内田吐夢の怒りが見事な様式美に昇華した快作!

内田吐夢『浪速の恋の物語』

 

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とにかくね、後半がすごいの。


タメにタメまくった飛脚問屋の婿養子である、中村錦之助の鬱憤が大爆発。


近松門左衛門の『冥途の飛脚』などを原作とした、この頃の内田が連作していた作品の一つなんですけども、どうも評価されていないような気がします。

 

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飛脚問屋の若旦那、忠兵衛と遊女梅川の悲劇を描く、近松門左衛門『冥途の飛脚』の映画化です。

 


というもの、題材が完全に溝口健二と丸かぶりで、どうしても彼と比較されてしまうからですね。


美術や撮影にトコトンこだわりまくる溝口の凄味は、内田からは伝わってはきません。


いかにも東映のセットですしね。


キャメラもそれっぽく溝口に似たアングルですが、やっぱり「それっぽい」を超えているとは思えません。

 

透徹した美。という事を考えると、やっぱり溝口健二のすごさといのは、圧倒的にすごいです。


しかし、内田の演出は溝口とは力点が違うんですね。


溝口の視点はどこまでも冷徹で時に残酷ですが、内田は不条理への怒りですね。

 


まるで、任侠映画のように錦之助は怒り、藩の金250両をぶちまけて、最愛の梅川を強奪していくんです。


チャンバラこそありませんが、異様な凄味があります。


キャメラアングルもココからが異様に冴えていて、コレがやりたくてこの映画が撮りたかった事がものすごく伝わってきます。

 

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溝口だと、役人に捕縛されて刑場に連れて行かれる所で終わるのでしょうが、内田はそこからがすごいですね。

 

本作では近松門左衛門が出てきて、片岡千恵蔵が演じているんですけども、最後は彼が主人公になっていくんですけども、ココからが内田の演出がすごいですね。

 

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「作家というのは、事実そのまんまを伝えることが仕事ではない。私はこの2人の顛末を事実通りに描きたくない」

 


とすら千恵蔵に言わせています。


この、圧巻の後半だけで本作の価値はあります。必見。

 

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ゴダール初期の怪作!

ジャン=リュック・ゴダール『女は女である』

 


すんごい(笑)。


こんなに音楽というものが出鱈目に貼り付けられている映画というものがあるのだろうか。


私はゴダールの作品を20本も見てないと思いますが、こんな素朴な疑問がムツカシそうなゴダールを批評している本には書いてないの。


多分、それは原因はゴダール本人にあって、音楽について書かせまいという力が作品それ自体に内蔵されている気がするんですよね(笑)。


それは、2019年現在に至るまで厳然と存在している力なのではないだろうか。

 

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ミシェル・ルグラン、ジョルジュ・ドリュリューという、フランス映画界を代表する2人を1960年代に起用しておきながら(本作はルグランですが)、あまりにもたくさんのサントラを映像とほぼ無関係に貼り付けるので(丁寧に見ると、ココはあってるかな?みたいなところは何箇所かあります・笑)、映像と音がリンクせず、しかも過剰なので、アタマな処理しきれなくなり、一切記憶に残りません(笑)。

 

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カリーナが歌って踊るシーンは最初にのみあります。


ストーリーも、おそらくは、撮影してからでっち上げているのでしょう、各シーンのつながりが、音楽の使い方と相まって希薄であり、その点で『勝手にしやがれ』をはるかに凌いでおります。

 

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なんとなく、『突然炎のごとく』のような三角関係を描いてはいますが。


長編3作目にして、手法がますます過激となり、当時の観客はほとんど取り残されているのではないでしょうか。


にもかかわらず、本作のプロデューサーである、カルロ・ポンティは、再び『軽蔑』でプロデューサーをしてまして、更にハイバジェットな作品となるんです(作品としては、本作よりも技法の過激さは抑えてます。音楽はジョルジュ・ドリュリュー)。

 

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雨に唄えば』へのオマージュ的なシーンかな?


トリュフォー突然炎のごとく』のような三角関係、ドゥミ『ローラ』が直近でゴダールを刺激したのでしょうね、ゴダール流のミュージカル映画を作ろうとしたんだと思います。


ところが、いつものように、特にに何も決めないで、映像を撮りまくり、編集段階でイメージを固める。という所やり方では、音楽。という問題が出てきます。


多分、これまでのゴダールは、音楽は、自分でザッと切り貼りしてたんだと思うんですね。数も少ないので。


しかし、ミュージカル映画というのは、映像と音楽の極限のシンクロをやっていく事ですよね?


