ハリウッドの王道の継承でした。

ジェイムズ・マンゴールド『LOGAN』

 

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こんなに老けてしまったウルヴァリン

 

マーヴェルの一連の作品はほとんどチンプンカンプンですが、なぜかX-MENは好きでして、そのウルヴァリン演じるヒュー・ジャックマンがコレをもって役を引退するという本作はやはり気になっていたんですが、映画館で見ることができず、ようやくDVDで見る事ができた訳です。

まず驚くのは、アメコミ感がこれっぽっちもなく、ほとんど『マッドマックス』なんですよ、映像が。

バイオレンスもかなりキツめでお子さんと一緒にキャプテン・アメリカスパイダーマンのノリで見るような作品ではございません。

 

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サックリといっちゃいます。

 

何しろローガンはヒゲを生やしたオッさんであり、どうやら、X-MENは壊滅し、プロフェッサーXは、その超能力の暴走を自分でコントロールできなくなっており、クスリでなんとかコントロールして正気を保っている老人です。

ローガンもどうやらアル中で、昔のようなアホみたいな回復力が落ちていて、ギャグみたいですが、老眼です。

 

 

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90歳になってしまったプロフェッサーX。

 

そんな老眼のローガンに、ガブリエラという女性が、「5万ドルあげるから、どうかカナダまで逃してほしい」という、ケガを負った女性が助けを求めてきました。

テクサス州からカナダというのは、ほぼアメリカを縦断する事になりますから、大変な距離です。

もともと義侠心に熱いローガンですが、逡巡している内に、ガブリエラは殺されてしまいました。

この女性が連れていた女の子がいなくなってしまうんですが、この子は娘ではなく、なんと、ミュータントでした。

しかも、その能力はローガンと全く同じ能力です。

ガブリエラを殺害した連中がローガンの家を襲撃しますが、この娘、すなわち、ローラは、そのミュータントとしての凄まじい能力で、追っ手をドンドンと倒してしまいます。

 

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ローラの戦いっぷりはかなりすごいです。

 

その戦いぶりは、まさに若い頃のローガンそのものです。

このガブリエラのスマホには、彼女が勤務していた、製薬会社を隠れ蓑にしている、兵器開発の研究所の隠し撮り映像が入っていました。

要するに、ローラという女の子は、この研究所の実験体の1人であり、どうやら、この娘はローガンの知らないところで作られた彼の子供だったのでした。

 

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父と娘のお話しなのでした。

 

このお話のキモは、さきほども言った、全くアメコミ感がなく、『X-MEN』がコミックの中の絵空事のように受け止められている事です。

ローガン自身も「ホントは沢山人が死んでるんだよ」と言います。

しかし、そのコミックの中に出てくる「エデン」というミュータントたちの拠点から、ローガンに前金として渡された2万ドルは来ているらしい事が判明するんですね。

という所でストーリーの説明はやめますが、このなんとも苦い、まるでクリント・イーストウッド許されざる者』を思わせる、ローガンやプロフェッサーにとっての贖罪がテーマなのですが、本作はそれだけではなく、後継が重要なんですね。

父と娘。の継承がかの名作『シェーン』の、あのラストシーンとして見事に継承されていきます。

コレは驚きました。

 

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実は伏線はありました。

 

「殺人者の烙印は一生消えないんだ。帰ったらお母さんに『この地から銃は消えた。心配ない』と」

まさに王道継承の映画でありました。

 

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女の子というものをこれだけ自由奔放に撮りきった映画はないでしょう。

ヴェラ・ヒティロヴァ『ひなぎく

 

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名前すらはっきりしない2人の女の子が主人公です。

 

2人の女の子が主演なんですけども、とりたててストーリーはありません。

自由奔放な子猫ちゃんのように画面上で気ままに振る舞う様を写しているだけなんですが、画面が白黒から突然カラーになったり、コマ飛びしたり、多分にゴダールの影響がありますね。

 

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 唐突にこんな配色になったり、画面がコラージュになったり、ものすごく実験的なのにおしゃれで可愛らしいんです。

 

脚本というよりも監督の持っているイメージを巧みに編集してつないでいる感じで、現在見ると、いかに「おしゃれな映像」と言われているものの多くがこの映画を元ネタとしているのかという事がわかります。

