジョー・マーチなくして、本作は有り得なかったでしょう。

 

f:id:mclean_chance:20200703003415j:image

見事にジョーを演じきった、シアーシャ・ローナン。ガーウィグ監督の前作でもコンビでした。


アカデミー主演女優賞は、当然です。


時々ジャンヌ・モローなのでは?と思われる、フローレンス・ピュー演じるエイミー、ローラ・ダーン演じるマーチ夫人、そして、大おばを演じるメリル・ストリープも、さては、「ポスト・マギー・スミス」を狙っているのではなきのか?という好サポートも素晴らしいですね。

 

f:id:mclean_chance:20200703003613j:image

ジャンヌ・モローに見えてきて、見続けるともうモローにしか見たなくなる、エイミー。

 

f:id:mclean_chance:20200703003730j:image

ローラ・ダーン演じるマーチ夫人。

 

f:id:mclean_chance:20200703003743j:image

マギー・スミスを意識する、メリル・ストリープ


アレクサンドル・デスプラの音楽は、やや貼りすぎですけども、とても素晴らしいですね。


この貼りすぎだけが本作の欠点でしょう。

 

余談ですが、エイミー役がジャンヌ・モローと言いましたが、ジョーは、ジョン・レノンにしかみえません。


レノンとモローとティモシー・シャラメによる、「シン・トリュフォー映画」という側面も本作はあるのでした。

 

f:id:mclean_chance:20200703003922j:image

なぜか、「ビートルズ感」があるんですよね。それはジョーがレノンにしかみえないからなのです!

 

 

今こそイマヘイ作品のバイタリティを!

今村昌平『赤い殺意』

 

f:id:mclean_chance:20200507140731j:image

動物をメタファーとして使うのが実にうまいですね。

 

 

1960年代の今村昌平の映画はすべてオススメですけども、たまたま見返した本作は、やっぱり凄かったです。

 

今となっては、ソープオペラ的な題材でしかないかもしれませんが(事実、何度もテレビドラマでリメイクされてます)、やはりオリジナルの持つ迫力はものすごいモノがあります。


大学の図書館職員である西村晃演じる夫吏一が出張中に、強盗にレイプされた貞子は、もう何年も妊娠していないのに、突然妊娠してしまった事から始まる、貞子の人生を描いていきますが、この貞子を通して見えてくる、戸籍制度という、21世紀になっても維持し続ける理不尽な制度、東北社会に根強く残る因習などを炙り出す、今村昌平の骨太な演出が本当に見事という他ないですね。

 

f:id:mclean_chance:20200507140358j:image

熱したアイロンを凶器にするというリアルさ!


f:id:mclean_chance:20200507140355j:image

敢えて暑苦しいアップを多用し、見る者に圧迫感を与えています。

 

自分がなぜ不幸なのかすらわからないどころか、不幸である事すらわかっていない貞子が、次第に自分の人生を取り戻していくわけなのですけども、今村は、大島渚のように、戦後民主主義の不徹底やイエ制度への呵責なき怒りを叩きつけるような描き方はせず、善悪にジャッジはつけずにあくまでもリアルを見せますね。

 

貞子を演じる春川ますみの見事な演技、一切の綺麗事を排したコールタールのような暗さを強調した絵作り、敢えて距離感を持ってキャメラを固定しての長回しのワンショットの多用など、コッテリ感とクールネスが同居する今村演出は冴えまくってます。

 

f:id:mclean_chance:20200507140834j:image

ロケーションも見事ですね。

 

『にっぽん昆虫記』と双璧をなす、今村昌平の全盛期を示す傑作であり、韓国の映画監督、イ・チャンドン、ボン・ジュノらにも確実に影響を与えているであろう事を知ることにもなります。

 

f:id:mclean_chance:20200507141804j:image

 

 

 

 

 

 

 

コレはニーチェの運命愛の映画である!

