女の子というものをこれだけ自由奔放に撮りきった映画はないでしょう。

ヴェラ・ヒティロヴァ『ひなぎく

 

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名前すらはっきりしない2人の女の子が主人公です。

 

2人の女の子が主演なんですけども、とりたててストーリーはありません。

自由奔放な子猫ちゃんのように画面上で気ままに振る舞う様を写しているだけなんですが、画面が白黒から突然カラーになったり、コマ飛びしたり、多分にゴダールの影響がありますね。

 

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 唐突にこんな配色になったり、画面がコラージュになったり、ものすごく実験的なのにおしゃれで可愛らしいんです。

 

脚本というよりも監督の持っているイメージを巧みに編集してつないでいる感じで、現在見ると、いかに「おしゃれな映像」と言われているものの多くがこの映画を元ネタとしているのかという事がわかります。

 

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そういう意味でもはや本作は古典的名作の領域にありますが、コレが1966年の共産党政権下のチェコスロヴァキアで作られたというのはかなり強烈です。

この現在見ても相当奔放な本作は共産党に睨まれることとなり、本国では発禁処分を受け、ヒティロヴァ監督はしばらくの間、沈黙せざるを得なくなりました(ゴダールの「ジガ・ヴェルドフ集団」時代の映画には参加していますが)。

日本でも鈴木清順という天才の『殺しの烙印』という作品が日活の社長の逆鱗に触れてしまい、10年近く映画が撮れなくなってしまいましたが、この映画の公開と同じ頃というのも痛快です。

 

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ホントにシャンデリアに乗ってるんです。

 

話しのスジを追っていこうとアタマで考えるよりも、その奔放なイメージの奔流に身を委ねて遊ぶと楽しい映画だと思います。痛快。

 

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The End.

今ほどアフリカ音楽が必要な時代はないかもしれない。

アラン・ゴミス『私は幸福』

 

※公開したばかりですので、絵はございません!

 

幸福。は、フランス語でフェリシテと言いますが、主人公の名前がフェリシテと言いまして、ダブルミーニングになってるんですね。

日本語でいうと「幸子のシアワセ」的なタイトルでしょうか(日本語にすると、ものすごい昭和感がありますね)。

えー、本作の舞台はコンゴ民主共和国なので、昭和感など微塵もなく(笑)、アフリカ都市の持つワイルド感、カオス感が見事なまでに撮られていて、アフリカが好きな方にはかなりたまらない映像のオンパレードです。

ストーリーは恐ろしくシンプルで、オートバイとの接触事故に遭ってしまった息子の手術代の前金をかき集めるために、必死になる母親のフェリシテの奔走が前半なんですけども、イタリア・ネオリアリズモも驚くような貧しさの現実がイヤというほどキレイごとでなく見せるんですが、その合間合間に挿入される主人公フェリシテの仕事である歌手としての場面のなんともしらん雰囲気が素晴らしいんですね。

全体として、ストーリーの巧妙さよりも、その断片的に積み上げられたキンシャサの街並み、そこに映る人々、ストーリーに一切関与しない、黒人によるクラシックのオーケストラと合唱の演奏が実に巧みなんですよね。

後半はそれが更に進んでいって、ハリウッド的なプロットはほとんどどこかに行ってしまって、中南米文学のようなマジックリアリズムの世界に入っていくんです。

ココがゴミス監督の真骨頂なのだと思いますが、ココが見事でしたねえ。

カギとなるのは、主人公のフェリシテが息子のサモ交通事故、経済的困窮というどうしようもない現実と向き合うための重要なカギとなるのが音楽であるというのが、ホントに嬉しいです。

結局、フェリシテが自分を取り戻すのは、音楽なんですね。

登場人物はとても少なく、言ってしまえば3人しかいないも同然で、フェリシテと呑んだくれオヤジのタブー(コレもダブルミーニングになってますね)、そして、息子のサモだけです。

そして、ヘタをすると登場人物よりももっと重要なのは、生々しいキンシャサの街並みですね。

それをネオリアリズモではなくて、マジックリアリズムで撮っているのが、ゴミス監督の独自性でしょうね。

なかなかの逸品でした。

 

 

 

 

前半はルノワール、後半はベッケル

ジャック・ベッケル肉体の冠

 

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ジャンヌ・モローの先駆的な存在ですね。神取忍に似ている気がします。