 

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そういう意味でもはや本作は古典的名作の領域にありますが、コレが1966年の共産党政権下のチェコスロヴァキアで作られたというのはかなり強烈です。

この現在見ても相当奔放な本作は共産党に睨まれることとなり、本国では発禁処分を受け、ヒティロヴァ監督はしばらくの間、沈黙せざるを得なくなりました(ゴダールの「ジガ・ヴェルドフ集団」時代の映画には参加していますが)。

日本でも鈴木清順という天才の『殺しの烙印』という作品が日活の社長の逆鱗に触れてしまい、10年近く映画が撮れなくなってしまいましたが、この映画の公開と同じ頃というのも痛快です。

 

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ホントにシャンデリアに乗ってるんです。

 

話しのスジを追っていこうとアタマで考えるよりも、その奔放なイメージの奔流に身を委ねて遊ぶと楽しい映画だと思います。痛快。

 

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The End.

今ほどアフリカ音楽が必要な時代はないかもしれない。

アラン・ゴミス『私は幸福』

 

※公開したばかりですので、絵はございません!

 

幸福。は、フランス語でフェリシテと言いますが、主人公の名前がフェリシテと言いまして、ダブルミーニングになってるんですね。

日本語でいうと「幸子のシアワセ」的なタイトルでしょうか(日本語にすると、ものすごい昭和感がありますね)。

えー、本作の舞台はコンゴ民主共和国なので、昭和感など微塵もなく(笑)、アフリカ都市の持つワイルド感、カオス感が見事なまでに撮られていて、アフリカが好きな方にはかなりたまらない映像のオンパレードです。

ストーリーは恐ろしくシンプルで、オートバイとの接触事故に遭ってしまった息子の手術代の前金をかき集めるために、必死になる母親のフェリシテの奔走が前半なんですけども、イタリア・ネオリアリズモも驚くような貧しさの現実がイヤというほどキレイごとでなく見せるんですが、その合間合間に挿入される主人公フェリシテの仕事である歌手としての場面のなんともしらん雰囲気が素晴らしいんですね。

全体として、ストーリーの巧妙さよりも、その断片的に積み上げられたキンシャサの街並み、そこに映る人々、ストーリーに一切関与しない、黒人によるクラシックのオーケストラと合唱の演奏が実に巧みなんですよね。

後半はそれが更に進んでいって、ハリウッド的なプロットはほとんどどこかに行ってしまって、中南米文学のようなマジックリアリズムの世界に入っていくんです。

ココがゴミス監督の真骨頂なのだと思いますが、ココが見事でしたねえ。

カギとなるのは、主人公のフェリシテが息子のサモ交通事故、経済的困窮というどうしようもない現実と向き合うための重要なカギとなるのが音楽であるというのが、ホントに嬉しいです。

結局、フェリシテが自分を取り戻すのは、音楽なんですね。

登場人物はとても少なく、言ってしまえば3人しかいないも同然で、フェリシテと呑んだくれオヤジのタブー(コレもダブルミーニングになってますね)、そして、息子のサモだけです。

そして、ヘタをすると登場人物よりももっと重要なのは、生々しいキンシャサの街並みですね。

それをネオリアリズモではなくて、マジックリアリズムで撮っているのが、ゴミス監督の独自性でしょうね。

なかなかの逸品でした。

 

 

 

 

前半はルノワール、後半はベッケル

ジャック・ベッケル肉体の冠

 

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ジャンヌ・モローの先駆的な存在ですね。神取忍に似ている気がします。


妙なタイトルですが、原題は「黄金の兜」でして、主演のシモーヌ・シニョレの髪型をタイトルにしてるんですね。

ファム・ファタールをめぐってのお話しです。

なんといってもシニョレの存在感が見事ですね。

若い方にはもうピンとこない女優さんだと思いますけども、彼女の凄さは、ジャン=ピエール・メルヴィル影の軍隊』でのレジスタンス役でもよくわかります。

戦後のフランスを代表する名優でした。

いわゆる美人という感じではなくて、鉄火肌の姐さん役が似合う人で、ここでも実在した娼婦役です。

絵作りが彼の師匠である、ジャン・ルノワールを思わせるのですが、バイオレンス描写が、とてもフィルムノワールしていて、何か過渡的な表現になっているのが、面白いですね。

