ジョン・フォード『リバティ・バランスを射った男』
ジェイムズ・スチュアートがジョン・ウェインを殴るという、なかなかにショッキングなシーンです。
ジョン・ウェインが最後にフォード作品に出演した映画として有名ですが、フォードはまたしても西部劇のセオリーをみずから破っていくんです。
何しろ、主演がジェームズ・スチュアートであり、ウェインではありません。
DVDのジャケットとかではあたかもダブル主演のように見せていますが、完全にスチュアートの映画です。
しかも、映画の構造が、そのスチュアートの回想なんです。
スチュアートはアクション映画の主演とは思えず、しかも、彼は上院議員役なのです(笑)
東部の弁護士がワイルドない西海岸にやってくるお話です。
フォード作品の中で、珍しく地位の高い人物を主人公にしているのも異色です。
まあ、キャサリン・ヘプバーンがメアリ・スチュアートを演じる『メアリ・スチュアート』や、『若きリンカーン』という、リンカーン大統領の若き日を描いた作品があるのですけども、西部劇と限定すると、相当に異色でしょうね。
そんな上院議員がならず者のルールが支配する、カリフォルニア州のある街にやってきて、そこで起こった出来事を回想しているお話なのです。
ウェイン演じるガンマンはその回想でしか出て来ず、この話のつまりスチュアートが回想している時点では、ウェインは亡くなってます。
この、無名の男の葬儀に、突然カリフォルニア州選出の上院議員がやってきたのはなぜなのか?がこの映画のそもそもの始まりなんです。
リー・マーヴィンはこの作品によって注目を浴びるようになりました。
この、お話のほとんどが回想。という構成の映画でフト思い出すのは、セルジオ・レオーネの畢生の大作、『Once Upon A Time in America』なのですが、コチラは、ウェイン側からの見た視点に変え、舞台を20世紀のアメリカに変え、スチュアート役が民主党の陰の実力者に巧みに改変した、一大オペラになってますが、明らかに、本作に着想を得たのでしょうね。
スチュアートは周囲に推されて選挙に立候補する事に。
レオーネ監督は、「その功績が後世の歴史に残る事なく消えていった男」の話に執着があり、その原点は本作であり、着火点は、黒澤明『用心棒』という、映画史的に見ても、とてもユニークな監督ですね。
そんなレオーネが生涯をかけて表現したかったものが、タイトル通りに進行していくんですが、その「英雄」として、「アメリカ史」になってしまったスチュアートの回想は、オーソン ・ウェルズ『市民ケーン』の「薔薇のつぼみ」のように誰にも知られる事もなく(実際には新聞記者には、知られるので、厳密には違いますけど)、「偉大なる上院議員の歴史」のみが語られる事になるんです、映画の構造上。
それは、『Once〜』のヌードルスが生きながら死者になっている(別人として生きているのですが)構造とも同じです。
で、どうやら、レオーネ監督はホントに本作がとても好きらしいんです(知ってる方、教えてください)。
フォード作品において、ジョン・ウェインが演じる役割は、そんなに英雄的な人物ではなく、たとえば、『捜索者』でも、どこにも居場所のない男だったりするので、もう、フォード作品におけるウェインの最期が本作であったのは、ある意味決まっていたのかもしれませんが。
以上のようなエモさが絵からビンビンと背景がわからなくても伝わってくるので、ややフォードにしては甘いところがないではないです。
それはフォード作品にしては、上映時間が長いのは(フォード作品は、80-90分くらいがほとんどでして、100分超えると長い方になります)、その端的な表れだと思いますが、にしても、本作を見ると、どうしても「フォード史/ウェイン史」が走馬灯の如くというほどではありませんが、思い起こされるわけです。
コレは如何ともし難い、ロマンというものなのでしょうか。
フォードにとっても、最後の西部劇となった、本作はやはり必見です。
誰がリバティ・ヴァランスを撃ったのかは、見てのお楽しみです!