妙なタイトルですが、原題は「黄金の兜」でして、主演のシモーヌ・シニョレの髪型をタイトルにしてるんですね。

ファム・ファタールをめぐってのお話しです。

なんといってもシニョレの存在感が見事ですね。

若い方にはもうピンとこない女優さんだと思いますけども、彼女の凄さは、ジャン=ピエール・メルヴィル影の軍隊』でのレジスタンス役でもよくわかります。

戦後のフランスを代表する名優でした。

いわゆる美人という感じではなくて、鉄火肌の姐さん役が似合う人で、ここでも実在した娼婦役です。

絵作りが彼の師匠である、ジャン・ルノワールを思わせるのですが、バイオレンス描写が、とてもフィルムノワールしていて、何か過渡的な表現になっているのが、面白いですね。

 

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お師匠さんの未完の作品『ピクニック』に似てますね。

 

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 こういう船遊びとか。

 

前半のルノワールタッチ、後半のフィルムノワール

後の『現金に手を出すな』のような塩辛いタッチの萌芽がすでに見え始めています。

大工のマンダとシニョレの逃避行は、『俺たちに明日はない』などにものすごく影響与えてますね。

犯罪によって起こった逃避行なのに、どこか呑気なところは似ています。

 

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マンダとマリー。

 

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 マンダの親友のレイモン。

 

この映画の真骨頂は後半なのですけども、それは見てのお楽しみ。

ここから、本格的なフィルムノワールになっていきます。

ベッケルは、若くして亡くなってしまったので、あまり多くの作品を残すことはできなかったのですが、その残された作品は今見ても素晴らしいので、是非ともご覧下さい。

 

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 こういうシーンは、完全にベッケルですね。

ロージー=ピンターの最高傑作!

ジョセフ・ロージー『恋』

 

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ジョセフ・ロージーの邦題はいつも素っ気ないんですが(原題も素っ気ないんですが。。)、そのチャンピオンがコレでしょうね。

赤狩りによってアメリカで映画が撮れなくなってしまったロージーですが、イギリスは彼の性に合っていたようで、ハロルド・ピンターという最高の脚本家とコンビを組む事で、名作を連発しましたが、コレもその一作で、このコンビの最高傑作の1つと言ってよいでしょ。

これまでは、上流社会をシニカルに見つめる作品が多かったのですが、本作はそんな彼らの内面のキズを描いている点で、作家としての成熟を感じます。

ハッキリとは明示されませんが、時代は1910年代と思しきイギリスノーフォークが舞台で、主人公のレオ・コルストンは友人のマーカス・モーズリーに夏休みの間招かれたお客さんでした。

 

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大金持ちのモーズリー家。 

モーズリーというのは大変な富豪で、広大な敷地を持つ邸宅に住んでいるんですけども、このモーズリー家の令嬢(つまり、マーカスのお姉さんですね)、マリアンの美しさにレオは魅せられるのです。

 

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 ホンの100年前のイギリスはこんなでした。

 

思春期の男の子が年上のお姉さんに憧れるという、ごくごく普通の感情ですね。

この邸で働く小作人に、テッド・バージェスという男の子がいるんですけども、ひょんなことからレオはテッドから「手紙を渡してほしい」と頼まれます。

 

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「ポストマン」となるレオ。

 

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 上流社会の年上の1つばかりいて退屈なので、庶民のテッドとは気が合うのでした。

 

レオはテッドとマリアンの間の「郵便配達夫」になるのですが、それは、身分差のある恋愛である事がわかってきます。

20世紀とはいえ、まだまだ19世紀のヴィクトリア朝時代の考え方が強かったイングランドで、使用人と富豪の令嬢が恋愛するなどあり得ませんでした。

しかし、そんなマリアンに婚約の話しが急遽のぼってきます。

ヒュー・トリミンガム。というボーア戦争に参戦していた、スカーフェイスの子爵で、『ジャッカルの日』で暗殺者ジャッカルを演じた、エドワード・フォックスが演じております。

 

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ちょっといけ好かない子爵のヒュー。

 

このお話しの悲劇は、レオの誕生日をモーズリー家がお祝いする日に起きるんですが、コレは見てのお楽しみ。

アメリカ映画だったら、思春期の甘酸っぱくも苦い思い出となっていくであろう青春映画が、イギリスではこんな風にその後の人生の大きなキズにすらなってしまう悲劇になってしまうこの描き方の違いに、イギリスとアメリカの文化の違いを見ますね。