 

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お師匠さんの未完の作品『ピクニック』に似てますね。

 

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 こういう船遊びとか。

 

前半のルノワールタッチ、後半のフィルムノワール

後の『現金に手を出すな』のような塩辛いタッチの萌芽がすでに見え始めています。

大工のマンダとシニョレの逃避行は、『俺たちに明日はない』などにものすごく影響与えてますね。

犯罪によって起こった逃避行なのに、どこか呑気なところは似ています。

 

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マンダとマリー。

 

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 マンダの親友のレイモン。

 

この映画の真骨頂は後半なのですけども、それは見てのお楽しみ。

ここから、本格的なフィルムノワールになっていきます。

ベッケルは、若くして亡くなってしまったので、あまり多くの作品を残すことはできなかったのですが、その残された作品は今見ても素晴らしいので、是非ともご覧下さい。

 

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 こういうシーンは、完全にベッケルですね。

ロージー=ピンターの最高傑作!

ジョセフ・ロージー『恋』

 

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ジョセフ・ロージーの邦題はいつも素っ気ないんですが(原題も素っ気ないんですが。。)、そのチャンピオンがコレでしょうね。

赤狩りによってアメリカで映画が撮れなくなってしまったロージーですが、イギリスは彼の性に合っていたようで、ハロルド・ピンターという最高の脚本家とコンビを組む事で、名作を連発しましたが、コレもその一作で、このコンビの最高傑作の1つと言ってよいでしょ。

これまでは、上流社会をシニカルに見つめる作品が多かったのですが、本作はそんな彼らの内面のキズを描いている点で、作家としての成熟を感じます。

ハッキリとは明示されませんが、時代は1910年代と思しきイギリスノーフォークが舞台で、主人公のレオ・コルストンは友人のマーカス・モーズリーに夏休みの間招かれたお客さんでした。

 

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大金持ちのモーズリー家。 

モーズリーというのは大変な富豪で、広大な敷地を持つ邸宅に住んでいるんですけども、このモーズリー家の令嬢(つまり、マーカスのお姉さんですね)、マリアンの美しさにレオは魅せられるのです。

 

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 ホンの100年前のイギリスはこんなでした。

 

思春期の男の子が年上のお姉さんに憧れるという、ごくごく普通の感情ですね。

この邸で働く小作人に、テッド・バージェスという男の子がいるんですけども、ひょんなことからレオはテッドから「手紙を渡してほしい」と頼まれます。

 

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「ポストマン」となるレオ。

 

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 上流社会の年上の1つばかりいて退屈なので、庶民のテッドとは気が合うのでした。

 

レオはテッドとマリアンの間の「郵便配達夫」になるのですが、それは、身分差のある恋愛である事がわかってきます。

20世紀とはいえ、まだまだ19世紀のヴィクトリア朝時代の考え方が強かったイングランドで、使用人と富豪の令嬢が恋愛するなどあり得ませんでした。

しかし、そんなマリアンに婚約の話しが急遽のぼってきます。

ヒュー・トリミンガム。というボーア戦争に参戦していた、スカーフェイスの子爵で、『ジャッカルの日』で暗殺者ジャッカルを演じた、エドワード・フォックスが演じております。

 

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ちょっといけ好かない子爵のヒュー。

 

このお話しの悲劇は、レオの誕生日をモーズリー家がお祝いする日に起きるんですが、コレは見てのお楽しみ。

アメリカ映画だったら、思春期の甘酸っぱくも苦い思い出となっていくであろう青春映画が、イギリスではこんな風にその後の人生の大きなキズにすらなってしまう悲劇になってしまうこの描き方の違いに、イギリスとアメリカの文化の違いを見ますね。

階級社会でかつては世界中に植民地を持った大帝国移民の寄せ集めで、そんな帝国から独立して、やはり「帝国」なっていった国では、これほどまでに違うんですね。

ミシェル・ルグランバロックの手法で書かれた音楽も素晴らしく、同じ頃のフランソワ・トリュフォーアメリカの夜』と並ぶ傑作音楽だと思います。

 

