この作品でゴダールは作風を確立しました。
ジャン=リュック・ゴダール『気狂いピエロ』
この斬新なデザインは後世に計り知れない影響を与えましたね。
2019年に89歳となるにもかかわらず、未だに作品を発表し続ける孤高の天才ゴダールの、1960年代の最高傑作(ということは、映画史上の傑作)。
初めて見たのは高校生の頃で、フランス映画社が配給していた、たしか、ソニー製のVHSで、当然レンタルでした。
で、なんのこっちゃわからなかったですよ(笑)。
ストーリーなんて、『勝手にしやがれ』(『駅馬車』、『望郷』と並ぶ、素晴らしい邦題。ちなみに、ワーストは『暴力脱獄』)よりも更になくなっていて最後にジャン=ポール・ベルモントがアタマにダイナマイトを巻きつけて死ぬ。って、どういう事ですか(笑)。
北海道のド田舎街に住んでいた私の周りにシネフィルなぞおらず(要するに高二病だったのですが)、せいぜいが『ダイ・ハード』くらいで喜んでいるような程度のオツムには、理解不能なのでした。
2回目に見たのは、東京の大学に進学してからで、とにかく、東京に来たら映画を見まくろうと思っていたので、『ぴあ』を購入してGWに初めて名画座に行って見たのが、『勝ってにしやがれ』と『気狂いピエロ』の二本立てでした。
もう、とにかく、何でもいいから見たかったんですね(笑)。
今はなくなってしまった、高田馬場の駅からすぐ近くにあった名画座です。
ベラスケスなどのアートに耽溺するフェルディナン/気狂いピエロ
2回目は、不思議とよくわかりましたね。
で、今回が4回目です。
ハリウッド映画的な文法から意図的に遠い(ただ、外観は1950年代のアメリカ映画に似せてますけどね)作品なのだ。というのは、1回目でわかりましたから(笑)、そういうものを取り払って、ゴダールの編集のタイミングとか彼ならではの言葉遊びなんかを楽しみながら、彼が意図的に切り刻んだ上でつなぎ合わせたような映像に付き合うように見ると、ベルモントが演じる男の空虚な内面が見えてくるんですね。
一見、デタラメなんだけども、ある男が爆死するまでを一直線に描いているんですね。
ゴダール映画は真ん中がダレタレなので、そこが一般的な映画ファンはもうついていけない(笑)。
本作は一応、ベルモント(フェルディナン/気狂いピエロ)とマリアンヌ(アンナ・カリーナ)の逃避行やサスペンス仕立てにはなってますけども、それはゴダールが語りたい事のための書き割りのようなもので(ただ、それが余りにも美しくできているので、見ている方は「ゴダールってば、なんてオシャレなんでしょう!」となってしまうんです)、『勝手にしやがれ』から本作にかけて、ストーリーが映画を駆動していくチカラがなくなっていきます。
思いっきりハリウッド映画的な車のシーン。
それが「退屈」を生み出すのですが、ゴダールは編集する事まではさすがに放棄していないので(というか、それがこの人の才能の大半だと思います)、どんなに空疎な記号を弄んでいるように見えても、映画である事から完全に逸脱しているわけではないんですね。
何度も唐突に挿入される、フェルディナンの日記。
こういう言葉遊びはゴダールの得意技ですね。
主人公フェルディナンは恐らくは、ゴダールの分身であり、現実をつまらないものと思っているんです。
では、何に喜びを見出したのかというと、それが映画である。
本作冒頭で、ゴダール本人も愛してやまない映画監督のサミュエル・フラーが唐突にカメオ出演してますが、フラーに言わせているセリフは、ゴダール本人の考えであり、フェルディナンはこの考えに基づいて、マリアンヌとの逃避行に出るんですが、この2人の考え方は、全くすれ違っている。
「映画とはエモーションである」
『勝ってにしやがれ』もよくよく考えると、ベルモントとジーン・セバーグの考え方は最後まですれ違いですね。
『勝ってにしやがれ』はベルモントは警察に通報されても逃げようともせずに刑事に射殺されます。
コレに対して、本作はベルモントがカリーナを射殺し、更に顔に青い色に塗って頭にダイナマイトを巻きつけて爆死し、タイトル通りの最期を遂げます。
前者は衝動的なんですけども、後者は意思をもっての行動です。
破滅的なラストを描いているんですけども、全然違うんです。
本作は、突然、フェルディナンが車を運転しながら、後ろに向かって話しはじめるシーンがあるんですけども、それに対して、カリーナは「誰に話してるの?」というと、「観客だよ」と言い、カリーナは一瞬カメラ目線になって、ああ、そうか。という表情になります。
私たちは『気狂いピエロ』という
映画を見てるんですけども、それは、この映画は現実の何かを描いているんではなくて、「映画」なんですよ。と端的に示していて、つまり、唐突にサスペンスになったり、意図的にワザとらしいアクションシーンがあったりすることも、「映画」なんですよ。と言ってるんですね。
アクションや暴力が極端なまでに空虚です。
しかも、それは、フェルディナンのアタマの中で展開している「映画」なんです。
それを完結させるためにマリアンヌを殺害し、自分も爆死しているんですね。
一見破天荒に見せてますが、やろうとしている事自体はとてもシンプルであり、この作品自体がゴダールの映画論なんです。
後に、ここにゴダール独自の資本主義批判とかが更に重層的に入ってきて、論がドンドン強くなってしまって、一般的なファンを失うんですが(そう考えると、『ワン+ワン』がローリング・ストーンズのドキュメンタリーとして秀逸と考えるのは実は違うのではないかと思います)、実はやろうとしている事はあまり変わっておらず、それは現在に至るまで一緒なのだ。という事なのだと思います。
I’art(アート)にmoを加えてla mort(死)に
『勝手にしやがれ』から、本作までは、「映画」というものをいかに映画で語るのか?という事に専心していた時期であり、その巧みな編集と素晴らしい映像を見る上で欠かせない作品ばかりですので、すべておススメします。
見つけた
何を?
永遠を