イ・チャンドン(李滄東)『ペパーミント・キャンディ』

 

f:id:mclean_chance:20200507124721j:image

もはや、現代を代表する巨匠の一人である、イ・チャンドン

 


イ・チャンドンはそんなに多くの映画を撮っている人ではないのですが(脚本家であり、小説家でもあるので、そちらの仕事がむしろ多いです)、いざ映画を撮ると、毎回ものすごい衝撃を与えますが、1999年公開の本作も、ちょっと驚きの作品なのでした。


お話は1999春のピクニックに始まり、1979年秋ピクニックに終わるという、循環構造のですが、それ自体は『アラビアのロレンス』などなど、たくさんあります。ちょっとしたいたずらのような。


本作のすごいところは、1999年から1979年に向かって遡るように物語が進行していきます。


つまり、最初にラストシーンがあって、その種明かしが物語になっているのですが、そのラストはまた最初につながっていくんですね。


冒頭、すなわちラストシーンが描かれてますし、もう20年以上前の作品ですから、ネタバレを書いても一向に差し支えないし、ラストシーンが最初という衝撃が物語を起動させるので、書きますが、主人公のキム・ヨンホは、絶望したのか、とうとう発狂したのか、列車が走っている鉄橋に上り、列車に惹かれてしまいます。

 

f:id:mclean_chance:20200507122355j:image

気狂いピエロ』のフェルディナンのように自殺する、イ・ヨンホ。


そこから物語が始まるんです。


しかも、そこでは、高校の同級生たちが20年ぶりに集ったピクニックが行われていて、ヨンホはこれに突然現れます。


実は、3日前にラジオ放送でピクニックの開催をする事を番組内で宣伝をしていて、ヨンホはたまたまコレを聞いていたからなのですが、このピクニックでのヨンホの異様さ。


ジャン=リュック・ゴダール気狂いピエロ』の、主人公が絶叫しながらダイナマイトを頭に巻きつけて自殺する、あのラストシーンを思わせますね。

 

f:id:mclean_chance:20200507122729j:image

ヨンホを演じるソル・ギョングなくして、本作は成立し得ないほどの熱演。

 


ゴダールは意外にも時間軸はそんなにはちゃめちゃな映画は撮ってないんですけども、本作はいきなり主人公の自殺から始まります。


で、普通なら、「では、何故自殺してしまったのか?」の最初から語るという手法をとり、そして、1999年の主人公の自殺まで語っていきますよね。


本作はそうではなくて、1979年の、高校生の頃のピクニックで終わってるんです。


時間がドンドンと遡っていくんですね。

 

それを電車が走るのを逆回転再生するという、恐ろしく古典的な手法で表現しています。

 

f:id:mclean_chance:20200507122600j:image

エピソードの合間に必ず挿入される逆回転再生される線路の映像。

 


それを1999年、1994年、1987年、1984年、1980年、1979年と遡るように断片的なエピソードとして見せていきます。


しかも、巻き戻しつつ見えてくるのは、韓国現代史の断片でもありました。


時間軸を普通に戻して語ると、高校生→兵役→工場労働者→刑事→会社経営者という彼の人生が語られるのですが、そこに、朴正煕暗殺、光州事件民主化運動、1997年の金融危機が彼の人生に影を落としていている事がだんだんとわかってくるんですね。

 

f:id:mclean_chance:20200507123939j:image

 

f:id:mclean_chance:20200507123944j:image

 

しかし、結論を言えば、ヨンホが自殺するに至る理由はそういう社会的背景に落とし込んではおらず、ハッキリとは明示されません。


たしかに彼の事業の失敗、幼なじみのユン・スニムが実は知らない男と結婚していて、余命いくばくない事を知った事などなど、思い当たる事はいくつも思い当たるのですが、私はそれらは自殺の原因だとは思いませんでした。


彼の絶望は、自殺の3日前に見たネガフィルムにあったのではないかと。


恐らくですが、そのフィルムに写っていたのは、彼の運命だと思います。


彼が今まで経験してきた事があのフィルムにすべて書いてあったのではないか。


本作では重要な小物がいくつか出てきて、その一つがタイトルでもあるペパーミント・キャンディなのですけども、もう一つがカメラでして、そのどちらもが、幼なじみのスニムと強く結びついています。

 

f:id:mclean_chance:20200507123651j:image

 

f:id:mclean_chance:20200507123900j:image

 

f:id:mclean_chance:20200507123658j:image

 


実はカメラはスニムが工場で働きながら貯めたお金で買ったカメラでして、そのカメラはカメラマンを目指していたヨンホへのプレゼントだったんです。


しかし、コレを受け取りませんでした。


最後に受け取ったのが、自殺する3日前で、スニムの夫から、事実上の遺品として改めて手渡されものです。


ヨンホはこのカメラを売り払ってしまうのですけども、中にフィルムが入っていたんですね。


そのフィルムには彼の過去、現在、未来がすべて示されていた。


因果律ですね。


彼はその事に絶望したのだと思います。


しかし、その自殺もまた因果律であり、絶命間際に「昔に戻りたい!」と叫んでも、彼の生と死は循環構造の永劫回帰の中にあるという。


循環構造にある事はラストシーンのピクニックのシーンで、「どこかで見たことのある風景だ」というヨンホのセリフが明示してます。


結論すれば、本作は因果律の話しであり、神の存在について描いた作品だと思います。


なぜ、そこまで言えるのか言いますと、韓国は私たちの思っている以上にキリスト教社会であるからで、本作以外でも、『シークレット・サンシャイン』という、コレまたとんでもない作品でキリスト教の問題を真正面から扱っているからです。