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中国都市部の激変/農村部の無変化がよくわかる作品。

賈樟柯ジャ・ジャンクー)『罪の手ざわり』

 

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コレだけ見ると、ジョン・ウーみたいですが、そういう映画ではありません。しかし、コレが冒頭です(笑)。

 

原題に英語のタイトルがついてまして、コレが「A Touch of Sin」と言うのですが、多分、オーソン・ウェルズ黒い罠』の原題、「A Touch of Evil」から取っているのでしょう。

『山河ノスタルジア』でもお馴染みの山西省重慶(省には属さず、直轄市です)、を舞台にしたオムニバス的な映画です。

それぞれのお話しに関連性はないんですが、当時人物が何気なくすれ違ったり、偶然同じ場所にいたりして、時間は大体共有されています。

ダーハイという、山西省の村の炭鉱夫は、不正を働いている村長を共産党の中央(中南海といいます)に訴えようとしてします。

 

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ダーハイ。

 

しかし村人たちはそれを知りながら、見て見ぬ振りをしているんですね。

腐敗の構図というのは、いつの時代もそういうものですが、ダーハイはそれが許せません。

村の実力者側、すなわち、共産党の党員という事ですが、彼を買収しようとします。ダーハイは結局カネを受け取ってしまいます。

共産党の腐敗ぶりは末端にまで及んでいるんですね。

そんな村で京劇をやっています。

水滸伝』の林冲(元々禁軍の師範だったほどの人物で棒術の達人です)が宋朝の宮廷で実権を握る高俅の部下を義憤によって惨殺してしまったため、悪漢たちの集う、梁山泊に逃げざるを得なくなるという場面ですね。

音楽こそ違いますが、完全に歌舞伎と同じです。

というか、コッチがオリジナルなのでしょうね。

そんな中、ダーハイも、『水滸伝』の英傑のように(?)、自宅にあるライフル銃を手に取ります。

まさに、『タクシードライバー』のトラヴィスです。。

 

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ココだけ見ていると(以下省略)

 

本作の事件はすべて実際に起こった事件らしく、それ故に本作は未だに中国では公開されてないそうです。

ラヴィスは村長が炭鉱を勝手に資本家に売却してそのカネを独り占めしている事に関係している人間をライフルで次々と射殺していきます。

かなり関係ない人まで殺してしまっていて、もうめちゃくちゃなのですが、中国の田舎は、ライフル銃担いで歩いていても、誰も驚かないんですね(笑)。

村長を殺したあとは歯止めがきかかなくなっていきます。

 

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ラヴィスは村長まで殺してしまいます!

 

こんな中国映画、初めて見ました(笑)。

そして、次のお話しは、冒頭で山賊を拳銃で返り討ちにしていた男、チョウの話に移ります。

彼は重慶の郊外の農村に住んでいるようで、重慶の方はものすごい高層ビルか立っているのに、村は貧しいまんまという、露骨なまでの格差を写します。

 

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人を殺す事をどうとも思わなくなっているチョウ。

 

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重慶の郊外はこんなにど田舎です。。

  

彼には妻と息子がいるのですが、やはり、生活は苦しいようです。

村の連中もみな出稼ぎで生活しています。

チョウの生業は強盗で、いきなり射殺して、カネを強奪するという荒っぽい手口です。

この、ジャ・ジャンクーのバイオレンス描写は、北野武の影響がかなりありますね。

とても乾いていて。

さて、次は、ジャ・ジャンクー作品の常連である、チャオ・タオ(趙涛)演じるシャオユーの不倫です。

 

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シャオユーと不倫相手ですね。

 

彼女の仕事は広州のラブホテル兼風俗サウナみたいな所の受付係でして、やはり、郊外の農村に住んでます。

中国は都市部から少しでも離れると、シャレにならないほどの荒地みたいなところになるのが、絵としてものすごいインパクトで、日本で2000年代からしきりに言われるようになった「格差社会」(実際の日本の経済格差は1980年代からもう始まっているのですが)など、中国に比べたら、どうという事はないんですね。

