娯楽映画は90分で充分!

三隅研次『剣鬼』

 

 

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大映はタイトルカットがいつもカッコいいですよね。

 

 


剣三部作の第3作目にして、最高傑作。

 


三隅研次大映を代表する職人監督ですが、その彼の代表作は何か?と問われたら、本作を含めた剣三部作を挙げない人はいないでしょう。

 


『斬る』(1962)『剣』(1964)『剣鬼』(1965)は、続きモノでもなく、第2作目は原作が三島由紀夫(!)の現代劇ですから(他は柴田錬三郎)、時代すら一貫性がないのですが、主演が市川雷蔵であり、その主人公が剣に魅せられ、それが故に身を滅ぼしていくという、デカダンスの話しである事に共通点がある事から、三部作と言ってよいと思います。

 


三部作の主人公はそれぞれに剣の道を行くんですけども、その立場が一番特異なのが本作です。

 


最初の5分ほどで、雷蔵演じる主人公の生い立ちが展開しますが、精神に問題のある藩主の正室に最期まで使えた女性が雷蔵の母なのですが、父親が最後まで不明です。

 


この藩主の正室が遺言とした事が、この侍女の身分を保証する事と、愛犬を大切に育てる事でした。

 


雷蔵の母は雷蔵を産むとほどなく亡くなってしまいます。

 

 

 

この父親の不明の子供を闇から闇へ葬る事も可能ですが、現在の藩主の母親が大切としていた侍女の子ですから、藩の下級武士(登城が許されません)の子供として育てられます。

 


しかし、この侍女と犬がほぼ同時に亡くなった事から、犬と侍女の間にできた子供ではないのか?という揶揄が広まり、雷蔵は「犬っ子」と蔑まれながら、信州の小藩で生きていく事になります。

 


それから一挙に23年が経過しまして(この辺のザックリ感が素晴らしいです)、雷蔵は蔑まれながらも、造園家としての才能を買われて、登城を許されました。

 

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「犬っ子」と揶揄されながらも、造園家としての才能を発揮する雷蔵


この頃、代替わりした藩主は、その母と同じく、精神に疾患があり、突然、馬に乗って早駆けするという、奇妙な習慣がありました。

 

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狂気の君主。


雷蔵は生来、恐ろしい健脚で、この突然の藩主の早駆けを、なんと、走って追いかけていき、馬をなだめる事が出来たんです。

 


この事があり、雷蔵は藩主のお気に入りになり、出世する事が出来ました。

 


しかし、この雷蔵の才能に目をつけてたのが、有望株の家臣を演じる佐藤慶です。

 

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家老の一番の懐刀を演じる佐藤慶


佐藤慶は、こういう絶妙な立場の悪役を演じされたら天下一品の役者でしたねえ。

 


彼は、精神疾患の藩主の存在が公儀隠密の調べによって、幕府の知るところのなっては、この小藩が取り潰されてしまう。と、家老と危惧を共有していたんですね。

 


この佐藤慶が、藩内に潜入する隠密を暗殺する仕事を雷蔵に依頼するんです。

 


えっ、造園家に?という事なんですが、実はこの前に諸国を遍歴しているという浪人の居合術雷蔵は魅せられ、彼に弟子入りしていたんです。

 


しかし、その修行がとても変わっていて、「剣術と居合術は違う。居合術とは要は刀を出して、相手を斬って、刀を収める事のみ。居合術を教える事など出来ないが、私の動きを見ていなさい」と言って、ただ、その居合術を見せるだけなんです。

 


で、雷蔵はその動きを見て「わかりました」と言うんですよ(笑)。

 


その間がものすごく短くて、ホントかよ!と突っ込みを入れたくなりますが、そういう所が呆気ないほどにオミットされている所がこの映画の大胆で面白いところです。

 

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居合の達人となる雷蔵は藩の密命を受ける暗殺者となっていく。


で、そんな折に暗殺指令を受けるようになり、なんだかいつの間にか、暗殺稼業に雷蔵はへんぼうしていき、「犬っ子」という揶揄がいつしか、ホントの藩政を守るための「番犬」になってしまっていくんです。

 


ここで、雷蔵は造園家から、タイトル通りの剣鬼に変貌していくんです。

 

