コレも完全版が見たいですねえ。
ベルナルド・ベルトルッチ『ラスト・タンゴ・イン・パリ』
衣装と撮影が素晴らしい作品でした。
日本で発売されているDVDでは「完全版」と書いてますが、ご存知のように、完全版は4時間近い大作です。
残念ながら、このバージョンを見る事はどの国もできないようです。
未だに各方面から、お許しが出ていないのでしょう。
主演の2人の人生に少なからぬ影響を与えてしまった、ベルトルッチがわずか30歳で撮った作品ですけども、30歳だからできた作品とも言えるでしょうね。
ゴダールに憧れ、ヌーヴェル・ヴァーグに心酔していたベルトルッチがパリでロケーション撮影したかったのが、ブランドウが絶叫する冒頭からムンムン感じます。
妻の自殺に絶望しているブランドウ。
ベルトルッチ作品を決定づける、ヴィットリオ・ストラーロのキャメラ余りに流麗かつ縦横無尽に動き回るので、ブランドウの絶叫が、絶望ではなくて、喜びにすら誤解してしまいそうなくらいなのですね。
あと、どこかくたびれたような色調を落とした画面が実に素晴らしい。
本作でよく出てくる構図ですけども、敢えて画面半分が曇りガラスで見えないんですね。
このフランシス・ベーコンの独特の歪んだ身体の書き方を曇りガラスを使って映像化したのでしょう。
とにかくパリを美しく録りたい。そして、完全に落ち目に見られていたブランドウを復帰させたい。
そういう若い熱気みたいなものがコレを作らせたんでしょうね。
事実、本作を傑作たらしめているのは、マーロン・ブランドウの見事な演技にある事は間違い無く、妻が謎の自殺を遂げてしまって、人生に絶望している中年男性を見事に演じております。
左右で違うものを写すという構図もよく出てきますね。
若い頃から脚光を浴びた人ですが、60年代には最早忘れ去られた存在でしたが、本作と『ゴッドファーザー』でのドン・コルレオーネ役は、彼のキャリアの畢生のものとなりました。
マッシモ・ジロッティとの会話のシーンがこれまたいいですよね。
ほとんど素で喋っているように見える映像をフト挿入する面白さですよね。
どこまで演技なのかわからないような、かなり曖昧な撮り方をしてますけども。
この映画で一番よくわからないのは、ジャン=ピエール・レオーですよね(笑)。
一応、何やらマリア・シュナイダーを主演として映画を撮っているんだか何だかわからないんですけども、この時折挿入されるこの2人のシーンの意味があんまりわからないんですよね。
特にストーリーと関係あるわけでもないですし。
こういう全くの無関係なシーンがこの映画は、先ほどのブランドウと大物俳優の絡みとかにも散見されまして、ある種の遊びのようなものが映画の中に入り込んでいるんですね。
お話の構造は、マーロン・ブランドウの話し、マリア・シュナイダーのお話し(ここにレオーが出てきます)、そして、ブランドウとシュナイダーのお話しになっていて、ブランドウとシュナイダーの話しは、一切交わりません。
本作の下敷きには、明らかにゴダール『勝手にしやがれ』があると思うのですが、あそこまで、ダラダラシーンを延々と撮るというのは、さすがにベルトルッチにはできませんから(というか、あれはゴダールという天才の所業なので)、大枠の構造を決めて、そこにいろんなハプニングを入れ込んでいるんですね。
また、ゴダールは音楽すら切り刻んでしまいますけども、ベルトルッチは映像と音楽のシンクロがやはり快楽になっていきます。
泥酔したブランドウとシュナイダーかタンゴのコンテストに乱入するシーンはその真骨頂だと思いますが、イタリアの監督らしく、オペラティックですね。
ベルトルッチなりのヴィスコンティへのオマージュなのでしょう。
また、全体から漂うオモチャのようなリアリティのなさ(レオーとシュナイダーがこれを一層助長します)が、逆にブランドウの異様な存在感を際立たせます。
とかく過激なセックスシーンとかそういう所に目が行きがちですが、マーロン・ブランドウという不世出の俳優がどれだけすごいのかという事をイヤというほど知ることのできる傑作だと思います。