ビートルズがやってくる!ヤァヤァヤァ!をトリュフォーか撮ったらこうなるかもしれない。という痛快作!

グレタ・ガーヴィク『Little Women』

 

この原題でないと、ラストの意味が失われるので敢えてこうしました。


幾度となく映像化されてきた、ルイーザ・メイ・オルコット『若草物語』の映画化。


何の予備知識もなく見始めた最初の印象は、正直、


「なんだかいそいそとして、堪能できないなあ」

 

というもので、よくなかったです。


しかし、もう少し我慢して、この悪印象について付き合ってもらいたいのですが、コレはガーウィグ監督の意図するところなんですね。


現在のニューヨークで仕事を掛け持ちしながらも短編小説を書きながら生きているジョーと、伯母に連れられてフランスに渡っているエイミーの現在と7年前のマサチューセッツ州のコンコードでの4姉妹の楽しい生活という、この三場面がものすごいスピードで切り替わりながら進んでいき、およそ、19世紀後半の人々の時間感覚ではなく、完全に21世紀の現在の感覚ですね。

 

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おなじみ、メグ、ジョー、ベス、エイミーの4姉妹。


しかしながら、映像それ自体は、時代考証もしっかりとしたもので、19世紀のままなのです。

 

ココが面白いですね。

 

バズ・ラーマン『Romeo+Juliet』はセリフはシェイクスピアのままで、完全に現在を舞台としていましたね。


映画は過去と現在が目まぐるしく変わっていくので、ボヤッとしていると、同じ人物が過去も現在も演じているので、わからなくなりそうになりますが、軸にあるのは、ジョーのニューヨークとコンコードの生活と、パリで大おばと生活する四女のエイミーの対比で、ここに、ローリーとの三角関係を作っての、かなりのスピード感のある恋愛物語なのです。

 

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実際には地理的な距離があるのですが、時間軸が自在に動く事で、空間的にも自由になっていき、ちゃんと恋愛ドラマになっています。


しかも、ここに目いっぱい原作の様々なエピソードをドンドンと放り込んでいくので、相当な情報量なんですね。


見ていて思い出すのは、昨年、史上最低の低視聴率を誇りながらも、一部で熱狂的なファンを生み出した大河ドラマ『いだてん』ですね。


原作のいわゆる第三若草物語のベア学園のところまでを140分ほどで駆け抜けているのですから、それはギュウギュウです。

 

しかし、古典文学の持つ格調の高さとか、ピューリタニズムとか、そういう本作の持つ部分を監督は呆気なく捨て去っている事にだんだんと気がついてくるんです。

 

そして、過去が猛烈なスピードで現在に追いついていくような構成がやがて過去と現在がほとんど一つになっていくところからが、実はこの監督の描きたかったところなんですね。


それが見ていてだんだんとわかってきて、コレは古典文学の構造から揺るがしていって、とうとうジョーなのかオルコットなのかが、もう混濁してしまって、見事に改変されたラストに結実していきます。


この監督のもはや使い古されたタノではないのか?と思われた題材から、ものすごいモノを、しかも取ってつけたようにくっつけるのではなく、恐らくは結末から考え、結末にいかに必然性を持たせるのかに考えに考え抜かれた、敢えてのスピードと情報過多。


そして、この斬新な構成に説得力を与える見事なキャスティング。


当然ながらですが、シアーシャ・ローナン演じる、ジョー・マーチなくして、本作は有り得なかったでしょう。

 

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見事にジョーを演じきった、シアーシャ・ローナン。ガーウィグ監督の前作でもコンビでした。


アカデミー主演女優賞は、当然です。


時々ジャンヌ・モローなのでは?と思われる、フローレンス・ピュー演じるエイミー、ローラ・ダーン演じるマーチ夫人、そして、大おばを演じるメリル・ストリープも、さては、「ポスト・マギー・スミス」を狙っているのではなきのか?という好サポートも素晴らしいですね。

 

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ジャンヌ・モローに見えてきて、見続けるともうモローにしか見たなくなる、エイミー。

 

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ローラ・ダーン演じるマーチ夫人。

 

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マギー・スミスを意識する、メリル・ストリープ


アレクサンドル・デスプラの音楽は、やや貼りすぎですけども、とても素晴らしいですね。


この貼りすぎだけが本作の欠点でしょう。

 

余談ですが、エイミー役がジャンヌ・モローと言いましたが、ジョーは、ジョン・レノンにしかみえません。


レノンとモローとティモシー・シャラメによる、「シン・トリュフォー映画」という側面も本作はあるのでした。

 

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なぜか、「ビートルズ感」があるんですよね。それはジョーがレノンにしかみえないからなのです!