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剣の魔力に取り憑かれていく雷蔵


と、ストーリーはこんなところにしておきまして、あらすじだけを見てしまうと、なんだかご都合主義的で雷蔵が余りにも簡単に居合術の名人になってしまったり、それに合わせて暗殺指令が出たりしているのが、おかしいんですけども、コレが三隅研次の演出にかかると俄然面白くなるんですよ。

 


セルジオ・レオーネを思わせる極端なアップの多様、予想外のキャメラアングル、そして、なんといっても、ほとんど「刀剣フェチ」と言っていいほどの刀を写す時のカメラの食いつきの凄さですね。

 


恐らく、三隅監督は相当に刀剣が好きなのでしょう、監督自身が刀剣の魅力に飲み込まれているではないか?とすら思えるような場面が数多く出てきて、その描写が剣三部作の中でも突出しています。

 


コレだけてんこ盛りなストーリーなのに、上映時間は90分もありません。

 


大映のプログラムピクチャーの1つですから、3本立て上映を基本として作られているので、90分以内に収める事を前提に作るという制約があるんですね。

 


この制約は、市川崑増村保造という、大映のエース級の監督ですらありました。

 


とにかく、時間制限がとても厳しい中で制作されていましたから、余計な事は一切できず、それでいて面白くしなくてはいけないわけですから、監督はアタマを絞らざるを得ません。

 


それが本作のような、非常にスピーディでメリハリの効いた娯楽作品を作る事に成功しており、三隅監督は、年に数本の映画をコンスタントに撮るような、ハイペースに映画を作る監督になりました。

 


そんな中でも、自分の表現というものをキチンと伝えていたわけですから、三隅研次は素晴らしい監督だったといえるわけですね。

 


アクションシーンも素晴らしいのですが、私が特に素晴らしいと思ったのは、冒頭の雷蔵の呪われた生い立ちを非常にコンパクトに語る場面の、極端に様式化された演出ですね。

 


今の映画だったら、30分はかけてしまうところをたったの5分で片づけてしまうための大胆な演出なのですが、ここの撮影がホントに素晴らしかったですね。

 

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フォークナー→村上春樹→イ・チャンドン

李滄東(イ・チャンドン)『バーニング』

 

 


イ・チャンドンの8年ぶりの新作。

 


原作は村上春樹の短編『納屋を焼く』で、コレを韓国に置き換えて、坡州(バジュ)を舞台にしたお話となってます。

 


もともと、NHK村上春樹の短編をドラマ化するというプロジェクトの一環だったのだそうですが、コレが結局、劇場作品になりました。

 


日本では、NHKで95分の短縮版が放映され、続いて完全版が劇場公開されるという、変則的な形で上映されました。

 


お話しのスジは大変シンプルですが、140分を超える結構なボリュームのある作品です。

 

 

 

主人公のジョンスは、大学を出ながらも、ロクに就職もせず、小説を書いているような、まあ、村上春樹によくいるキャラですね。

 

 

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ジョンス。ちょっとジョイスっぽい名前でもあります。

 


そんな彼が街でたまたま出会った幼馴染みのヘミとその友人である、高等遊民のベンとのお話しです。

 

 

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偶然、ヘミと出会う。整形していたので、ジョンスはすぐに気がつかない(韓国はブラジルと並ぶ整形大国です)。

 


本作のカギとなるのは、アメリカの作家、ウィリアム・フォークナーです。

 

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20世紀のアメリカを代表する作家、フォークナー。『三つ数えろ』や『黄金』の脚本を書いた事でも有名です。

 


フォークナーというのは、なかなか日本では人気のある作家とは言えませんけど、アメリカ南部の因習深さというか、人種差別とか、そういうアメリカの闇を描いているんですよ。

 


しかも、彼が最も脂がのっていた、1930年代(作品が読まれるようになるのは、もっと後なのだそうです)のアメリカですから、ハッキリと書くことはできないんですね。

 

 

何しろ、アフリカ系の人たちには公民権などない時代です。

 


どうしても、仄めかすように書かざるを得ないんです。

 


まあ、ハッキリ言えば、わかりづらい(笑)。

 


しかし、世の中にはというのは、何もかもわかりやすくはできてはいないし、言葉に出して言えないことはいつの世もあるわけですよね。

 


フォークナーが生まれ育ったアメリカ南部にもそういうものが濃厚にあり、それが彼の文学の中心にありました。

 


そんな晦渋な作家を村上春樹も好んでいるようでして、それを『納屋を燃やす』という、あまり注目されていないと思われる短編(村上春樹ファンではないので、間違ってるかもしれません)の中で、主人公に言わせており、それが本作の作品の核にもなっているんです。