階級社会でかつては世界中に植民地を持った大帝国移民の寄せ集めで、そんな帝国から独立して、やはり「帝国」なっていった国では、これほどまでに違うんですね。

ミシェル・ルグランバロックの手法で書かれた音楽も素晴らしく、同じ頃のフランソワ・トリュフォーアメリカの夜』と並ぶ傑作音楽だと思います。

 

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中国都市部の激変/農村部の無変化がよくわかる作品。

賈樟柯ジャ・ジャンクー)『罪の手ざわり』

 

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コレだけ見ると、ジョン・ウーみたいですが、そういう映画ではありません。しかし、コレが冒頭です(笑)。

 

原題に英語のタイトルがついてまして、コレが「A Touch of Sin」と言うのですが、多分、オーソン・ウェルズ黒い罠』の原題、「A Touch of Evil」から取っているのでしょう。

『山河ノスタルジア』でもお馴染みの山西省重慶(省には属さず、直轄市です)、を舞台にしたオムニバス的な映画です。

それぞれのお話しに関連性はないんですが、当時人物が何気なくすれ違ったり、偶然同じ場所にいたりして、時間は大体共有されています。

ダーハイという、山西省の村の炭鉱夫は、不正を働いている村長を共産党の中央(中南海といいます)に訴えようとしてします。

 

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ダーハイ。

 

しかし村人たちはそれを知りながら、見て見ぬ振りをしているんですね。

腐敗の構図というのは、いつの時代もそういうものですが、ダーハイはそれが許せません。

村の実力者側、すなわち、共産党の党員という事ですが、彼を買収しようとします。ダーハイは結局カネを受け取ってしまいます。

共産党の腐敗ぶりは末端にまで及んでいるんですね。

そんな村で京劇をやっています。

水滸伝』の林冲(元々禁軍の師範だったほどの人物で棒術の達人です)が宋朝の宮廷で実権を握る高俅の部下を義憤によって惨殺してしまったため、悪漢たちの集う、梁山泊に逃げざるを得なくなるという場面ですね。

音楽こそ違いますが、完全に歌舞伎と同じです。

というか、コッチがオリジナルなのでしょうね。

そんな中、ダーハイも、『水滸伝』の英傑のように(?)、自宅にあるライフル銃を手に取ります。

まさに、『タクシードライバー』のトラヴィスです。。

 

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ココだけ見ていると(以下省略)

 

本作の事件はすべて実際に起こった事件らしく、それ故に本作は未だに中国では公開されてないそうです。

ラヴィスは村長が炭鉱を勝手に資本家に売却してそのカネを独り占めしている事に関係している人間をライフルで次々と射殺していきます。

かなり関係ない人まで殺してしまっていて、もうめちゃくちゃなのですが、中国の田舎は、ライフル銃担いで歩いていても、誰も驚かないんですね(笑)。

村長を殺したあとは歯止めがきかかなくなっていきます。

 

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ラヴィスは村長まで殺してしまいます!

 

こんな中国映画、初めて見ました(笑)。

そして、次のお話しは、冒頭で山賊を拳銃で返り討ちにしていた男、チョウの話に移ります。

彼は重慶の郊外の農村に住んでいるようで、重慶の方はものすごい高層ビルか立っているのに、村は貧しいまんまという、露骨なまでの格差を写します。

 

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人を殺す事をどうとも思わなくなっているチョウ。

 

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重慶の郊外はこんなにど田舎です。。

  

彼には妻と息子がいるのですが、やはり、生活は苦しいようです。

村の連中もみな出稼ぎで生活しています。

チョウの生業は強盗で、いきなり射殺して、カネを強奪するという荒っぽい手口です。

この、ジャ・ジャンクーのバイオレンス描写は、北野武の影響がかなりありますね。

とても乾いていて。

さて、次は、ジャ・ジャンクー作品の常連である、チャオ・タオ(趙涛)演じるシャオユーの不倫です。

 

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シャオユーと不倫相手ですね。

 

彼女の仕事は広州のラブホテル兼風俗サウナみたいな所の受付係でして、やはり、郊外の農村に住んでます。

中国は都市部から少しでも離れると、シャレにならないほどの荒地みたいなところになるのが、絵としてものすごいインパクトで、日本で2000年代からしきりに言われるようになった「格差社会」(実際の日本の経済格差は1980年代からもう始まっているのですが)など、中国に比べたら、どうという事はないんですね。