 

 

今こそイマヘイ作品のバイタリティを!

今村昌平『赤い殺意』

 

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動物をメタファーとして使うのが実にうまいですね。

 

 

1960年代の今村昌平の映画はすべてオススメですけども、たまたま見返した本作は、やっぱり凄かったです。

 

今となっては、ソープオペラ的な題材でしかないかもしれませんが(事実、何度もテレビドラマでリメイクされてます)、やはりオリジナルの持つ迫力はものすごいモノがあります。


大学の図書館職員である西村晃演じる夫吏一が出張中に、強盗にレイプされた貞子は、もう何年も妊娠していないのに、突然妊娠してしまった事から始まる、貞子の人生を描いていきますが、この貞子を通して見えてくる、戸籍制度という、21世紀になっても維持し続ける理不尽な制度、東北社会に根強く残る因習などを炙り出す、今村昌平の骨太な演出が本当に見事という他ないですね。

 

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熱したアイロンを凶器にするというリアルさ!


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敢えて暑苦しいアップを多用し、見る者に圧迫感を与えています。

 

自分がなぜ不幸なのかすらわからないどころか、不幸である事すらわかっていない貞子が、次第に自分の人生を取り戻していくわけなのですけども、今村は、大島渚のように、戦後民主主義の不徹底やイエ制度への呵責なき怒りを叩きつけるような描き方はせず、善悪にジャッジはつけずにあくまでもリアルを見せますね。

 

貞子を演じる春川ますみの見事な演技、一切の綺麗事を排したコールタールのような暗さを強調した絵作り、敢えて距離感を持ってキャメラを固定しての長回しのワンショットの多用など、コッテリ感とクールネスが同居する今村演出は冴えまくってます。

 

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ロケーションも見事ですね。

 

『にっぽん昆虫記』と双璧をなす、今村昌平の全盛期を示す傑作であり、韓国の映画監督、イ・チャンドン、ボン・ジュノらにも確実に影響を与えているであろう事を知ることにもなります。

 

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コレはニーチェの運命愛の映画である!

イ・チャンドン(李滄東)『ペパーミント・キャンディ』

 

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もはや、現代を代表する巨匠の一人である、イ・チャンドン

 


イ・チャンドンはそんなに多くの映画を撮っている人ではないのですが(脚本家であり、小説家でもあるので、そちらの仕事がむしろ多いです)、いざ映画を撮ると、毎回ものすごい衝撃を与えますが、1999年公開の本作も、ちょっと驚きの作品なのでした。


お話は1999春のピクニックに始まり、1979年秋ピクニックに終わるという、循環構造のですが、それ自体は『アラビアのロレンス』などなど、たくさんあります。ちょっとしたいたずらのような。


本作のすごいところは、1999年から1979年に向かって遡るように物語が進行していきます。


つまり、最初にラストシーンがあって、その種明かしが物語になっているのですが、そのラストはまた最初につながっていくんですね。


冒頭、すなわちラストシーンが描かれてますし、もう20年以上前の作品ですから、ネタバレを書いても一向に差し支えないし、ラストシーンが最初という衝撃が物語を起動させるので、書きますが、主人公のキム・ヨンホは、絶望したのか、とうとう発狂したのか、列車が走っている鉄橋に上り、列車に惹かれてしまいます。

 

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気狂いピエロ』のフェルディナンのように自殺する、イ・ヨンホ。


そこから物語が始まるんです。


しかも、そこでは、高校の同級生たちが20年ぶりに集ったピクニックが行われていて、ヨンホはこれに突然現れます。


実は、3日前にラジオ放送でピクニックの開催をする事を番組内で宣伝をしていて、ヨンホはたまたまコレを聞いていたからなのですが、このピクニックでのヨンホの異様さ。


ジャン=リュック・ゴダール気狂いピエロ』の、主人公が絶叫しながらダイナマイトを頭に巻きつけて自殺する、あのラストシーンを思わせますね。

 