 


と、回り道しましたけど、本作は、こんな事から決して万人向けではない事は最初に断っておきます。

 


本作の話しの転機は幼馴染のヘミが失踪してしまう事からサスペンス性が高まります。

 

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ジョンス、ヘミ、ベンの三角関係。

 


が、ヒッチコックジェイムズ・スチュアートよろしく必死になってジョンスがヘミを探すわけでもないんですよコレが。

 

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ヘミの消息は本作では明らかになりません。

 


ジョンスの被害妄想はだんだんと大きくなっていき、失踪の原因を高等遊民のベンに決めつけていくんです。

 


このベンという青年がなぜこんなにカネがあり、日本で言うところの億ションに暮らしているのかは、本作では全く明らかにされません。

 

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ジョンスはベンをストーキングし始める。

 


しかし、没落した酪農家の息子であるジョンスはホンダのオンボロな軽トラックを乗り、ベンはポルシェに乗っている。

 


イ・チャンドンはハッキリとは言ってませんけども、韓国社会の勝ち組/負け組の露骨さを、クルマというもので観客にわからせようとしているんだと思うんですね。

 


また、イ監督は一貫して、ソウルを舞台とした映画を撮らず、必ず、それほど有名でもない地方都市をロケーションして撮るんですけども、この、ソウルと地方都市との格差みたいなものは常に感じさせます。

 


原作の納屋は、映画ではビニルハウスになっていますが、ネタバレさせてしまいますけども、この謎は解けません。

 


タイトルが何を意味するのかは、明かされないんです。

 

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ビニールハウスは何を象徴するのでしょうか。

 


この韜晦っぷりは、ハリウッド映画にはちょっと見られないものです。

 


で、そういう晦渋と韜晦というイ監督の気質が、村上春樹〜フォークナーとものすごいフィットしてるんですよね。

 


つまり、本作は、もう題材として選択した段階で成功しており、その意味で、NHKがイ監督にドラマ制作を依頼した事の見識の確かさは誇ってもいいのではないかと思うのと同時に、日本の監督にどうしてコレが撮れないのか?という事も思ってしまうのでした。

 

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このネコちゃんは見てのお楽しみ。

 


いずれにしましても、いざ、監督するとやはり傑作を作ってしまうイ・チャンドンは現代を代表する巨匠と言わざるを得ませんね。

 


彼の作品は全てオススメです。

 

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ブニュエルは最後までブニュエルであった(笑)。

ルイス・ブニュエル『欲望のあいまいな対象』

 

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フェルナンド・レイの語る、奇妙なお話し。


最後のシュルレアリストにして、うなぎのような反骨精神を貫いたブニュエルの遺作。

 


と言っても別にそんなに重く受け止める必要はなく、シルベルマン/カリエールと組んだ、アタマのネジが一本取れたような、あのトボけ感と、いつもの唐突なラストに、更に老人力が加わった、肩の力が抜けた快作。

 


ブニュエル組。と言ってもよい、怪優フェルナンド・レイが電車の中で語る、コンチータという女性の回想。という体裁で、進む、谷崎潤一郎なお話しです。

 


にしても、この肩の力の抜けっぷりがもう素晴らしいですね。

 


若い頃、と言っても、もう50歳は過ぎてたんですけども(1900年生まれ。デューク・エリントンヒッチコックよりも1つ歳下)、メキシコ時代の多作ぶりとその反骨精神は、まことに天晴れという他ない監督ですけども、フランスに渡ってからの「ユルすごい」という、他の追随を一切許さないオリジナルな作風もコレまた絶品であり、しかも、レオン・リー並みの高打率(喩えが古過ぎてスンマソン。若い子はググってね)なのです。

 


そんなブニュエルですから、もう、私なんかは安心して見てられるんですども、まあ、ハリウッド映画しか見たことない人には、「あれ?」みたいな展開が唐突に起こるので、そこがイライラ、モヤモヤしっぱなしでしょうね。

 


ブニュエルは、そういう人を明らかにおちょくっていて、「そんなハリウッド映画みたいに全部がつじつまが合うように説明できるなんて、強迫観念っしょ」という信念に基づいて、つじつまがどこかおかしい映画ばかり作り続けた、ホンモノの反骨です。

 


基本は金持ちのおっさんと若い女性を巡るメロドラマなんですけども、それがとても奇妙でどこかおかしいんですね。

 