 

日本ではこういう映画を撮ると説得力に欠けますが、韓国はコレを可能とする社会的な背景があるんです。

 

そして、凄絶なまでの政治的激動も実際にありました。


ここまでネタバレさせても、本作を見る事に何の支障もないほどに作品としての強度がものすごい、現代の黙示録。


それでも「人生は美しい」と言えるのか?を突きつけた、イ・チャンドンの傑作です。

 

f:id:mclean_chance:20200507122928j:image

 

『じゃりン子チエ』の手法を更に過激に推し進めた傑作

高畑勲ホーホケキョ となりの山田くん

 

f:id:mclean_chance:20200507023651j:image

こんなスカスカな絵をスムーズに動かすのは、正気の沙汰ではない。

 

「もうリアリティは極めた」とし、線のヨレ、色のムラをそのまんま活かした動画。という言葉にしてしまえば簡単ですが、実際の作業はほぼ冥府魔道。というケタ外れに容赦のない事を要求した、今もってこんな途方もない事を商業映画で実行した監督は世界的に見てもいないという作品。

 


しかし、その努力が見ている側には、単に「スカスカした絵が動いているだけの散漫な作品」にしか見えなかったため、興行的にも惨敗したのではないか。

 


ジブリ作品。というと、どうしても宮崎駿のメリハリがシッカリとした、昔ながらのアニメの絵が驚異的に動き回るものをよくも悪くもイメージしてしまい、高畑が追及する世界との齟齬があまりにも大きくなってしまった事が原因であると思います。

 


この作品が、『じゃりン子チエ』の直後であったならば、まだ、「高畑勲の世界」として確かに受け入れられ、あそこまで興行が悪くはなかったのかもしれない。


高畑勲には、2つの重要な世界があります。

 


1つは『アルプスの少女ハイジ』にからある、非常に精緻な構成の中での、少女の成長物語です。

 

f:id:mclean_chance:20200507025842j:image

ほとんど弁証法的と言ってよいほどの構成力を持つ傑作、『アルプスの少女ハイジ


赤毛のアン』そして遺作となった『かぐや姫』はまさにこの系譜であり、よく考えるとすべて文学作品ですね。

 

f:id:mclean_chance:20200507025617j:image

モンゴメリーの不朽の名作をアニメ化した、『赤毛のアン

 


もう一つが『じゃりん子チエ』をテレビアニメ化したもので、本作は明らかにこの系譜の作品であり、連載マンガのアニメ化です。

 

f:id:mclean_chance:20200507025352j:image

中山千夏西川のりおの声優起用が見事にハマった『じゃりン子チエ』。


前者の二つのテレビアニメは、宮崎駿を場面設定として起用している作品でもあり、このコンビの最良の仕事でもあります。

 


この二つの作品の決定的な違いは、世界観の違いですね。

 


前者は驚くほど精緻な構成で作られていて、一話たりともダレや間延びがないです。

 


最近、改めて『ハイジ』を見て、特に前半のオンジとの山小屋の生活を丹念に描いている前半がこんなにミニマルな話なのに、全くつまらなく場面が無いことに心底驚きました。

 


赤毛のアン』などは友人のダイアナが出てくるのはなんと第9話です。

 


それまで、アン、マリラ、マシューの3人に何人かのゲストキャラクターがいるだけです。

 


週1回の放送だったわけですから、2ヶ月いっぱい、アンの心の友、ダイアナは出てこないんです(会話の中には出てきますが)。

 


19世紀後半のカナダの田舎の時間感覚をホントに表現しているんですね。

 


『ハイジ』で確信を持った高畑が、更に大胆に時間感覚というものに挑戦したわけです。

 


それに対して、ある意味、どこから見ても話についていけると言ってよい、循環的、もしくは前近代的な時間観念が支配しているのが、『じゃりン子チエ』であり、『となりの山田くん』です。

 