その事をもっと強烈に描いているのがワン・ビン王兵)ですが、ジャ・ジャンクーは、もう少し穏当な描き方です。

札束で引っ叩く。という表現がありますが、ホントに札束で頬を叩いているのを見ることはそうないと思いますが、チャオ・タオは成金の客にホントに札束でボコボコに叩かれます。

とにかく、この映画の暴力は、かなり即物的で、タメがなく、一挙に始まります。

この脚からの理不尽な暴力に逆上して客を殺してしまうんですが、ちょっと藤田敏八の名作『修羅雪姫』入っていて強烈です。

 

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修羅雪姫

 

最後はクリーニング店に勤める湖南省出身の青年、シャオホイのお話なのですが、コレは実際見ていただきましょう。

ビックリしますよ。中国はこんな事になってるのかと。

 

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木下恵介『日本の悲劇』ならぬ、『中国の悲劇』を淡々と、しかし、淡々としているが故に痛々しさが伝わりますが、私には、包み隠さない、今の中国のロケーションが写り込んでいるのが、やっぱり面白かったですね。

農村は、ほとんど魯迅の小説の世界と未だに何の違いもないように見えながらも、シカゴブルズの帽子をかぶっていたり、iPadを持っていたりと、そのアンバランスが面白いですね。

周恩来の頃から中国は、サハラ以南のアフリカ諸国との外交に熱心なのですが(中国は帝国主義と戦って勝利し、アメリカと対峙している国に見えるので、アフリカ諸国は、中国の事をリスペクトしてるんですね。反米の国が多いんです)、チラッとアフリカからの出稼ぎと思しき人も出てきて、とにかく、ものすごいスピードでアンバランスに変化しているのが、よくわかります。

本作で重要なのは、最初と最後に出てくる京劇です。

最後に流れるのは『玉堂春』という演目と思われますが、この劇の内容がそのままこの映画の内容につながってしまうので、ココでは説明はカットしますが、このような劇や音楽の使い方が、『山河ノスタルジア』で更に効果的となっておりますね。

 

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モーレツな生命力溢れる傑作。

エミール・クストリツァ『黒猫・白猫

 

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 こういう、ひどいのにユーモラス。という表現がホントにうまい監督です。

 

相変わらず、冒頭から猥雑で騒がしい作風は一貫していて、画面を覆い尽くしている生命力がものすごいですね。

 

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何度も唐突に挿入される、車を食べる豚。生命力を象徴してるんですね。

 

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こういう、意味不明な猥雑さがクストリツァの魅力です。

西ヨーロッパの人々には全くない濃厚さが、同じ「ヨーロッパ」というくくりでも、バルカン半島は全くの別世界である(言語もかなり違いますね)事を強烈に印象づけます。

ストーリーはごくごくシンプルに言いますと、ジプシーのサグライフと彼ら彼女らのリアルを描いているのですが、何しろクストリツァですから(笑)、今村昌平フェリーニを足して10倍に濃縮したみたいな感じです。

ヤクザなマトゥコが、ギャングのダダンにカネを騙し取られ、息子のザーレはダダンの妹と結婚させられそうになっています。

ダダンは強欲な悪党で、マトゥコの父であるザーリェからガソリンスタンドを買い取っており、カネを持っている事を知っていて、そのカネすら巻き上げようとしているんですね。

しかし、ダダンは、カネを払う代わりに妹のアフロディタとザーレを結婚させるのだったら、カネは払わなくてもいい。という条件を提示してきたので、マトゥコは仕方なくこれを承諾してしまいます。

 

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ダダンのジャイアンぶりが楽しいです。

 

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 マトゥコとゴッドファーザー。いつもファンキーな電動車椅子に乗ってます。

 

しかし、ザーレにはイダという恋人がいますし、アフロディタは勝手な婚約に大反対です。

 

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イダとザーレ。

 

という事です、ここから結婚狂想曲がしっちゃかめっちゃかに展開していきまして、ココが見どころです。

 

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2人は無理矢理結婚させられてしまうが。。

 

こういう話は多少強引な方が面白いわけですが、強引な展開はクストリツァの得意とする事ですから、まさに水を得た魚状態。

とにかく、痛快極まりない映画でございました。

 

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 とにかくハッピーエンドなんです。