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コンチータとの出会いがこの中年男を狂わせる。見ている側とともに。


ハナからぶっ飛んでいるのではなくて、ディテールがおかしいんですよ。

 


その最大のポイントは、すでに指摘されていますが、フェルナンド・レイが演じる中年が恋い焦がれるコンチータを演じる女優が2人いまして、何の説明もなく、2人は入れ替わってます。

 


2人一役という、とんでもないイタズラをブニュエルは仕掛けていたんですね。

 

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はい。コンチータを演じているのは、このお二人でした。

 

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しかし、公開当時、この事に気付いている人は少なかったんです(笑)。

 

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フェルナンド・レイの「欲望の対象」は明確なのに、映画のタイトルが「あいまいな対象」となっているのは、そういうイタズラであったと。

 

 

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その他にも、通奏低音ように、テロが何度か唐突に起こっており、コレが最後の大爆発の伏線には一応なってますけども(新聞で飛行機墜落!みたいな虚構新聞もビックリな見出しも出てきます)、ブニュエル作品にしばしば見られる、「強制終了」ではあります(笑)。

 


ハリウッド映画の、ある意味、強迫観念とも言える伏線張りまくり、起承転結ありまくりばかりを見ていると、何が面白いのかわからないどころか、途中で不愉快にすらなる作品かもしれませんが、そういうものを放棄して虚心坦懐に見ますと、これほど痛快な作品もないと思うので(爆発)

 

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オーソン・ウェルズのシェイクスピア劇の集大成!

オーソン・ウェルズオーソン・ウェルズのフォルスタッフ』

 

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愛すべき怪人、フォルスタッフ。


シェクスピアのいくつかの戯曲に出てくる、架空の巨漢の騎士、サー・ジョン・フォルスタッフを主人公とした、ウェルズの主演・監督作。

 


お話しの大枠としては、ヘンリー4世からヘンリー5世という、15世紀初頭のランカスター朝のお話しで、まだ、フランスとは百年戦争の最中で、停戦中です。

 


王太子のヘンリーとフォルスタッフは放蕩仲間で、お話しの前半はそこが丹念に描かれています。

 

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王太子ヘンリーとフォルスタッフ。


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で、中盤は1403年に起こった、ウェールズの反乱に合流した、ノーサンバランド伯ヘンリーとその息子のヘンリー・パーシー(ヘンリーばかりでややこしいです)と、伯父のウスター伯トマスがイングランドに叛旗を翻したので、ヘンリー4世と王太子ヘンリーが迎え撃つお話しです。

 

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ランカスター朝創始者、ヘンリー4世。


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そして、後半は数々起こる反乱によって病気がちとなるヘンリー4世の跡を継ぎ、ヘンリー5世が即位するお話しです。

 


おおよそ、シェークスピアの『ヘンリー4世』の二部作に基づいた構成になっており、ここに『ウィンザーの愉快な女房たち』活躍するフォルスタッフの様子を加えての映画作品となっているのですが、素晴らしいのは、前半から中盤にかけての驚くほどスピーディで短いショットを積み上げていく、ウェルズ独特の編集とキャメラワークの凄さですね。

 


ウェルズ演じる、放蕩の巨漢フォルスタッフのうまさは、もう言葉が追っつかないですね。 

 

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愛嬌と凄みが共存する、人間というより、妖怪とか怪物に近いキャラクターで、それを極端にデフォルメした着ぐるみのような体型とメイクという、普通にやってしまったら、ほとんどキワモノになりかねないような事をウェルズの演技力によって、違和感なく映画の中に溶け飛んでいるというのは、脱帽という他ありません。

 


ヘンリー4世は、ジョン・ギールグッドですね。シェークスピア俳優として名高い人なので、冷徹なイングランド王を見事に演じております。

 


そして、もう一つ特筆すべきは、中盤のノーサンバランド伯とウースター伯の、いわば、パーシー一族によるイングランドへの反乱の戦いのシーンの凄さですね。

 

 

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写真のみだとわかりづらいですが、ものすごい戦闘シーンです!