その事をもっと強烈に描いているのがワン・ビン王兵)ですが、ジャ・ジャンクーは、もう少し穏当な描き方です。

札束で引っ叩く。という表現がありますが、ホントに札束で頬を叩いているのを見ることはそうないと思いますが、チャオ・タオは成金の客にホントに札束でボコボコに叩かれます。

とにかく、この映画の暴力は、かなり即物的で、タメがなく、一挙に始まります。

この脚からの理不尽な暴力に逆上して客を殺してしまうんですが、ちょっと藤田敏八の名作『修羅雪姫』入っていて強烈です。

 

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修羅雪姫

 

最後はクリーニング店に勤める湖南省出身の青年、シャオホイのお話なのですが、コレは実際見ていただきましょう。

ビックリしますよ。中国はこんな事になってるのかと。

 

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木下恵介『日本の悲劇』ならぬ、『中国の悲劇』を淡々と、しかし、淡々としているが故に痛々しさが伝わりますが、私には、包み隠さない、今の中国のロケーションが写り込んでいるのが、やっぱり面白かったですね。

農村は、ほとんど魯迅の小説の世界と未だに何の違いもないように見えながらも、シカゴブルズの帽子をかぶっていたり、iPadを持っていたりと、そのアンバランスが面白いですね。

周恩来の頃から中国は、サハラ以南のアフリカ諸国との外交に熱心なのですが(中国は帝国主義と戦って勝利し、アメリカと対峙している国に見えるので、アフリカ諸国は、中国の事をリスペクトしてるんですね。反米の国が多いんです)、チラッとアフリカからの出稼ぎと思しき人も出てきて、とにかく、ものすごいスピードでアンバランスに変化しているのが、よくわかります。

本作で重要なのは、最初と最後に出てくる京劇です。

最後に流れるのは『玉堂春』という演目と思われますが、この劇の内容がそのままこの映画の内容につながってしまうので、ココでは説明はカットしますが、このような劇や音楽の使い方が、『山河ノスタルジア』で更に効果的となっておりますね。

 

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モーレツな生命力溢れる傑作。

エミール・クストリツァ『黒猫・白猫

 

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 こういう、ひどいのにユーモラス。という表現がホントにうまい監督です。

 

相変わらず、冒頭から猥雑で騒がしい作風は一貫していて、画面を覆い尽くしている生命力がものすごいですね。

 

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何度も唐突に挿入される、車を食べる豚。生命力を象徴してるんですね。

 

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こういう、意味不明な猥雑さがクストリツァの魅力です。

西ヨーロッパの人々には全くない濃厚さが、同じ「ヨーロッパ」というくくりでも、バルカン半島は全くの別世界である(言語もかなり違いますね)事を強烈に印象づけます。

ストーリーはごくごくシンプルに言いますと、ジプシーのサグライフと彼ら彼女らのリアルを描いているのですが、何しろクストリツァですから(笑)、今村昌平フェリーニを足して10倍に濃縮したみたいな感じです。

ヤクザなマトゥコが、ギャングのダダンにカネを騙し取られ、息子のザーレはダダンの妹と結婚させられそうになっています。

ダダンは強欲な悪党で、マトゥコの父であるザーリェからガソリンスタンドを買い取っており、カネを持っている事を知っていて、そのカネすら巻き上げようとしているんですね。

しかし、ダダンは、カネを払う代わりに妹のアフロディタとザーレを結婚させるのだったら、カネは払わなくてもいい。という条件を提示してきたので、マトゥコは仕方なくこれを承諾してしまいます。

 

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ダダンのジャイアンぶりが楽しいです。

 

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 マトゥコとゴッドファーザー。いつもファンキーな電動車椅子に乗ってます。

 

しかし、ザーレにはイダという恋人がいますし、アフロディタは勝手な婚約に大反対です。

 

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イダとザーレ。

 

という事です、ここから結婚狂想曲がしっちゃかめっちゃかに展開していきまして、ココが見どころです。

 

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2人は無理矢理結婚させられてしまうが。。

 

こういう話は多少強引な方が面白いわけですが、強引な展開はクストリツァの得意とする事ですから、まさに水を得た魚状態。

とにかく、痛快極まりない映画でございました。

 

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 とにかくハッピーエンドなんです。

 

 

 

 

もはやSF映画の古典!

リドリー・スコットブレードランナー ファイナルカット

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ドゴォォォォ〜ン!!

