ジャン=リュック・ゴダール『女は女である』
すんごい(笑)。
こんなに音楽というものが出鱈目に貼り付けられている映画というものがあるのだろうか。
私はゴダールの作品を20本も見てないと思いますが、こんな素朴な疑問がムツカシそうなゴダールを批評している本には書いてないの。
多分、それは原因はゴダール本人にあって、音楽について書かせまいという力が作品それ自体に内蔵されている気がするんですよね(笑)。
それは、2019年現在に至るまで厳然と存在している力なのではないだろうか。
ミシェル・ルグラン、ジョルジュ・ドリュリューという、フランス映画界を代表する2人を1960年代に起用しておきながら(本作はルグランですが)、あまりにもたくさんのサントラを映像とほぼ無関係に貼り付けるので(丁寧に見ると、ココはあってるかな?みたいなところは何箇所かあります・笑)、映像と音がリンクせず、しかも過剰なので、アタマな処理しきれなくなり、一切記憶に残りません(笑)。
カリーナが歌って踊るシーンは最初にのみあります。
ストーリーも、おそらくは、撮影してからでっち上げているのでしょう、各シーンのつながりが、音楽の使い方と相まって希薄であり、その点で『勝手にしやがれ』をはるかに凌いでおります。
なんとなく、『突然炎のごとく』のような三角関係を描いてはいますが。
長編3作目にして、手法がますます過激となり、当時の観客はほとんど取り残されているのではないでしょうか。
にもかかわらず、本作のプロデューサーである、カルロ・ポンティは、再び『軽蔑』でプロデューサーをしてまして、更にハイバジェットな作品となるんです(作品としては、本作よりも技法の過激さは抑えてます。音楽はジョルジュ・ドリュリュー)。
『雨に唄えば』へのオマージュ的なシーンかな?
トリュフォー『突然炎のごとく』のような三角関係、ドゥミ『ローラ』が直近でゴダールを刺激したのでしょうね、ゴダール流のミュージカル映画を作ろうとしたんだと思います。
ところが、いつものように、特にに何も決めないで、映像を撮りまくり、編集段階でイメージを固める。という所やり方では、音楽。という問題が出てきます。
多分、これまでのゴダールは、音楽は、自分でザッと切り貼りしてたんだと思うんですね。数も少ないので。
しかし、ミュージカル映画というのは、映像と音楽の極限のシンクロをやっていく事ですよね?
ところが、本作には、ゴダールとルグランがそんな事を行なったとは到底思えないんです。
ルグランはゴダールに言われた通りに莫大なサントラを納品したんだと思います。
しかし、それをルグランとは一切相談しないで、あんな風にやらためったら映像に貼り付けました。
セリフに音楽が思い切りかぶっていて、セリフが聞こえなくなるような事すらしている(笑)。
ベルモントがあんまり魅力的でないのが、ちょっと不満かな?
ハッキリ言って、ルグランに嫌がらせをしているのではないかとすら思えます。
ミュージカルなのですから、音楽とストーリーの関連性がかなり密接ですから、適当に映像を撮ってそこに音を当てるなどという手法と相容れないですよ、どう考えても。
ゴダールがなぜはちゃめちゃな事をしたのかという事についての本人のコメントを特に読んだことはないですし、ルグランがこのような扱いを受けたことについて、どう考えたのかは知らないのですが、ルグランのその後の莫大な仕事ぶりを見ていると、特になんとも思ってなかったのではないかと(笑)。
ゴダールによる、「登場人物が歌わないミュージカル」は、ハッキリ言って、失敗作だと思うのですが(でも、コレ、ベルリン国際映画祭で賞もらってるんですよね、信じがたい事に)、映像や編集は相変わらずの絶好調なので(言葉遊びや文献の引用のうまさは音楽に反比例して素晴らしいです)、結局、「変わった映画」として楽しめてしまうんですよね。
『地下鉄のザジ』の主人公が映ってますね。
天才の所業というのは、ホントにすごいと思います(笑)。
FIN