 

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ご存知のように、ウェルズはデビュー作『市民ケーン』で、新聞王ハーストを激怒させてしまい、事実上、「亡命者」のようにいろんな国から資金援助を受けながら映画を撮り続けたのですが(資金難でいくつかのの映画が途中で挫折していますし、完成した作品が不当にカットされているものすらあります)、本作もスペインで撮影され、かなりの低予算なのですが、そういう資金難が微塵も感じられないほどの凄絶な戦闘シーンでして、白黒撮影の利点を見事に使ったどこか幻想的でもある映像で、短いショットの積み重ねの中で敵なのか味方なのかも定かではない殺し合いをひたすら写しだすという、とにかくもって凄まじい映像が展開します。

 


そこをファルスタッフが一切戦闘に加わらず、隠れたり、逃げ回っているシーンを何度もスッと見せるのがコレまたおかしいのですが。

 


王太子ヘンリーとヘンリー・パーシーの一騎打ちも、一切の虚飾なしの演出で描かれていますね。

 


しかし、このような目まぐるしくも華々しい展開が後半になると、急に重苦しくなっていきます。

 


この極端な対比がフォルスタッフの奈落の底に落ちていくような没落と相まって、ウェルズはこの後半をとても冷徹に描いております。

 

ウェルズは、シェークスピア作品として、『マクベス』、『オセロ』、そして本作を撮っていますがそのどれもが秀逸で、オススメできます。

 

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政府による壮大なヤラセ!

ピーター・ハイアムズカプリコン1

 

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火星へ向けて打ち上げられる花火られる「カプリコン1」

 


コレは面白かった!

 


70年代のアメリカ映画は私の好みにバッチリ合いますが、コレも最高でした。

 


本作はNASAの宇宙開発をめぐる、とんでもないヤラセ事件(実際にあったわけではないですよ)を描いた作品ですけども、そのヤラセ計画がすごいわけです。

 


ロケットの打ち上げというのは、莫大な国家予算が必要なんですけども、コレを継続させるために、火星への着陸計画をでっち上げて、大統領ならびにアメリカ全国民を騙すという、計画なんですよ。

 

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三人の宇宙飛行士。

 

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巨大なヤラセ計画に巻き込まれてしまう三人。


しかし、この計画がひょんなところからほころびが出てくるんです。

 


そこからのサスペンスが、CGもインターネットもない時代だと、こんなに大変なのだ。という事が、実に丹念に描かれていいるんですが、本作は、まず、この脚本の面白さ、大胆な構想ですよね。

 


もう、それで80%は勝ちですが、そこに説得力を持たせるアクションの面白さです。

 


このアクションをないがしろにしてしまっては、全くもって面白くもなんともない作品になってしまいますよ。

 


CGがない時代はホントにクルマを走らせ、飛行機を飛ばし、かつ、映画的な迫力を演出していかなくてはならないので、ホントに大変なんですけども、そこの手抜きが全然ないですね。

 

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巨大な渓谷の中をヘリコプターと複葉機がホントにチェイスでございます!

 

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ホントに飛んでいる飛行機にしがみついております!


私が個人的に一番よかったシーンは、新聞記事のエリオット・グールドがやれやれと自宅に戻ったところにいきなりFBIが操作に乱入するところで、コレはホントにうまかったなあ。

 


アメリカ映画の非常に良質なエンターテイメントを堪能させてもらった逸品でした。

 

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ヤラセ計画を暴こうとする、エリオット・グールド。後ろにいるのは、テリー・サバラスです。

 

 

 

 

 

 

 

じゃない方の『クラッシュ』です!

ポール・ハギス『クラッシュ』

 


この映画の事を全く知らないまま、テレビでの放映で見ました。

 


ロサンジェレスの一日の出来事を、特定の主人公なしに、かなりの登場人物が複雑に絡み合いながら、進んでいく作品で、キャスティングはなかなか豪華ですが、それがそんなにウリでもないですね。

 


一応、有名どころのキャスティングを言いますと、テレンス・ハワードサンドラ・ブロックリュダクリスマット・ディロンドン・チードルなどなどと。

 

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ドン・チードルは刑事です。


これだけのキャスティングで、主演がいないという、ロバート・オルトマンを思わせるお話しですが、オルトマンの70年代の映画のような、ラストに、ズゥゥゥンと来るコワさみたいなところに持っていってない、実は、ちょっとしたクリスマス映画なのです(この辺はオチなので、実際に見てください)。

 

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サンドラ・ブロックは検事の奥さんで、リュダクリスらにクルマを強奪されてしまいます。 


2005年公開で、私はしらなかったのですが、アカデミー作品賞だったと(この頃、一番アメリカ映画を見てなかったんですね)。

 


