黒澤明『椿三十郎』
ちょうど、黒澤明がアカデミー賞の名誉賞を受賞し、『七人の侍』がリヴァイヴァル公開してから、東宝が漸次黒澤明の監督作品をVHSでレンタル/販売を開始した時期が高校生の頃で、彼の作品はほとんどレンタルビデオで借りて見ました。
それから、黒澤作品はDVDは映画館で何度も見たものです。
とにかく、明快でダイナミックな娯楽作品にその才能を爆発させていた監督ですが、とりわけ、『用心棒』、『椿三十郎』という、三船敏郎演じる名無しの浪人を主人公にした二部作は、とりわけ感銘を受けました。
黒澤、三船のコンビの極点は何と言ってもこの2作に尽きると思います。
コレ以外にも黒澤明に見るべき映画は大変多いですが、黒澤明をまだ一作も見た事のない方には、迷う事なくコチラをオススメします。
作られた順番は『用心棒』→『椿三十郎』という順番ですけども、別にどちらから見てもよいと思いますが、本論は面白さを考えるというよりも、久々に『椿三十郎』を見直して見た事でいろいろと気がついた事があったので、それについて書いてみたいと思います。
さて。
今更のように思いますが、この作品は1つの勧善懲悪作品ですけども、悪役が使いまわされています。
すぐに気がつくのは仲代達也ですけども、志村喬、藤原釜足もそうなんですよね。
悪党4人組を茶室で一挙に見せるといううまさ。悪党たちの人間の小ささを絶妙に演出してます!
あと、面白いのは、『椿三十郎』で藤原、志村、仲代、清水の4人組に拉致されてしまう城代家老の伊藤雄之助の奥方役が、なんと、入江たか子なんですよね。
この2人の醸し出すのんびり感が生み出すオフビートが素晴らしいですね。
溝口健二『瀧の白糸』で主演を演じた事で有名な女優ですが、実はこの頃はほぼリタイア状態だったんです。
恐らく、黒澤が頼み込んで出演してもらったんだと思いますが、特に三船との絡みで絶妙なコメディエンヌを演じておりまして、それでいて、実は、「椿三十郎」をものすごい剣客である事を一瞬で見抜いてしまうような慧眼の人であり、要するに、『椿三十郎』の中で、城代と並んで人格者になっています。
そういえば、黒澤作品にかなり一貫しているのは、年長者がエラく、若者はそそっかしくて、思慮に欠ける存在として描く事が多いんですが、そこに、異分子のような三船を放り込んだ事のギクシャクさを『椿三十郎』ではやりたかったんでしょうね。
このような三船以外が全員ボンクラという構図をそのまんま絵にする構図は今見るとちょっと図式的な気がします。
それは、前作『用心棒』で、宿場町のヤクザの抗争を剣と合理的思考で一望打尽にしてしまうという圧倒的な強さを見ていると、尚更おかしいわけですよね。
『用心棒』は2つのやくざの勢力の構想をかなりデフォルメされたセットの中で繰り広げている、かなり不思議なアクション時代劇ですが、故にキャラクターもかなり黒澤らしいデフォルメがコッテリとつけられていて、しかも、コレを名キャメラマン、宮川一夫が、ゴロンゴロンとした存在感と奥行きのある撮影で撮られていて、本当に大きな映画なんですよね。
宮川一夫を惚れ惚れするような絵が連発する『用心棒』はもうそれだけで大傑作です!