ところが、本作には、ゴダールとルグランがそんな事を行なったとは到底思えないんです。


ルグランはゴダールに言われた通りに莫大なサントラを納品したんだと思います。


しかし、それをルグランとは一切相談しないで、あんな風にやらためったら映像に貼り付けました。


セリフに音楽が思い切りかぶっていて、セリフが聞こえなくなるような事すらしている(笑)。

 

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ベルモントがあんまり魅力的でないのが、ちょっと不満かな?


ハッキリ言って、ルグランに嫌がらせをしているのではないかとすら思えます。


ミュージカルなのですから、音楽とストーリーの関連性がかなり密接ですから、適当に映像を撮ってそこに音を当てるなどという手法と相容れないですよ、どう考えても。


ゴダールがなぜはちゃめちゃな事をしたのかという事についての本人のコメントを特に読んだことはないですし、ルグランがこのような扱いを受けたことについて、どう考えたのかは知らないのですが、ルグランのその後の莫大な仕事ぶりを見ていると、特になんとも思ってなかったのではないかと(笑)。


ゴダールによる、「登場人物が歌わないミュージカル」は、ハッキリ言って、失敗作だと思うのですが(でも、コレ、ベルリン国際映画祭で賞もらってるんですよね、信じがたい事に)、映像や編集は相変わらずの絶好調なので(言葉遊びや文献の引用のうまさは音楽に反比例して素晴らしいです)、結局、「変わった映画」として楽しめてしまうんですよね。

 

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地下鉄のザジ』の主人公が映ってますね。


天才の所業というのは、ホントにすごいと思います(笑)。

 

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FIN

3作すべて見ることをオススメします!

アッバス・キアロスタミそして人生はつづく

 


『友だちのいえはどこ』の撮影を行ったコケル周辺が1990年に、大地震の被害を受けました。

 


なんと、死者は約3万人以上!

 


その安否を確かめるために映画監督(キアロスタミではなく役者が演じてます)とその息子が現地に向かうという、ドキュメンタリーとフィクションの境界がかなり曖昧な作品。

 


本作と次作の『オリーブの林をぬけて』、そして、『友だちのいえはどこ』は同じ場所の大地震以前/以後を撮影した1つの3部作ととらえてよく、劇映画でありながら、ドキュメンタリーとしての要素もあり、本作は地震直後という事もあり、ドキュメンタリーの要素が一番色濃い作品です。

 


監督は、『友だちのいえはどこ』で主演した少年を探そうとしています。

 

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本作の中で『友だちのいえはどこ』がフィクションとして取り込まれています。


実際のキアロスタミも探そうしているでしょうし、作中の監督もまた彼を探しています。


しかし、コケルが近づくにつれ、近隣の村のポシュテも相当な被害を受けている事がわかってきます。


まず嬉しいのは、『友だちのいえはどこ』の後半に出てくる、主人公の少年をムダに連れ回すおじいちゃんが出てきます。


このおじいちゃんが実際に住んでいる家が、なんだが見覚えがあるんですよね。


そうです。


オリーブの林をぬけて』のあの若い新婚夫婦役2人の撮影シーンの完成版が出てくるのです!

 

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完成版は監督とタヘレの会話シーンがあるんです。


つまり、『オリーブの林をぬけて』は本作を作っている様子を映画にしていたんですね。

 


実際の時間軸と作品の作られた順番が逆さまになっている、もしく、次回作が前作をフィクションとして飲み込んでいく。という、キアロスタミのちょっとしたイタズラがはいって、この三部作が出来上がっていたんです。

 


この三部作の、とりわけ、後の2作は、目的を達成できたのかどうかが、明確に描かれていません。

 


この2作の終わり方はとても似ているというか、ほとんど同じです。

 


にもかかわらず、突き放したような感じやペシミズムは全くないんですね。

 


ここにキアロスタミという監督の真骨頂がある気がします。

 


この三部作(当然ですが、それぞれを単独の作品としても十分に楽しむことができるようにもなってます)はすべて見ることで初めて奥行きのある世界観が理解できるようになっており、是非とも、すべてを見ることをオススメします。

 

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あのジグザグの道がまた出てきます!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まるで松竹映画見ているようであった。

アッバス・キアロスタミオリーブの林をぬけて


『友だちのいえはどこ』に感銘を受けたので、早速次々作(実際にはドキュメンタリーを劇映画の合間にも撮っているので、正確な言い方ではない)を見ました。


なんと、またしても舞台は同じコケル。


映画監督は、現地の人々を使って映画を撮っている悪戦苦闘が、人々のほほんとした超マイペースな雰囲気によって、悪戦苦闘に見えてこないのがミソという、更なる傑作。


登場人物のほとんどは完全に素人であり、演技らしい演技はしてません。


ありのままを撮影しているので、ドキュメンタリーみたいに見えてくるのですが、それ自体が監督の演出というのが実に巧みで、自分が見ている作品が何なのかを軽く混乱させます。