タイトルを見たときに、「クローネンバーグの映画かな?」と勘違いしている程知らなかったんですけども(笑)、絵を見ていたら、明らかにハリウッド映画で、ベツモノである事に気がついたわけですが、数分画面を眺めていたら、「アラッ、コレ、いい絵だなあ」と気がついたんですね。

 


いやらしい言い方ですけどとも、いい映画かどうかって、五分も映像見てたら、わかってしまいますよね。

 


で、コレは何も知らなかったんですけども、やっぱりよかったんです。

 


こういう経験をする確率は、なぜかテレ東で多いですね(笑)。

 


リチャード・フライシャー絞殺魔』とか、ニューポート・ジャズ・フェスティバルの模様を撮った『真夏の夜のジャズ』は午後ローで偶然見ましたなあ。

 


それはさておき、本作が2005年公開というのが、やはり、重要ですよね。

 


2000年9月11日に起きた複数の飛行機を用いたテロ事件がアメリカ社会を神経症的な発作に駆り立て、それがイラク侵攻、フセイン政権の崩壊へとつながるわけですが、そういう、最中にこの映画が発表されたというのが、やはり素晴らしいんですよね。

 


本作のテーマは、昨今またしても再燃している人種差別問題であります。

 


それが白人/黒人という、単純な二元論対立ではなく、ここに、白人の中でも裕福な白人とプアホワイト、黒人の中にも同様の経済格差/社会階層があって、より複雑化しており、更に、イラン系(映画内ではペルシャ人と名乗ってますが)のアメリカ人の家族が出てくる事で、重層的に人種問題を描いていますね。

 

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テレンス・ハワードはテレビのプロデューサーです。


出てくる登場人物も、刑事、検事、テレビプロデューサー、カギの修理屋、雑貨商、警察官など、一見結びつきそうもない人々が、それぞれひょんなことから結びついていくんですが、それらの結びつきが人種差別問題を着火点としている点が、本作の特徴です。

 

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マット・ディロンは、人種差別的な警察官を演じてます。


タイトル通りの様々な「衝突」を描いているんですけども、とかく、こういうお話は、アタマでっかちになりがちで、そこが白けちゃうんですけども、この作品はそういうものがなく、単なる人々のイザコザを殺伐と描いているんではなく、根底にアメリカらしいニューマニズムが流れているのがとても好感が持てました。

 


見終わった後も後を引く、ジンワリと来る静かな感動がなんとも心地よい映画でした。

 

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この作品でゴダールは作風を確立しました。

ジャン=リュック・ゴダール気狂いピエロ

 

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この斬新なデザインは後世に計り知れない影響を与えましたね。

 

https://youtu.be/ZXiFjS9uLTQ


2019年に89歳となるにもかかわらず、未だに作品を発表し続ける孤高の天才ゴダールの、1960年代の最高傑作(ということは、映画史上の傑作)。

 

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初めて見たのは高校生の頃で、フランス映画社が配給していた、たしか、ソニー製のVHSで、当然レンタルでした。

 


で、なんのこっちゃわからなかったですよ(笑)。

 

 

 

ストーリーなんて、『勝手にしやがれ』(『駅馬車』、『望郷』と並ぶ、素晴らしい邦題。ちなみに、ワーストは『暴力脱獄』)よりも更になくなっていて最後にジャン=ポール・ベルモントがアタマにダイナマイトを巻きつけて死ぬ。って、どういう事ですか(笑)。

 

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北海道のド田舎街に住んでいた私の周りにシネフィルなぞおらず(要するに高二病だったのですが)、せいぜいが『ダイ・ハード』くらいで喜んでいるような程度のオツムには、理解不能なのでした。

 


2回目に見たのは、東京の大学に進学してからで、とにかく、東京に来たら映画を見まくろうと思っていたので、『ぴあ』を購入してGWに初めて名画座に行って見たのが、『勝ってにしやがれ』と『気狂いピエロ』の二本立てでした。

 

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もう、とにかく、何でもいいから見たかったんですね(笑)。

 


今はなくなってしまった、高田馬場の駅からすぐ近くにあった名画座です。

 

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ベラスケスなどのアートに耽溺するフェルディナン/気狂いピエロ


2回目は、不思議とよくわかりましたね。

 

