映画館で見直したら、やっぱり最高でした!

S. S. ラージャマウリ『バーフバリ 王の凱旋 完全版』

 


バーフバリの後編がとうとうインドでの公開と同じ完全版として公開されました!

 

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いやー、映画館で見ましたけど、この作品は、映画館で見ないとダメですね。


心底そう思いました。


この完全版上映は、実は、前編を見てなくても、ものすごく丁寧な前編のあらすじを恐らく日本独自に作成していて、見るには支障ありません。


敢えてゲーム的な動きのままにしたCG表現が効果を上げていて、それが見ていてマイナスどころかプラスなのがとても面白いですね。


イントレランス』、『ベン・ハー』、『スパルタカス』、『スターウォーズ』、そして、『タイタニック』というアメリカのスペクタクルな大作映画のおいしいところを全部入れて、更にコテコテのお笑いコント、インド映画お得意の(本作はボリウッド映画ではないですが)ミュージカルまで入った、まことにぶっとい映画でした。


内容に立ち入ったものはもうすでに書きましたので、もうここでは繰り返しません。


やはり、忠臣カッタッパと国母シヴァガミがめちゃよかったですね。


とにかく、3時間近くあるのに、退屈させてくれない、最高のエンターテイメントを堪能いたしました。


見直してみて、敢えて難を言えば、ジブドゥ/マヘンドラ・バーフバリと行動をともにしていたレジスタンスの存在が、後編だとかなり弱くなってしまう事でしょうかね。


ココはもうちょっとなんとかすべきだったかもしれません。


それにしても、インド映画の水準が確実にワンランク上がりましたね。

 

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国母!

見事な短編小説読んだように面白かった!

マーティン・マクドナー『スリービルボード

 

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町外れの誰も見ないような広告板でした。


なんとなくショービズの内幕描いた作品みたいなタイトルですけども、ビルボードの本来の意味、野外に建てられている大きな広告板の事で、それが、それがミーズリー州の小さな町で3つの掲示板に出された広告がもたらした出来事を描いた作品です。

さて、その広告板どんな広告だったのかというと、


「逮捕はまだ?」


「ウィロビー署長は何してる?」


「娘はレイプされて殺された」


という、恐ろしくドギツい広告であり、

出したのは、娘を殺された挙句、遺体を焼かれた母親のミルドレッドでした。

 

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レイプ犯を見つけようとするミルドレッドを演じる、フランシス・マクドーマンド

 

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名指しで署長をディス!

 

地元の警察官は激怒し、中でも、ディクソンという、アホな警官の怒りは並々ならぬものが。

 

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「黒人を拷問してるのか?」とのディスりに激怒するディクソン。そりゃ怒るでしょう(笑)。


広告を出した母親ミルドレッドを演じるフランシス・マクドーマンドは、ラーメン専門店の気合の入ったお兄さんみたい作務衣にバンダナみたいな格好で(笑)、ほとんどクリント・イーストウッドばりの「正義は我にあり!」という人で、警官たちにも住民にも喧嘩上等であります。

思い切り名指しされてディスられた署長は、実はものすごくいい人で、当然ですが、娘さんの捜査は手抜きどころかすべてキチンと行った上で、確実な証拠が何一つ出てこない事でお手上げになってしまった事をミルドレッドに伝えるのですが、「んなもん関係ねえ。ちゃんと捜査しな!」と、ロッキンママなのでした。

 

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あまりに過激すぎるミルドレッドを心配する署長。ウディ・ハレルソンが好演してます。


しかし、ココで1つの問題が判明します。

署長は膵臓癌を患っていて、それほど余命がなかったのです。

「んなもん知ってる。でも、出さないとやんないしょ」と、異様な覚悟でこの暴挙に出ていたんですね。

ココから、小さな街中では、ギクシャクしたものが少しずつマクドーマンドの周囲で起き始めました。

コレ、どうすんの?どうなんの?と、思って見てますと、なんと、署長が休みの日に家族サービスをした日の夜に、銃で頭を打ち抜いて死んでしまうのです!

