木下恵介『日本の悲劇』
ヤミ米の取り引きをしてでも子供を養おうと必死な春子。
大島渚は若い頃は怒りに満ち満ちた映画を数多く作りましたが、当時、松竹で最も人気のあった監督であった木下恵介が作った、まさに「怒りの映画」です。
木下恵介の作品の作品はよくよく見ると、政治や社会への怒りは、『二十四の瞳』や『お嬢さん乾杯!』という代表作でもちゃんと伝わってきますけども、本作は、その怒りが最も前面に出てくる作品で、現在は余り顧みられなくなった作品かもしれません。
60年代の松竹に大島渚をはじめとする、いわゆる「松竹ヌーヴェルヴァーグ」と呼ばれる映画監督が続々と現れますけども、それを先立つ存在が、実は、木下恵介であったことがわかります。
そんな母親の思いなど知るすべもなく、母親を軽蔑する歌子と清一。
木下の怒りは大島のそれとはやはり違っていて、クールでドライです。
むしろそっちの方が私にはコワイですね。
大島の、特に60年代の作品は、今見ると、いささか厨二病的なというか、ちょっと稚拙な気がします。
もともと、叙情的なスタイルを得意とする木下が、それらをすべて捨てて、徹底してクールで静かな怒りをたたえがら進んでいく、ドライなタッチは、普段穏やかな人が激怒したような恐さがあります。
見ていて気がついたのですが、エドワード・ヤンとかケン・ローチがちょっと似てますよね。
ところどころに当時の新聞記者を挿入したり、デモの様子を写しますけども、木下はそういうものにあんまり共感していないらしく、政治、社会の騒乱から取り残された人々、すなわち、本作の井上家に注目するんですね。
当時のデモは殺気が違います。
親族に疎まれながらの生活がこの一家をバラバラにする根本原因となる。
木下は戦後活躍監督の中でも無類の技巧派でしたけども、このかなり重いテーマの作品を見せるのは、やはり、見事な編集テクニックです。
こんなにシャープでモダンな感覚は、市川崑が出てくるまでは木下恵介の独断場ではないでしょうか。
戦争で夫を失い、2人の子供を養うために、ヤミ米を仕入れたり、熱海の旅館で住み込みの仕事をしている女性、春子の話を、時系列ではなく、過去や現在に行ったり来たりして見せていくのですが、この構成にはちょっと驚きです。
あまりにもスピーディにアットランダムにつないでいるものだから、見てる方が混乱するほどシーンのつなぎ方が矢継ぎ早でして、特に前半はストーリーを追うような見方はほとんど放棄せざるを得ないほどです。
働いている旅館の板前の佐藤。後半にいい味が出てくるのだ。
それでも、登場人物はそれほど多くなく、固定されてますから、話のスジ話を通るので、意味不明になる事はありません。
後半になると、現在のお話にほぼ一本化いきます。
本作は1953年に公開してますから、ゴダール『勝手にしやがれ』よりも更に前にこんな前衛的な手法で映画を撮っていたという事に驚かざるを得ません。
その子供の2人(歌子、清一)、いずれも、母親を軽蔑しています。
歌子は英語塾の経営者と駆け落ちしてしまいます。
清一は医者の養子になって、ディオ・ブランドーよろしくこの病院を乗っ取るという野望を持ってます。
こういう描き方自体が、すでに強烈ですよねえ。
溝口健二ともまた違った、ある女性の悲劇の描き方です。
更にすごいのは、登場人物がことごとく家族関係がズタズタになっているという描き方ですね。
ココまで徹底した映画って、ヘタすると日本映画史上初なのでは。
流しのお兄さんを佐野周二が演じてます。
60年代以降の木下恵介は、ある意味、リアリズム路線というか、社会派の監督になっていくんですけども(松竹とケンカをして、テレビの世界に進出してしまったりもします)、この鋭い切れ味のテクニックは、クリシェ的になってきてしまいますね。
木下が最も輝いていた1950年代に放たれた一大アヴァンギャルド作品を是非ともご覧ださい。