で、今回が4回目です。


ハリウッド映画的な文法から意図的に遠い(ただ、外観は1950年代のアメリカ映画に似せてますけどね)作品なのだ。というのは、1回目でわかりましたから(笑)、そういうものを取り払って、ゴダールの編集のタイミングとか彼ならではの言葉遊びなんかを楽しみながら、彼が意図的に切り刻んだ上でつなぎ合わせたような映像に付き合うように見ると、ベルモントが演じる男の空虚な内面が見えてくるんですね。

 

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一見、デタラメなんだけども、ある男が爆死するまでを一直線に描いているんですね。

 


ゴダール映画は真ん中がダレタレなので、そこが一般的な映画ファンはもうついていけない(笑)。

 


本作は一応、ベルモント(フェルディナン/気狂いピエロ)とマリアンヌ(アンナ・カリーナ)の逃避行やサスペンス仕立てにはなってますけども、それはゴダールが語りたい事のための書き割りのようなもので(ただ、それが余りにも美しくできているので、見ている方は「ゴダールってば、なんてオシャレなんでしょう!」となってしまうんです)、『勝手にしやがれ』から本作にかけて、ストーリーが映画を駆動していくチカラがなくなっていきます。

 

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思いっきりハリウッド映画的な車のシーン。


それが「退屈」を生み出すのですが、ゴダールは編集する事まではさすがに放棄していないので(というか、それがこの人の才能の大半だと思います)、どんなに空疎な記号を弄んでいるように見えても、映画である事から完全に逸脱しているわけではないんですね。

 

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何度も唐突に挿入される、フェルディナンの日記。

 

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こういう言葉遊びはゴダールの得意技ですね。


主人公フェルディナンは恐らくは、ゴダールの分身であり、現実をつまらないものと思っているんです。

 


では、何に喜びを見出したのかというと、それが映画である。

 


本作冒頭で、ゴダール本人も愛してやまない映画監督のサミュエル・フラーが唐突にカメオ出演してますが、フラーに言わせているセリフは、ゴダール本人の考えであり、フェルディナンはこの考えに基づいて、マリアンヌとの逃避行に出るんですが、この2人の考え方は、全くすれ違っている。

 

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「映画とはエモーションである」

 

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『勝ってにしやがれ』もよくよく考えると、ベルモントジーン・セバーグの考え方は最後まですれ違いですね。

 


『勝ってにしやがれ』はベルモントは警察に通報されても逃げようともせずに刑事に射殺されます。

 


コレに対して、本作はベルモントがカリーナを射殺し、更に顔に青い色に塗って頭にダイナマイトを巻きつけて爆死し、タイトル通りの最期を遂げます。

 


前者は衝動的なんですけども、後者は意思をもっての行動です。

 


破滅的なラストを描いているんですけども、全然違うんです。

 


本作は、突然、フェルディナンが車を運転しながら、後ろに向かって話しはじめるシーンがあるんですけども、それに対して、カリーナは「誰に話してるの?」というと、「観客だよ」と言い、カリーナは一瞬カメラ目線になって、ああ、そうか。という表情になります。

 

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私たちは『気狂いピエロ』という

映画を見てるんですけども、それは、この映画は現実の何かを描いているんではなくて、「映画」なんですよ。と端的に示していて、つまり、唐突にサスペンスになったり、意図的にワザとらしいアクションシーンがあったりすることも、「映画」なんですよ。と言ってるんですね。

 

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アクションや暴力が極端なまでに空虚です。


しかも、それは、フェルディナンのアタマの中で展開している「映画」なんです。

 


それを完結させるためにマリアンヌを殺害し、自分も爆死しているんですね。

 

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一見破天荒に見せてますが、やろうとしている事自体はとてもシンプルであり、この作品自体がゴダールの映画論なんです。

 


後に、ここにゴダール独自の資本主義批判とかが更に重層的に入ってきて、論がドンドン強くなってしまって、一般的なファンを失うんですが(そう考えると、『ワン+ワン』がローリング・ストーンズのドキュメンタリーとして秀逸と考えるのは実は違うのではないかと思います)、実はやろうとしている事はあまり変わっておらず、それは現在に至るまで一緒なのだ。という事なのだと思います。

 

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I’art(アート)にmoを加えてla mort(死)に


勝手にしやがれ』から、本作までは、「映画」というものをいかに映画で語るのか?という事に専心していた時期であり、その巧みな編集と素晴らしい映像を見る上で欠かせない作品ばかりですので、すべておススメします。

 

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見つけた

何を?

永遠を