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ヨンホを演じるソル・ギョングなくして、本作は成立し得ないほどの熱演。

 


ゴダールは意外にも時間軸はそんなにはちゃめちゃな映画は撮ってないんですけども、本作はいきなり主人公の自殺から始まります。


で、普通なら、「では、何故自殺してしまったのか?」の最初から語るという手法をとり、そして、1999年の主人公の自殺まで語っていきますよね。


本作はそうではなくて、1979年の、高校生の頃のピクニックで終わってるんです。


時間がドンドンと遡っていくんですね。

 

それを電車が走るのを逆回転再生するという、恐ろしく古典的な手法で表現しています。

 

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エピソードの合間に必ず挿入される逆回転再生される線路の映像。

 


それを1999年、1994年、1987年、1984年、1980年、1979年と遡るように断片的なエピソードとして見せていきます。


しかも、巻き戻しつつ見えてくるのは、韓国現代史の断片でもありました。


時間軸を普通に戻して語ると、高校生→兵役→工場労働者→刑事→会社経営者という彼の人生が語られるのですが、そこに、朴正煕暗殺、光州事件民主化運動、1997年の金融危機が彼の人生に影を落としていている事がだんだんとわかってくるんですね。

 

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しかし、結論を言えば、ヨンホが自殺するに至る理由はそういう社会的背景に落とし込んではおらず、ハッキリとは明示されません。


たしかに彼の事業の失敗、幼なじみのユン・スニムが実は知らない男と結婚していて、余命いくばくない事を知った事などなど、思い当たる事はいくつも思い当たるのですが、私はそれらは自殺の原因だとは思いませんでした。


彼の絶望は、自殺の3日前に見たネガフィルムにあったのではないかと。


恐らくですが、そのフィルムに写っていたのは、彼の運命だと思います。


彼が今まで経験してきた事があのフィルムにすべて書いてあったのではないか。


本作では重要な小物がいくつか出てきて、その一つがタイトルでもあるペパーミント・キャンディなのですけども、もう一つがカメラでして、そのどちらもが、幼なじみのスニムと強く結びついています。

 

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実はカメラはスニムが工場で働きながら貯めたお金で買ったカメラでして、そのカメラはカメラマンを目指していたヨンホへのプレゼントだったんです。


しかし、コレを受け取りませんでした。


最後に受け取ったのが、自殺する3日前で、スニムの夫から、事実上の遺品として改めて手渡されものです。


ヨンホはこのカメラを売り払ってしまうのですけども、中にフィルムが入っていたんですね。


そのフィルムには彼の過去、現在、未来がすべて示されていた。


因果律ですね。


彼はその事に絶望したのだと思います。


しかし、その自殺もまた因果律であり、絶命間際に「昔に戻りたい!」と叫んでも、彼の生と死は循環構造の永劫回帰の中にあるという。


循環構造にある事はラストシーンのピクニックのシーンで、「どこかで見たことのある風景だ」というヨンホのセリフが明示してます。


結論すれば、本作は因果律の話しであり、神の存在について描いた作品だと思います。


なぜ、そこまで言えるのか言いますと、韓国は私たちの思っている以上にキリスト教社会であるからで、本作以外でも、『シークレット・サンシャイン』という、コレまたとんでもない作品でキリスト教の問題を真正面から扱っているからです。

 

日本ではこういう映画を撮ると説得力に欠けますが、韓国はコレを可能とする社会的な背景があるんです。

 

そして、凄絶なまでの政治的激動も実際にありました。


ここまでネタバレさせても、本作を見る事に何の支障もないほどに作品としての強度がものすごい、現代の黙示録。


それでも「人生は美しい」と言えるのか?を突きつけた、イ・チャンドンの傑作です。

 

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『じゃりン子チエ』の手法を更に過激に推し進めた傑作

高畑勲ホーホケキョ となりの山田くん

 

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こんなスカスカな絵をスムーズに動かすのは、正気の沙汰ではない。

 

「もうリアリティは極めた」とし、線のヨレ、色のムラをそのまんま活かした動画。という言葉にしてしまえば簡単ですが、実際の作業はほぼ冥府魔道。というケタ外れに容赦のない事を要求した、今もってこんな途方もない事を商業映画で実行した監督は世界的に見てもいないという作品。

 


しかし、その努力が見ている側には、単に「スカスカした絵が動いているだけの散漫な作品」にしか見えなかったため、興行的にも惨敗したのではないか。

 