とにかく、テヘランから来た監督以下スタッフの思惑通りには一切いかない、田舎の素朴な人々が最高で、違った意味での「地獄の黙示録」です。

 

ある意味、全員、天然のカーツ大佐みたいな(笑)。


ちょっとコッポラに似てなくもない(?)監督は、こうなる事は想定していたようで、マチの間に撮影を見に来た子供と雑談したり、なかなか根性が座っていまして、しかも、子供をうまくゲームに巻き込んでいくのがうまい。

 

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巧みに人の心に入り込む、監督。


映画の撮影で一番苦労を背負っているのが助監督のシヴァで、うまくセリフをしゃべる事のできない配役を交代させたり、新しい人にセリフを覚えさせたり、監督の意向を受けて仕事をしています。


この映画のテーマは、そんな撮影現場でわかってきた、2人の若い男女の恋愛です。


その描き方が、小津安二郎を見ているような錯覚を起こしそうになるほどよくできてまして、ぷりぷり姫のタヘレとイケてないホセインくんを、キアロスタミの分身である監督の目を通して、優しく描かれます。

 

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タヘレとモハマド


恐らく監督は、テヘラン大学を出ているようなイランの中ではエリートに属する人なのでしょうけども、そういう感じがせず、村人の中に自然と入り込み、彼ら彼女らの話を聞き出そうとしていくんですね。


なんだか頼りなさそうなモハマド青年が、意外にも鋭い事を考えていたり(文字が読めない人どうしが結婚してはいけないなど)、一見、無学な人々(恐らくは義務教育すら全員にはいきわたっていはいないように見えます)にも、キラリと光る知恵がある事が浮き彫りにされています。


さて、本作の通奏低音には、実は、10000人もの死者を出した震災があります。


登場している村人たちの話を聞くと、誰しもが親族に犠牲者がいるほど辛いものです。

 

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しかし、それを乗り越えるような、ホセインとタヘレの、まるで往年の松竹映画を思わせるような奥ゆかしい恋愛映画が核心にあって、ラストはあえて曖昧に描いてますけども、なんともしらん清々しさがまことに見事なんです。

 

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イランの映画。というとなんともとっつきにくそうですが、キアロスタミはココロにスッと入ってくるのが素晴らしいですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

とにかく見せ方のうまさに感心しました。

クレイグ・ギレスピー『アイ、トーニャ』


正直、そんなに期待して見たわけではないんですけども、コレがめちゃくちゃ面白かったですね。


ナンシー・ケリガン選手が、リレハンメル・オリンピックの直前に何者かに殴打された事件は、まあ、大々的に当時騒がれていて、日本でもワイドショーでデイヴ・スペクターが大活躍してましたよ(笑)。


でも、なんも頭に入ってこないんで、当時は何の事がわからず、トーニャ・ハーディングが襲撃したのか?とすら思えてくるような報道の勢いでした。


しかし、真相は、アホなDV元夫が虚言癖のデブのショーン・エカートと共謀して行われた犯罪でした(本来の筋書きをショーンが暴走させて起きたのでした)。

 

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アホのジェフ(左)とただのデブのショーン(左)。


この事件の経緯を明らかにするだけだったら、別にドキュメンタリーでもいいわけなんですけども、本作は、あたかもドキュメンタリーのような手法を使いかながらも、トーニャ・ハーディングという1人の人間を巧みに浮かび上がらせていくんです。


オレゴン州ポートランドに生まれたトーニャは、父親が愛想を尽かして出ていってしまうほど、母親が心底クソで(笑)、その独裁者のような母親の圧倒的な影響下のもとで、育っていくんです。

 

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鬼のように(という鬼そのもの)トーニャを追い込む母親。ものすごく口が悪いです(笑)。


元父親からの仕送りとウェイトレスの仕事でなんとかカツカツで生活しているビンボな家庭環境で、周囲にいる人間もやっぱりアホでクズみたいな連中ばかり。。


酷いことに、後に夫となる口ばかりが異様に達者で、すぐにトーニャに暴力を振るうどうしようもないジェフ(母親も相当なDVをかましますよ。ドン引きします)。

 

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こんなアホと結婚してしまうんですね。。

 

金銭的には相当苦しかったと思いますが、それでもど根性でスケート界で台頭していくんです。


まあ、要するに、ものすごくガラの悪い育ちでありまして、ほぼギャングスタの生活では。としか思えないような場面すら出てきます。


そんな悪童キャラをアメリカのスケート協会はとても嫌がってまして、彼女の得点を不必要に厳しくジャッジしてたんですけども、当時、伊藤みどりしか成功させていなかったトリプルアクセルを成功させる事で、評価せざるを得なくなるんです。

 

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トリプルアクセルを史上2番目に成功させた瞬間!