それに対して、『椿三十郎』はとても小ぶりでB級とは言いませんが、プログラムピクチャーのような手際の良さ、時間と空間の巧みな省略が面白く、故に構成力とか脚本の頓知力で勝負している作品で、見ていると時代劇というよりも、ほとんど現代劇に見えます。
とある藩の騒動にたまたま巻き込まれてしまう下りが驚くほどの省略法で表現されている冒頭の、「あっ、もう三十郎は事件に巻き込まれちゃってるんだ!」と見る側を一気に惹きつけてしまう旨さは、黒澤作品の中でも白眉の1つではないでしょうか。
しかし、この作品にはちょっとした構造的問題がある事にも気がつきました。
『椿三十郎』は若侍たち(若大将シリーズの加山雄三と田中邦衛がいるのが笑えます。黒澤はワザとやっているのでしょう)の集団主義、非合理主義、カミカゼ精神を揶揄する、合理主義のキャラクターとして描かれているのですが(コレは『用心棒』も同じです)、実はもう1人の合理主義者が藩の陰謀を悪事とわかって積極的に利用する、最大の悪漢、仲代達也もそのようなキャラクターなのです。
若大将と青大将を使っているのは、多分、ギャグだと思います(笑)この後、三船、加山は『赤ひげ』で本格的にタッグを組みます。
小林桂樹も社長シリーズでの常連ですよね(笑)
仲代は悪事のブレーンである、清水将夫演じる大目付の右腕なのですが、実は、この大目付にしても陰謀の首魁である、次席家老の志村喬にしても国許用人の藤原釜足にしても、まるっきり小物の悪党である事を見抜いているのです。
この2人の会話シーンは隠れ名場面ですね。
つまり、彼らを隠れ蓑にして、藩政を仲代が自ら動かし、やりたい放題やる。という算段なのですね。
コレに三船を誘い入れようとすらするんです。
『用心棒』では、仲代はキレ者だが、やや一匹狼ヤクザ役を演じていましたが、悪人としての程度はそこそこです。
しかしながら、『椿三十郎』は政治権力内部に入り込んでコレを巧みに利用していこうという、かなり本格的な悪党です。
しかも、自分が悪党である事を自覚してすらいるんですね。
もう古典作なので、別にネタバレも何もないですけども、仲代の野望は三船の小芝居で打ち砕かれますよね(笑)。
ただ、この2人の合理主義、組織を利用して外観上はそこそこの出世をし、内実を握るという考えと、徒党を組まない徹底した個人主義に貫かれた合理主義の対決は、むしろ、この対決では未解決なんです。
何しろ、頓知ですからね、陰謀が打ち砕かれるのが(笑)
しょうがないんで、最後は2人の決闘にするんですけも、それは合理主義とはなんの関係もなく、単に僅差で三船が仲代を斬殺した。という事実にすぎません。
しかし、その一瞬の剣戟(何の打ち合わせもなく行われた事によって起きた、血が大量に吹き出すぎたしまった事をそのままOKテイクにしてしまったものですね)が余りにも衝撃的/笑劇的なので、それがどこかに飛んでいってしまうんですね。
それは、宮崎駿『風の谷のナウシカ』が何も問題を解決していないのに、トンデモな奇跡を主人公がしでかしてしまい、そっちに全部持っていかれる事にどこか似ている気がします(この映画のテーマは腐海の謎とそれを踏まえて如何にして世界を救済するのか?の問題だったはずです)。
なので、『椿三十郎』で結局、立ち上ってくるのは、仲代に僅差で勝利した三船の凄さなのではなく、あの城代夫妻の人格者ぶりが一番すごいのだ。三船や仲代のような抜き身の刀のような生き方はダメなのだ。という事でしかなくなってしまうんですね。
で、身も蓋もない結論なので、三船は江戸時代にはなかった「あばよ!」という捨て台詞をいって、なんと、現代に一緒にジャンプして強制終了させるという、剛腕な終わり方なのだと思います。
思えば、『用心棒』における三船の前近代の象徴である刀と近代の象徴である仲代の拳銃が、コレまた、三船の頓知が発揮された奇襲で敗れるという剛腕を発揮した黒澤明ですので、まあ、どっちもどっちです。
黒澤明の中に恐らくは近代的合理主義と前近代的な家父長制的な世界、あるいは、少年マンガみたいな気合いとか根性の末に出てくる頓知とか奇跡みたいなモノの相剋があって、それがこのようなものすごいダイナミズムを生んでいるのでしょうね。
何かも整合性の取れた世界なんて、実は面白くなかったりもしますし。
娯楽映画はあらびきぐらいが面白いのです!