 

1982年に公開され、未だに世界中のクリエイターに多大な影響を与え続けているSF映画の金字塔。

2019年の11月のロサンジェレスのお話しですから、もう間もなく時代が追いついてしまいますね。

ロサンジェレス。と言えば、あのカラッとした太陽と美しいビーチとハリウッド(と、ビーチ・ボーイズ)のおかげで、全米でも屈指の人種、宗教のるつぼであり、日本人が知る「アメリカ」のイメージは、ニューヨークよりも、ロサンジェレスの方が今日では強いのかもしれません。

しかし、本作のロサンジェレスは、人種と宗教のるつぼである事は更に進んでいますが、全シーンがほぼ厚い雲に覆われていて、雨ばかりが降っている、恐ろしく陰鬱な街です。

 

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どんよりとしているのに美しいという独特の頽廃美を作り出したシド・ミードダグラス・トランブル、撮影監督のジョーダン・クローネンウェスの仕事は特筆すべきでしょう。

 

しかし、1950年代くらいまでのロサンジェレスって、市警が腐敗しきっていて(それはその後も変わりませんが。。)、治安は悪いし、乾燥した気候ですから、風景もかなり殺伐としてました。

コレをうまく取り入れたのが、1940~50年代に大変に流行した「フィルム・ノワール」ですね。

ここから大スターになったのが、ボギーこと、ハンフリー・ボガードです。

第二次大戦後のフランス映画も、このフィルム・ノワールに憧れて、ジャック・ベッケル現金に手を出すな』とか、ジューフズ・ダッシン『男の闘い』と言った傑作が作られたんですね。

本作は、まず、そういうハードボイルド作品が下地にある点がユニークであり、また、サイレント期の大巨匠である、フリッツ・ラングメトロポリス』を彷彿とさせるレトロ・フューチャー感が満点で、ツヤツヤ、ピカピカしたSF映画の映像を変えてしまいました。

 

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メトロポリス』より。かなりレイチェルしてますよね。

 

こういう暗い世界観は、大友克洋AKIRA』でも展開しますが(奇しくも、2020年に東京オリンピックが行われようとしている、2019年からお話が始まるのです!)、両者は、フランスの漫画家、メビウスの影響を相当に受けているんですね。

 

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映画『AKIRA』より。『ブレードランナー』とよく似ていますが、連載は1982年開始ですので、パクりようがないです。

 

話のスジ自体はものすごくシンプルで宇宙船を強奪したレプリカント5名(一名はデッカードが捜査すると前に死亡しています)が地球に潜入してきたので、コレを処分すると事を専門とする、「ブレードランナー」である、ハリソン・フォード扮するデッカード捜査官がコレを処刑していく。というお話しです。

 

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2つで充分ですよ!と叱られるデッカード

 

今回見直してみて気がついたんですけども、デッカードレプリカントのレイチェル恋愛が実にうまくできてるなあ。と思いましたね。

 

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レイチェルの役はショーン・ヤング以外は考えられないですね。

 

デッカードは、反抗したレプリカントを処刑する。という仕事をしているわけですから(人造人間とは言え、外観は人間と全く変わりません。恐らく、それがイヤになって一度ブレードランナーを辞めています)、レプリカントに感情移入すると職業倫理がグチャグチャになりますよね。

ですから、レイチェルにとても冷たいんですね。

 

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 陰鬱で人間味のない世界であるからこそ、立ち上がる「人間的なもの」が本作のテーマです。

 

しかし、2人は結局接近していく事になり、最後は2人で逃亡してしまうんですけども、殺し屋という荒んだ職業をしているデッカード人間性を回復させていくのがレプリカントというところが本作のかなり倒錯したところです。

また、レプリカントのリーダーである、ロイ・バティが最後にデッカードを助けて寿命が尽きてしまいますけど、わずか4年という寿命しかないレプリカントが生きていた存在価値は、実は、他人のために尽くすという事であり、であるから、ロイは安らかに死んでいったのだと思います。

 

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ロイとプリス。2人は長生きして子供を作りたかったのでは。

 

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タイレル博士とロイ。「寿命を延ばすことはできない。短い人生を楽しめ」

 

もう散々語られている圧倒的な映像美に関しては、今更私がいうまでもない事なので、何も言いませんが、2049と見比べた時、2049が余りにも安っぽいのに愕然とした事は記名しておかねばならないでしょう。

 

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