ジブリ作品。というと、どうしても宮崎駿のメリハリがシッカリとした、昔ながらのアニメの絵が驚異的に動き回るものをよくも悪くもイメージしてしまい、高畑が追及する世界との齟齬があまりにも大きくなってしまった事が原因であると思います。

 


この作品が、『じゃりン子チエ』の直後であったならば、まだ、「高畑勲の世界」として確かに受け入れられ、あそこまで興行が悪くはなかったのかもしれない。


高畑勲には、2つの重要な世界があります。

 


1つは『アルプスの少女ハイジ』にからある、非常に精緻な構成の中での、少女の成長物語です。

 

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ほとんど弁証法的と言ってよいほどの構成力を持つ傑作、『アルプスの少女ハイジ


赤毛のアン』そして遺作となった『かぐや姫』はまさにこの系譜であり、よく考えるとすべて文学作品ですね。

 

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モンゴメリーの不朽の名作をアニメ化した、『赤毛のアン

 


もう一つが『じゃりん子チエ』をテレビアニメ化したもので、本作は明らかにこの系譜の作品であり、連載マンガのアニメ化です。

 

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中山千夏西川のりおの声優起用が見事にハマった『じゃりン子チエ』。


前者の二つのテレビアニメは、宮崎駿を場面設定として起用している作品でもあり、このコンビの最良の仕事でもあります。

 


この二つの作品の決定的な違いは、世界観の違いですね。

 


前者は驚くほど精緻な構成で作られていて、一話たりともダレや間延びがないです。

 


最近、改めて『ハイジ』を見て、特に前半のオンジとの山小屋の生活を丹念に描いている前半がこんなにミニマルな話なのに、全くつまらなく場面が無いことに心底驚きました。

 


赤毛のアン』などは友人のダイアナが出てくるのはなんと第9話です。

 


それまで、アン、マリラ、マシューの3人に何人かのゲストキャラクターがいるだけです。

 


週1回の放送だったわけですから、2ヶ月いっぱい、アンの心の友、ダイアナは出てこないんです(会話の中には出てきますが)。

 


19世紀後半のカナダの田舎の時間感覚をホントに表現しているんですね。

 


『ハイジ』で確信を持った高畑が、更に大胆に時間感覚というものに挑戦したわけです。

 


それに対して、ある意味、どこから見ても話についていけると言ってよい、循環的、もしくは前近代的な時間観念が支配しているのが、『じゃりン子チエ』であり、『となりの山田くん』です。

 


『チエ』の主人公チエちゃんは大阪に住んでいる小学校5年生のままであり、『山田くん』の登場人物も年齢が変わることはありません。

 


『チエ』はまだ一話完結型のマンガですから、まだ、各話の起承転結がありますが、『山田くん』は、『朝日新聞』に掲載されている四コマです(のちに『ののちゃん』に改題し、現在も連載中です)。

 


要するに、物語に何か中心になるようなものを何も置くことができないし、起承転結もないわけですね、もはや。

 

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敢えて似てる作品といえば、小津安二郎『お早よう』であろうが、アニメでそれをやろうというのが普通ではないのです!

 

 

コレを映画という形で提示してしまった事がより無謀でありました。

 


コレがNHKの何かの番組のつなぎの5分間ほどのアニメの連作として作っていたら、よかったのかも知れません。

 


しかし、前述した苛烈な作画への要求はもはやテレビでは実現不可能であったわけですね。

 


意図して、単なるエピソードの羅列とし、何の起承転結もなく、ラストに「適当」という、メッセージを示して終わる。というのは、いくら何でも人を食い過ぎでありました。

 


が、そう言った諸々のディスアドバンテージが高畑の死によってすべてが外れ、要するに一つのテクストとして本作に改めて向かうと、本作のとてつもなさ、そして、遺作となる『かぐや姫』への布石はすでに本作で打たれていた事がイヤというほどわかる作品であり、やはり、天才の偉大な仕事である事がわかるわけです。

 

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ジブリらしいアクションシーンは意外とありますが、この絵でやっているのが、尋常ではありません。


一見、単なるエピソードの羅列に見えて、やはり、構成力の見事さははっきりされていて、そこは場面のリズムや間だけで最早ダレないように作り上げているんですね。

 