 

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家庭ではホントにいいお父さんのウィロビー。


ココから、話がガラッと動き始めるんですね。

実は、家族にガンの症状があったする事で介護が大変になる事で迷惑をかけたくなかったので、署長はかなり用意周到に準備をして自殺していたんですが、これを誤解したディクソンは怒りを爆発させて、広告会社のお兄ちゃんを二階から投げ飛ばしてしまいます。

コレを、ちょうど、後任でやってきた黒人の署長が目撃してまして(警察署の向かいに広告会社があるんですね・笑)、ディクソンを解雇します。

前半は、ミルドレッドとウィロビー署長の話しでしたけども、後半は、元警官のディクソンとミルドレッドのお話しになっていきます。

と、このようにあらすじだけを書いてしまうと、なんだかシリアスな話だなあ。という印象がものすごく残ってしまうのですが、実際に見ると、実は、かなり笑えるシーンやセリフが多く、映画館で見ていると何度も笑い声が聞こえてきました。

マクドーマンド演じるミルドレッドがディクソンに対して、「今日も黒人を拷問してるのか?」とかを平然と聞いたり、「オレは署長の味方」みたいな事を言い出した歯医者を、あの歯医者さんが使っている歯に穴を開ける機械で親指の爪に穴を開けてしまったり、クルマに缶をぶつけてきた高校生のに金的を食らわしたりと、キャラハン刑事も真っ青なぶっ飛びキャラを演じていて、実に清々しいですし、合間、合間にスッと挿入される会話のトボけたおかしさがホントに絶妙なんです。

 

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ミルドレッドのエジキとなる歯医者さん(笑)。

 

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ママと一緒に住んでいるディクソン。


見どころは、そのどこかトンチンカンなミルドレッドとディクソンの微妙な認識のズレだったり、おっちょこちょいが起こしてしまう、しかし、ソレ、ヤバくないか?の連続なのですが、コレは見てのお楽しみに。

ディクソンを役のサム・ロックウェルはホントに、無知でどうしようもない、しかし、善良な白人警官を見事に演じてました。

アカデミー賞受賞は納得です。

全く予測もできない方向に物語がドンドンと転がり、スッと終わります。

この終わり方がまたうまいですよね。

何というか、一級の短編小説を一気に読んでしまったような爽快感がありました。

それぞれの人物の行動の是非を問うとか、そういう事ではなく、まずは、どうなるの?どうなるの?とハラハラしながら見るのがよいでしょう。

本年度アカデミー賞脚本賞逃したのが不思議としか思えないほどに見事な脚本でしたけども、マーティン・マクドナーは、もともと劇作家としてイギリスで大変高い評価を受けている方であったんですね。

本年のベスト5入りは確実であろう傑作です。

 

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天才大林宣彦の凄さを世に知らしめた快作/怪作。

大林宣彦『HOUSE』

 

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映画のイメージ画。こういうキャッチーな見せ方が当時の日本映画には、ほとんど皆無の才能でした。


大林監督の商業映画としてのデビュー作。


彼の自由な感性とテクニックがここまで爆発した作品は他にはないのではないか。というくらいに自由に描かれたファンタジー。


ハッキリと書き割りとわかるようなセットが連発するリアリズムを一切廃した画面構成、自由奔走なキャメラワーク。


いい意味でチープでほとんどマンガと言ってよい絵作りは、今見ても驚異的なすごさです。

 

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登場人物の名前がファンシー、クンフー、オシャレ、ガリというのもかなり人を食ってます。まあ、食われる話なんですけど(笑)。


低予算を逆手に取ってここまで思い切ってデフォルメしきった作りにしてしてしまう大胆さは、心底驚かせられますが、それらがみま見ても全く古めかしさがないのが驚きです。

 

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昭和の高校生はこんなものでした(笑)。


夏休みに、おばの住む人里離れた丘の上にある洋館を、7人の女の子が訪れるという、古典的とも、ベタとも言えるシチュエーションで、女の子が次々と行方不明になっていく。というホラー映画なのですが、大林監督の撮るホラーは、まことにファンタジックです。

 

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ほとんど『13日の金曜日』並みのベタなシチュエーションで好き放題やってます。


動く映像を見せられないのが実に残念ですけども、彼がやりたかった映像技法のありとあらゆるものをコレでもか!というくらいにつぎ込んでおりまして、以後の大林作品にも、彼の独特の画面作りというのは(「大林マジック」としでも言いましょうか)、しばしば散見されますけども、本作ほど、ほとんど全画面にコレを駆使した例はなく、この点は見ていてついていけない人はいるかもしれませんね。

 

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女の子では、クンフーがよかったですね。クビチョンパでスンマソン(笑)。

 

私は大いに楽しみましたが。

古い洋館に住み着いている幽霊に、女の子たちが次々と食われていく。という、文章にしてしまうと、トビー・フーパーとかのグチャグチャデロデロな絵が浮かんで来そうですが、そこをキレイに見せるところが、大林監督の美点ですね。

 

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こういう、ほとんどマンガみたいな表現が満載です。

 

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大林監督の娘さんのアイディアをもとに脚本を作ったのだそうです。


池上季実子大場久美子がまだ10代の女の子なのも、要チェックなのでした(笑)。

 

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2人とも若い!