こうして書いていくと、なんとも暗い絵が浮かんでくるんですけども、ギレスピー監督はコレを実に手際よく、広告代理店にかつて勤務していたという経験を活かしての、流麗なテクニックで見せるんですね。


本作は、トーニャ、ジェフ、ショーン、ゴシップ専門のテレビ番組のスタッフ、そして、母親の証言という形で進むんですが、トーニャとジェフの夫婦ゲンカでトーニャがデカいう銃を撃った!とジェフが証言した絵をそのまんま再現させながら、その銃を撃ったトーニャがそのまんまカメラ目線になって、「私はこんな事はしてない」と言わせるんです。

 

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インタビューに答える体の現在の母親。反省している様子はなし(笑)。肩にとまっているオウムがツボです。


こういうシーンがいたるところで頻繁して、観客を心地よく混乱させるんです。


当時の語り手と現在の語り手がそのまんま地続きなんですよね。

 

コレに近い方法は、2019年現在放映されている、大河ドラマ『いだてん』でも多様され、ここでは、古今亭志ん生が演者と語り手、そして、50年ほどの年月を行ったり来たりさせてますね。


ケリガン襲撃事件はほとんど事実の再現のみに徹して、ここは面白おかしくしてません。

 

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ナンシー・ケリガン。銀メダリストですが、選手としては凡庸でした。

 

 

ぼ本作はとにかく、クズとクソがメインキャストで(笑)、こんなアホな連中がこんなとんでもない事件をしでかし、それに巻き込まれる形でフィギュア・スケート界から永久追放されてしまったというバッドエンドなのですけども、なぜか見終わった印象が不思議と全く悪くないです。


結局、トーニャを強くしているのは、どんなに否定しても、あのクソ独裁者のような母親から叩き込まれたド根性であり、それが彼女をリレハンメル大会に出場させたという事なんですよね。


トーニャは、恐ろしいほど母親と似てます。


余りに似すぎている事がこの親子の関係を煉獄にしてしまったとも言えますし、それが不屈の闘志の源にもなっています(現在は造園家として、娘と穏やかに暮らしているそうです)。

 

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細巻きタバコの吸い方がものすごくイライラさせます(笑)。


そんな「オイディプス王」を見事に演じたアリソン・ジャネイがアカデミー助演女優賞なのは、むべなるかな。


私はトーニャ・ハーディングをリスペクトしますよ、ガチで。


必見。

 

 

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ベルイマン的な抉りのすごい映画を久しぶりに見ました!

イ・チャンドン(李滄東)『シークレット・サンシャイン

 


寡作な監督なので、実は全く知らない監督でした。


新作の『バーニング』(なんと、原作は村上春樹の中編です)の前々作で、2007年公開です。


イ監督は、脚本家、小説家、プロデューサーでもあるので、何もしていなかったのではなく、映画を撮る以外の仕事をしていただけのようですね。

 

また、自分で撮るべき脚本がない時は撮らないという信念があるようで、それが寡作になってしまう原因なのでしょう。


ですので、彼の映画ができました!となると、世界中のファンがどよめくわけですね。


旦那さんが亡くなって、彼の故郷の韓国の南部の密陽(ミリャン)に引っ越してきた元ピアニストのシネは、息子のジュンと2人でピアノ教室を開いて生活しています。

 

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密陽に向かう途中にたまたま助けてくれたのが、キム社長。


そんな彼女に気があるのか、不動産仲業を経営するキム社長は、韓国特有の濃厚な先輩後輩関係で生きている、典型的な人です。


ホン・サンスは韓国。というのをほとんど書き割りみたいなものとしてしか考えておらず、その社会と慣習とか風習みたいなものには何の興味もなく、自身のマジカルなテクストの更新をしているのですが、イ・チャンドンはジックリと腰を据えて、人物造形もとても的確で、韓国社会というものにも目を向けいるという、まあ、とてもオーソドックスなスタイルで、ほとんどブニュエルロメールが奇妙に合体したみたいな、誰にもマネできないようなスタイルで年1以上のハイペースで撮っているホン・サンスと好対照です(で、どちらもカンヌの常連)。