そして、サントラの使い方の絶妙さ。

 


高畑作品に一貫している、耳の良さと趣味の良さはこの作品でも見事に発揮されていて、どこにでもありそうなエピソードにワザとマーラー交響曲という、ドラマティックの極みのような音を敢えて当てるとか、矢野顕子の歌を、浮遊感のある映像に当てるなど、ホントにうまい。

 


鉛筆でササっと描いて、水彩絵の具でサッと色を塗ったような動画がタンゴを踊ったり、荒波を超えるような、いかにもジブリっぽいダイナミックな絵を挿入したりして、決して単調な動画に落とし込まないんです。

 


この辺は宮崎駿への対抗意識もあるのかも知れません。

 


ファンタジックな事は私にだってできるのだと。

 


声優はプロフェッショナルを敢えて起用しない。という方法論は、『チエ』で確立した大胆な手法ですが、あそこまで過激ではありませんが、やはり、プロの声優ではないのに、違和感がないどころがピッタリ過ぎてプロを起用していないことに気がつかないくらいで、それってよく考えてみたら、更に凄くなっているのではないか。

 


で、この手法を宮崎駿も使うのですが彼の作風には、ちゃんとした声優をキャスティングした方が私はいいと思います。

 


このプロを使わない手法は、やはり、『かぐや姫』でも一貫していています。

 


それにしても、やはり、根本的な疑問は、何故に新聞の四コマ漫画を原作とするという作品を作ったのか?という問題がどうしても解消しません。

 


この、何という事もない一家の日々の断片集を以て、大袈裟に言えば、人間の生というものの全肯定を描きたかったのでしょう。

 


そういうものを描く事に、アニメーションというものは向いていないのではないか?やはり、超人的な主人公が飛んだり跳ねたりする活劇こそがアニメの本領なのではないのか?というものへの解答を作品として提示したという事なのかも知れません。

 


それをジム・ジャームッシュのようなオフビートなコメディでもなく、ありきたりな出来事の積み重ねとして描くという、ある意味で絶壁に敢えて爪を立てて登ろうという挑戦ではなかったのでしょうか。

 


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同じ場面をシリアスとコミカルに巧みにかき分けているのですが、コレは必見です。

 


『ジャリん子チエ』で作り上げた手法を更に極限までおしすすめた、ものすごく過激な、故に、大衆的な支持は失ってしまわざるを得ない、恐るべき作品。

 


今こそ再評価したいですね。

 

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カーニー監督は「ココロのマッサージ師」である。

ジョン・カーニー『シング・ストリート』

 

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日本での劇場公開3作目ですが、カーニーは一作も外れなく、すべてオススメですね。もうとにかく素晴らしいという他ない。

 


アイルランド出身でダブリンを舞台する作品でどれも低予算なのですが、青春映画としてすべて逸品です。

 


本作は1985年という、アイルランドの経済がドン底時代のダブリンが舞台の青春映画ですけども、ヤバいくらいにどストレートに甘酸っぱいのです。

 


オヤジが失業者、母親が勤務日数の削減、兄は大学を中退という、ほぼケン・ローチ作品のようなひどい経済状況により、荒廃した高校、シング・ストリート(Synge Street)高校に転校せざるをえなくなったコナーは、ほどよく荒れたつっぱりハイスクールな校舎、体罰上等な学校の体制にウンザリしているんですね。

 

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理不尽な校則というのは、アイルランドにもあったんですね。

 


この荒廃の描き方がホントにリアルで驚きました。

 


そんな彼がたまたま声をかけたラフィーナという女の子をPVに出演させるためにロックバンドをやっているという話しをデッチ上げるんです。

 

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カーニー監督のキャスティングはホントに素晴らしい。


プロデューサーを買って出るダーレン、なんでも楽器のできるエイモンたちを中心にホントにバンドを結成します。

 

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演奏のへっぽこがものすごくリアルというか、多分、本当の実力で演奏しているのでしょうね。

 

 

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コナーが作詞、エイモンが作曲です。

 


通っている高校の名前をもじって、「シング・ストリート」(Sing  Street) というバンド名とするんですね。

 


このダブルミーニング、うまいですねえ。

 


ストーリーそれ自体はそんなに特別なわけではないんですが、キメの細かい、観客を絶妙に刺激する巧みな演出が随所随所にあって、それがホントに見事です。

 