『チエ』の主人公チエちゃんは大阪に住んでいる小学校5年生のままであり、『山田くん』の登場人物も年齢が変わることはありません。

 


『チエ』はまだ一話完結型のマンガですから、まだ、各話の起承転結がありますが、『山田くん』は、『朝日新聞』に掲載されている四コマです(のちに『ののちゃん』に改題し、現在も連載中です)。

 


要するに、物語に何か中心になるようなものを何も置くことができないし、起承転結もないわけですね、もはや。

 

f:id:mclean_chance:20200507024505j:image

敢えて似てる作品といえば、小津安二郎『お早よう』であろうが、アニメでそれをやろうというのが普通ではないのです!

 

 

コレを映画という形で提示してしまった事がより無謀でありました。

 


コレがNHKの何かの番組のつなぎの5分間ほどのアニメの連作として作っていたら、よかったのかも知れません。

 


しかし、前述した苛烈な作画への要求はもはやテレビでは実現不可能であったわけですね。

 


意図して、単なるエピソードの羅列とし、何の起承転結もなく、ラストに「適当」という、メッセージを示して終わる。というのは、いくら何でも人を食い過ぎでありました。

 


が、そう言った諸々のディスアドバンテージが高畑の死によってすべてが外れ、要するに一つのテクストとして本作に改めて向かうと、本作のとてつもなさ、そして、遺作となる『かぐや姫』への布石はすでに本作で打たれていた事がイヤというほどわかる作品であり、やはり、天才の偉大な仕事である事がわかるわけです。

 

f:id:mclean_chance:20200507024023j:image

ジブリらしいアクションシーンは意外とありますが、この絵でやっているのが、尋常ではありません。


一見、単なるエピソードの羅列に見えて、やはり、構成力の見事さははっきりされていて、そこは場面のリズムや間だけで最早ダレないように作り上げているんですね。

 


そして、サントラの使い方の絶妙さ。

 


高畑作品に一貫している、耳の良さと趣味の良さはこの作品でも見事に発揮されていて、どこにでもありそうなエピソードにワザとマーラー交響曲という、ドラマティックの極みのような音を敢えて当てるとか、矢野顕子の歌を、浮遊感のある映像に当てるなど、ホントにうまい。

 


鉛筆でササっと描いて、水彩絵の具でサッと色を塗ったような動画がタンゴを踊ったり、荒波を超えるような、いかにもジブリっぽいダイナミックな絵を挿入したりして、決して単調な動画に落とし込まないんです。

 


この辺は宮崎駿への対抗意識もあるのかも知れません。

 


ファンタジックな事は私にだってできるのだと。

 


声優はプロフェッショナルを敢えて起用しない。という方法論は、『チエ』で確立した大胆な手法ですが、あそこまで過激ではありませんが、やはり、プロの声優ではないのに、違和感がないどころがピッタリ過ぎてプロを起用していないことに気がつかないくらいで、それってよく考えてみたら、更に凄くなっているのではないか。

 


で、この手法を宮崎駿も使うのですが彼の作風には、ちゃんとした声優をキャスティングした方が私はいいと思います。

 


このプロを使わない手法は、やはり、『かぐや姫』でも一貫していています。

 


それにしても、やはり、根本的な疑問は、何故に新聞の四コマ漫画を原作とするという作品を作ったのか?という問題がどうしても解消しません。

 


この、何という事もない一家の日々の断片集を以て、大袈裟に言えば、人間の生というものの全肯定を描きたかったのでしょう。

 


そういうものを描く事に、アニメーションというものは向いていないのではないか?やはり、超人的な主人公が飛んだり跳ねたりする活劇こそがアニメの本領なのではないのか?というものへの解答を作品として提示したという事なのかも知れません。

 


それをジム・ジャームッシュのようなオフビートなコメディでもなく、ありきたりな出来事の積み重ねとして描くという、ある意味で絶壁に敢えて爪を立てて登ろうという挑戦ではなかったのでしょうか。

 


f:id:mclean_chance:20200507024217p:image

 

f:id:mclean_chance:20200507024231p:image

同じ場面をシリアスとコミカルに巧みにかき分けているのですが、コレは必見です。

 


『ジャリん子チエ』で作り上げた手法を更に極限までおしすすめた、ものすごく過激な、故に、大衆的な支持は失ってしまわざるを得ない、恐るべき作品。

 


今こそ再評価したいですね。

 

f:id:mclean_chance:20200507024424j:image

 

 