ホン・サンスを学習して映画を作るのは大ケガをすると思いますが、イ・チャンドンの地に足の着いた作り方は、ものすごく勉強になるのでは。


ものすごくありふれた小さい町の風景(実際の密陽市です)を写しているんですが、ビンボ臭かったり、貧相さがなくて、なんというか、昔の日本映画のいい絵を見ているみたいなんですよね。

 

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息子のジュンがなかなかいい味出してます。


始まり方は、この親子の物語に、社長が絡んでくる物語なのかな?と思わせるのですが、なんと、息子が誘拐されてしまいます。


なんと、コレ、サスペンス映画なの?と思いきや、実はそうではなくて、ネタバレさせちゃいますけども、結局、遺体で発見され、容疑者はそんなに意外でもない人物が逮捕されます。


で、このお話しの本筋となるのは、ここから先なんですよ(笑)。


ここからがこの監督の真骨頂で、日本に住んでいると気がつかない韓国社会のある一面がよくわかり、イ監督は、コレに対するかなり明確な批判的スタンスを取っています。

 

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儒教社会」だけでは見えてこない、韓国社会。


主人公のシニの「地獄」を淡々と、ラストに於いても特に答えすら与えることなく、スッとカメラがひいていくと所に、凄味を感じますねえ。

 

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シニを演じるチョン・ドヨンはカンヌで主演女優賞です。


ベルイマン的な人間のドロドロな内面を暴いていくような、容赦のない怖さを、久しぶりに思い出させる、骨太な監督です。

 

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ドストエフスキー的な容赦のない対面シーン!


コレを見て、彼の作品はすべて見なくてはならないと痛感せざるを得ない、秀作でした。


ちなみに、タイトルの「シークレット・サンシャイン」は舞台となっている密陽市を直訳したものです。

 

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人間の幸せって何なのでしょうね。

 

 

アクションなしでもフリードキンはすごい!

ウィリアム・フリードキン『真夜中のパーティ』


ハリウッド映画で、恐らくは真正面からゲイをテーマとした最初の映画。


あの大傑作『フレンチ・コネクション』の前年に公開されたのが本作というのが驚きですねえ。


70年代のフリードキンは、まさに絶頂期と言っていいでしょう。


あの、ザクザクと中華料理屋で白菜などを豪快に切っていくような心地よい編集がダイナミズムを与える監督が、オフブロードウェイで脚光を浴びた舞台の映画化をするというのは、どうなのかな?という杞憂がないわけでなかったのですが、実際見てみると、コレまたフリードキンの代表作といっても過言ではない素晴らしい出来映えなのでした。


ニューヨークのゲイ仲間が、夜に誕生パーティーを行うという、その一夜を描いたお話で、舞台のほとんどは、主人公のマイケルの自宅です。

 

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マイケル。写真家で最近頭髪の後退が気になっている。


パーティーが行われる当日に、マイケルの大学時代の友人アランから電話が来ます。

 

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アラン。彼の登場がこのドラマの重要な起点となります。


マイケルは友人たちとのパーティーで、キミの趣味には合わないから今度会おう。と言うのですが、アランは、電話口で突然泣き出して「頼むから会ってくれないか」と言い出すんですね。


コレはただ事ではないと思い、「じゃあ、今から来るといいよ」と言って電話を切ります。


しかし、再び電話が来ると、「さっきは取り乱してゴメン。明日会おう」といってきました。


結局、アランは来ない事となり、友人たちが集まってきて、パーティーが盛り上がってきたところで、アランが突然訪問してきます。

 

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シュープリームズの曲に合わせてノリノリ!男の子たちがキャッキャしているところはいいものです。


ここから物語が動き始めるのですが、ここからは見ていただくのが一番よいでしょう。


中盤、主人公はちょっと引いたポジションになるんですが、そのタメが後半に爆発していく流れは、ホントに見事でした。

 

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ハロルドの登場シーンが最高です(笑)。


もともとの原作が素晴らしいという事もあると思いますが、アクションやサスペンスを得意とするフリードキンは、やはり、人間ドラマをしっかりと撮ることができる確かな力量があったればこそ、あの骨太なアクション作品が撮れるんだなあという事を改めて認識しました。

 

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ウィリアム・フリードキンの凄さをまたしても再認識させられました。


役者陣に関する知識がほぼゼロなのですが、とにかく、全員抜群にうまい。


アメリカの俳優は層が本当に分厚いですね。

 

1970年代の映画が好きな人には、たまらない、非常に優れた人間ドラマでした。

 

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