李滄東(イ・チャンドン)『バーニング』
イ・チャンドンの8年ぶりの新作。
原作は村上春樹の短編『納屋を焼く』で、コレを韓国に置き換えて、坡州(バジュ)を舞台にしたお話となってます。
もともと、NHKが村上春樹の短編をドラマ化するというプロジェクトの一環だったのだそうですが、コレが結局、劇場作品になりました。
日本では、NHKで95分の短縮版が放映され、続いて完全版が劇場公開されるという、変則的な形で上映されました。
お話しのスジは大変シンプルですが、140分を超える結構なボリュームのある作品です。
主人公のジョンスは、大学を出ながらも、ロクに就職もせず、小説を書いているような、まあ、村上春樹によくいるキャラですね。
ジョンス。ちょっとジョイスっぽい名前でもあります。
そんな彼が街でたまたま出会った幼馴染みのヘミとその友人である、高等遊民のベンとのお話しです。
偶然、ヘミと出会う。整形していたので、ジョンスはすぐに気がつかない(韓国はブラジルと並ぶ整形大国です)。
本作のカギとなるのは、アメリカの作家、ウィリアム・フォークナーです。
20世紀のアメリカを代表する作家、フォークナー。『三つ数えろ』や『黄金』の脚本を書いた事でも有名です。
フォークナーというのは、なかなか日本では人気のある作家とは言えませんけど、アメリカ南部の因習深さというか、人種差別とか、そういうアメリカの闇を描いているんですよ。
しかも、彼が最も脂がのっていた、1930年代(作品が読まれるようになるのは、もっと後なのだそうです)のアメリカですから、ハッキリと書くことはできないんですね。
何しろ、アフリカ系の人たちには公民権などない時代です。
どうしても、仄めかすように書かざるを得ないんです。
まあ、ハッキリ言えば、わかりづらい(笑)。
しかし、世の中にはというのは、何もかもわかりやすくはできてはいないし、言葉に出して言えないことはいつの世もあるわけですよね。
フォークナーが生まれ育ったアメリカ南部にもそういうものが濃厚にあり、それが彼の文学の中心にありました。
そんな晦渋な作家を村上春樹も好んでいるようでして、それを『納屋を燃やす』という、あまり注目されていないと思われる短編(村上春樹ファンではないので、間違ってるかもしれません)の中で、主人公に言わせており、それが本作の作品の核にもなっているんです。
と、回り道しましたけど、本作は、こんな事から決して万人向けではない事は最初に断っておきます。
本作の話しの転機は幼馴染のヘミが失踪してしまう事からサスペンス性が高まります。
ジョンス、ヘミ、ベンの三角関係。
が、ヒッチコックのジェイムズ・スチュアートよろしく必死になってジョンスがヘミを探すわけでもないんですよコレが。
ヘミの消息は本作では明らかになりません。
ジョンスの被害妄想はだんだんと大きくなっていき、失踪の原因を高等遊民のベンに決めつけていくんです。
このベンという青年がなぜこんなにカネがあり、日本で言うところの億ションに暮らしているのかは、本作では全く明らかにされません。
ジョンスはベンをストーキングし始める。
しかし、没落した酪農家の息子であるジョンスはホンダのオンボロな軽トラックを乗り、ベンはポルシェに乗っている。
イ・チャンドンはハッキリとは言ってませんけども、韓国社会の勝ち組/負け組の露骨さを、クルマというもので観客にわからせようとしているんだと思うんですね。
また、イ監督は一貫して、ソウルを舞台とした映画を撮らず、必ず、それほど有名でもない地方都市をロケーションして撮るんですけども、この、ソウルと地方都市との格差みたいなものは常に感じさせます。
原作の納屋は、映画ではビニルハウスになっていますが、ネタバレさせてしまいますけども、この謎は解けません。
タイトルが何を意味するのかは、明かされないんです。
ビニールハウスは何を象徴するのでしょうか。
この韜晦っぷりは、ハリウッド映画にはちょっと見られないものです。
で、そういう晦渋と韜晦というイ監督の気質が、村上春樹〜フォークナーとものすごいフィットしてるんですよね。
つまり、本作は、もう題材として選択した段階で成功しており、その意味で、NHKがイ監督にドラマ制作を依頼した事の見識の確かさは誇ってもいいのではないかと思うのと同時に、日本の監督にどうしてコレが撮れないのか?という事も思ってしまうのでした。
このネコちゃんは見てのお楽しみ。
いずれにしましても、いざ、監督するとやはり傑作を作ってしまうイ・チャンドンは現代を代表する巨匠と言わざるを得ませんね。
彼の作品は全てオススメです。