 

カーニー監督は「ココロのマッサージ師」である。

ジョン・カーニー『シング・ストリート』

 

f:id:mclean_chance:20200506152549j:image

 


日本での劇場公開3作目ですが、カーニーは一作も外れなく、すべてオススメですね。もうとにかく素晴らしいという他ない。

 


アイルランド出身でダブリンを舞台する作品でどれも低予算なのですが、青春映画としてすべて逸品です。

 


本作は1985年という、アイルランドの経済がドン底時代のダブリンが舞台の青春映画ですけども、ヤバいくらいにどストレートに甘酸っぱいのです。

 


オヤジが失業者、母親が勤務日数の削減、兄は大学を中退という、ほぼケン・ローチ作品のようなひどい経済状況により、荒廃した高校、シング・ストリート(Synge Street)高校に転校せざるをえなくなったコナーは、ほどよく荒れたつっぱりハイスクールな校舎、体罰上等な学校の体制にウンザリしているんですね。

 

f:id:mclean_chance:20200506151820j:image

理不尽な校則というのは、アイルランドにもあったんですね。

 


この荒廃の描き方がホントにリアルで驚きました。

 


そんな彼がたまたま声をかけたラフィーナという女の子をPVに出演させるためにロックバンドをやっているという話しをデッチ上げるんです。

 

f:id:mclean_chance:20200506151923j:image

カーニー監督のキャスティングはホントに素晴らしい。


プロデューサーを買って出るダーレン、なんでも楽器のできるエイモンたちを中心にホントにバンドを結成します。

 

f:id:mclean_chance:20200506152021j:image

演奏のへっぽこがものすごくリアルというか、多分、本当の実力で演奏しているのでしょうね。

 

 

f:id:mclean_chance:20200506152203j:image

コナーが作詞、エイモンが作曲です。

 


通っている高校の名前をもじって、「シング・ストリート」(Sing  Street) というバンド名とするんですね。

 


このダブルミーニング、うまいですねえ。

 


ストーリーそれ自体はそんなに特別なわけではないんですが、キメの細かい、観客を絶妙に刺激する巧みな演出が随所随所にあって、それがホントに見事です。

 


1985年というと、イギリスのポップロックの黄金期ですけども、なんと言っても、デュラン・デュランの音楽と映像ですよね。

 


兄のブレンダンのロックスクールの楽しさ。

 

f:id:mclean_chance:20200506152312j:image

ブレンダンとコナー。

 


ジェネシス聴いてる奴は非モテ」とか、いちいちツボですね(笑)。

 


ラフィーナのキラキラきたファッションやヘアスタイルも当時そのまんまですし、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を思わせる、主人公の妄想PVなどなど、ホントにうまいですね。

 


エイモンが『ビバリーヒルズ・コップ』のテーマ曲を演奏するとか、わかってますよね(笑)。

 


しかし、この作品の一番の説得力はなんといっても、このバンドの演奏なのです。

 

f:id:mclean_chance:20200506152414j:image

程よくイケてないルックスも見事です。

 


どこまで本人たちの演奏なのか、調べていないので全くわかりませんが、はじめのへたっぴさがだんだんとバンドとして上達していく様子が、ハッタリではなくて、とてもリアルです。

 


コナーは、前の私立高校時代から詩を書き留める習慣があって、それがバンドの作詞に貢献してるんですけども、ヴォーカルはホントに彼が歌っているものと思いますが、ちゃんと上達してるんですね。

 


その過程はウソではなくて、ドキュメンタリーになっているんです。

 


そこが本作にものすごい説得力を与えてます。

 


この「歌のちから」というものを実に丁寧に見せることが、ジョン・カーニーの演出のキモです。

 


また、主人公がデュラン・デュランに憧れ、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』へのオマージュなどなど、1980年代に思春期を生きた人たちにはたまらないツボがそこかしこに配置されているのが嬉しい作品です。

 

f:id:mclean_chance:20200506152705j:image

今見るとこっぱずかしい事この上ない、デュランデュラン(笑)

 


この時代の事がサッパリわからなくても、この作品が持っている風通しのよさ、気持ちよさはどなたにもわかるもので、この気持ちよさは、カーニー監督の一貫した世界観ですので、コレが気に入った方は、『ONES』、『はじまりのうた』も是非ご覧下さい。

 

ちなみに、この舞台となる高校は実在し、現在は学校環境は大いに改善しているそうです。

 

f:id:mclean_chance:20200506152951p:image