1985年というと、イギリスのポップロックの黄金期ですけども、なんと言っても、デュラン・デュランの音楽と映像ですよね。

 


兄のブレンダンのロックスクールの楽しさ。

 

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ブレンダンとコナー。

 


ジェネシス聴いてる奴は非モテ」とか、いちいちツボですね(笑)。

 


ラフィーナのキラキラきたファッションやヘアスタイルも当時そのまんまですし、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を思わせる、主人公の妄想PVなどなど、ホントにうまいですね。

 


エイモンが『ビバリーヒルズ・コップ』のテーマ曲を演奏するとか、わかってますよね(笑)。

 


しかし、この作品の一番の説得力はなんといっても、このバンドの演奏なのです。

 

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程よくイケてないルックスも見事です。

 


どこまで本人たちの演奏なのか、調べていないので全くわかりませんが、はじめのへたっぴさがだんだんとバンドとして上達していく様子が、ハッタリではなくて、とてもリアルです。

 


コナーは、前の私立高校時代から詩を書き留める習慣があって、それがバンドの作詞に貢献してるんですけども、ヴォーカルはホントに彼が歌っているものと思いますが、ちゃんと上達してるんですね。

 


その過程はウソではなくて、ドキュメンタリーになっているんです。

 


そこが本作にものすごい説得力を与えてます。

 


この「歌のちから」というものを実に丁寧に見せることが、ジョン・カーニーの演出のキモです。

 


また、主人公がデュラン・デュランに憧れ、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』へのオマージュなどなど、1980年代に思春期を生きた人たちにはたまらないツボがそこかしこに配置されているのが嬉しい作品です。

 

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今見るとこっぱずかしい事この上ない、デュランデュラン(笑)

 


この時代の事がサッパリわからなくても、この作品が持っている風通しのよさ、気持ちよさはどなたにもわかるもので、この気持ちよさは、カーニー監督の一貫した世界観ですので、コレが気に入った方は、『ONES』、『はじまりのうた』も是非ご覧下さい。

 

ちなみに、この舞台となる高校は実在し、現在は学校環境は大いに改善しているそうです。

 

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峰岸徹オンステージな痛快作!

大林宣彦ねらわれた学園


2020年に惜しくも亡くなった大林宣彦角川映画の痛快青春映画。


時をかける少女』が余りにも有名で、その陰に隠れてしまった感がありますがこちらも傑作です。


眉村卓の、現在で言うところのラノベを原作としますが、コレも筒井康隆原作の『時をかける少女』とかぶっているんですけども(要するに、角川映画というのは、本を売るためのプロモートです)、大林監督は、あくまでもそれをネタというか、口実にして、結局は自分の世界を好き放題にやる。という手法です。


唐突に放り込まれるPV、明らかにそれとわかる書き割りの背景、チープな特殊効果、ちょっと笑ってしまうキャスティングなどなど、初期の大林作品は天才スピルバーグの初期作品のような、天衣無縫の遊びに満ち満ちています。

 

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1980年代ってなんでこんなに恥ずかしいんだろうか(笑)。

 

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思い切り書き割りです!


で、そういうおもちゃ箱のような映画の中で、薬師丸ひろ子たちは、実にのびのひしています。

 

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原田知世とともに角川映画を代表する薬師丸ひろ子。『あまちゃん』でも元アイドル役が光りました。


コレは、お笑いウルトラクイズのリアクション芸人たちがドン引きするような凄絶な撮影を旨とする相米慎二セーラー服と機関銃』と好対照です。

 

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ストーリーはもう恐ろしいほどチープですが、しかし、それが魅力につながってしまうのが、天才の所業です。

 


ちなみに、脚本が適当な監督ではないです。誤解のなきよう。

 


超能力が発動してしまった薬師丸ひろ子が、宇宙からやってきた超能力者と彼の配下と戦うという、まあ、なんともこっぱずかしい、おっさんではとても映画館では見に行けない作品なんですけども(笑)、羞恥心を捨てて見てみますと、いやー、面白い!

 

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こんな感じでしたよ、昭和末期の高校生(笑)。

 


タイトルがほぼネタバレというも素晴らしく、転校生が生徒会を通じて、自由気ままな新宿の公立高校(新宿高校がモデルなのでしょうか?)を秩序と規律で支配するというモノですが、こういう荒唐無稽なお話しに大林監督は、ファシズムへの批判を込めているのが、さすがですね。

 

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生徒会を通じて学校を支配下に置く、転校生とガリ勉君。

 


ご存知のよつに、校則というものは、法律ではありません。


しかしながら、現在に至るまで、学校を運営していく上で自治の名の下にかなり首を傾げざるを得ない校則が、21世紀になっても現存しており、この映画で描かれている世界は存外ガチのリアルである事は戦慄してもよいのではないでしょうか。


また、自治であるが故に、教育行政はコレに不干渉とする事で、事実上の支配を獲得しているのだ。という点に気が付かなければならず、ファシズムというものが「正義」の面構えをしており、法律ではなく道徳を説いて支配している事を知らなくてはなりません。


そもそも、制服というものとファシズムは不可分の関係があるわけです。


また、ファシズムは快楽と結びつきます。制服はまさにカイ、カン。なので。


峰岸徹演じる、ほとんどマグマ大使のゴア、現在ではジャズメンのカマシ・ワシントンであるところの星の王子さまが目指す世界征服って何よ?というツッコミはさて置き(笑)、クローネンバーグ だったら、『デットゾーン』みたいな悲痛な映画となるところを、躁病質なハイテンション作品に仕上げてしまうところが大林監督の真骨頂です。

 

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これぞ、スーパー歌舞伎、ジャパンクールなのです!

 


手塚眞演じるガリ勉君、ハナ肇演じる酒屋の店主、そこの従業員の鈴木ヒロミツなどなど、チョイ役、カメオ出演がいちいちツボにハマってしまうところも見どころです。


素晴らしい映画をたくさん作ってくれて、ありがとうございました!


大林宣彦は、作品を通じて、出演者とともに永遠に生きます!

 

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現在は世界的な「ファシズム前夜」なのでしょうか。

喜劇的としか言いようのない悲劇!

奉俊昊(ボン・ジュノ)『母なる証明

 


ポン・ジュノが『グエムル』の次に放ったのは、なんと、知的障害を持つ冤罪事件でした。

 

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キム・ヘジャ演じる母親の熱演が見事でした!

 


コレが熊井啓なら、超がつくシリアスに、野村芳太郎だったら、後味がものすごく悪い映画となる事必定ですよね?


しかし、ボン監督は、コレを喜劇として描いているのがすごいんですね。


重いテーマなのに、妙なおかしさがある。といえば、今村昌平ですが、ポン監督は今村の系譜の監督と言えます。

 


こういうシリアスなテーマなのに、どこか笑ってしまうというのは、彼の監督作に一貫してますね。


黒澤明は、ハリウッドで『暴走機関車』という映画を撮る企画があったのですが、黒澤は機関車が暴によって起こる、様々な人間の滑稽な様子を描きたかったらしいのですが、映画会社に拒否されてしまい、企画は頓挫しました。


後にハリウッドで映画化されたんですけども、黒澤明が作ったらなあ。とやはり思ってしまいます。


閑話休題


グエムル』と全くテーマは違いますが、やはり、根底にある、韓国社会の厳しい経済格差が描かれていて、役人批判(ここでは特に警察です)がとてもありますね。

 

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ハナから犯人と決めつける警察。

 


殺人事件の冤罪として逮捕されてしまうのは、トジュンという知的障害がある青年で、コレを演じているのが韓流四天王ウォンビンなのが驚きですね。

 

しかも、兵役から復帰後初の映画出演です。

 

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韓流スター、ウォンビンが、知的障害者を演じるという衝撃!

 

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日本で言えば、木村拓哉知的障害者を演じているようなもので、かなり衝撃です。


トジュンの家族は漢方薬店をやっている母親だけです。


この母親が息子の無罪を信じて、そこまでやるか?という行動を次から次へとやるんですが、これがもうすごいんですね(笑)。

 

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どうすごいのかは映画を見てのお楽しみですけども、『宮本から君へ』みたいな暑苦しく濃厚な喜劇です。


が、ポン監督の凄さは単に面白いな。ではないんですし、社会が悪い!にも落とし込まない、何とも名状し難い重さがやってきます。

 

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しかし、それすら跳ね除けてしまう恐るべき豪腕とも言えるラストの太さ。


この表現の太さ、強さがポン監督の最大の強みですね。

 

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