 

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南田洋子の怪演が光ります。

 

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キュピーン!

 

ローラ・パーマーの後半は一切いらないのではないか。

デイヴィッド・リンチ『Twin Peaks : Fire Walk with Me』

 

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テレビシリーズへの怒りの表明でしょうか。この後、テレビを思いっきり破壊します(笑)。


邦題は本作の内容を的確な表しているとは言い難いので、原題のままで。

コレ、公開当時に見た時は、正直、アタマを抱えてしまいました。

というのも、何か、もっと続きがある上での一部を見ている気がしてならなかったからです。

で、それは当たってまして、テレビドラマ放映から25年後に続きが放映される事となりました。

この完結編とも言える続編は、全てリンチが自ら監督し、脚本もマーク・フロストと完全に協力して全話を書き上げました。

そして、予想をはるかに上回る傑作である事に驚いてしまうのと同時に、この続編が、映画版に描かれていると事とものすごく結びついている事がわかりまして、改めて見てみると、なるほど、そういう事だったのか!とスンナリわかってくるんですね。

ローラ・パーマーの殺人事件の一年前に起こった、テレサ・バンク殺人事件の捜査から本作は始まるのですが、この捜査を行うFBIのチェット・デズモンド特別捜査官(恐らく、ジャズミュージシャンのチェット・ベイカーとポール・デズモンドの名前をくっつけたものでしょう)は、ゴードン・コールやデイル・クーパーとともに、「青いバラ事件」を追っていたのですが、彼も捜査中に失踪してしまいます。

 

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デズモンド特別捜査官。

 

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胸には、「青いバラ」が。詳しくテレビ新作をご覧下さい。

 

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コレも実はヒントです(笑)。


実は、失踪したのは、彼だけではなく、デイヴィッド・ボウイ演じる、ジェフリーズ特別捜査官も失踪していました(続編では触れられませんでしたが、ウィンダム・アールも失踪してます)。

 

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失踪していたはずのジェフリーズが突然FBI本部に現れます。彼がいう「ジュディ」はテレビ新作で最重要タームとなります。

 

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止まっている絵なので、わかりづらいですが、クーパーが画面に固まって当たり続けて、その横をジェフリーズが歩いているというシーン。コレと似たシーンは新作の第17話で出てきます。


結局、クーパーも失踪しているんで(笑)、この事件に関わる人間は、コールとダイアン、アルバート以外は全員失踪しているんですね。

 

デズモンドはテレサ・バンクス、ジェフリーズはジュディ、そして、クーパーはローラを追いかけているという事で、失踪した3人は、実は同じ構図になっています。

 

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テレサ・バンクス。


この事はこの映画版ですでに示されていて、「青いバラ」をデズモンドが捜査している事も示唆されてたんですね。

また、テレサ・バンクスが住んでいたトレーラーハウスの管理人をしていたのは、改めて見ていると、ハリー・ディーン・スタントン演じる、カール・ラッドでした。

 

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管理人のカール。リンチ作品にはチョイチョイ出てくるハリー・ディーンですが、2017年に亡くなりました。合掌。


そして、ここにあの「6」の番号のある電信柱がありましたね。

 

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続編で何度も出てくる電信柱ですが、もう出てきていました。

 

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デズモンド特別捜査官もこの電信柱が気になっています。

 

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デズモンド失踪後にクーパーが現場を訪れます。

 

ブラックロッジへの道は、電線、もしくは電気を介して繋がっている事が続編で描かれていますので、ここで仄めかしたのは、デズモンドの失踪は、やはり、ブラックロッジと関係があり、「ボブ」もまた、コレを通って移動している事がわかりますね(その近くにテレサ・バンクスが住んでいました)。こういう謎解きが、テレビでの続編を見ると、一挙にわかってくるんですね。

映画版で唐突に出てくる「コンビニエンス・ストア」は、テレビドラマ続編で何度も出てきます。

 

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映画版だと唐突な「コンビニエンス・ストア」ですが、新作ドラマだと何度も出てくる重要なシーンとなります。こういう所がリンチ/フロストの油断ならない所です。

 

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要するに、この映画版は、新作テレビシリーズを見ないと、よくわからないような作りに初めからなっていて、そりゃ、わからないわけなんです(笑)。

ただ、本作は、ローラが「ボブ」に殺害されるまでの7日間を追うという、ホントにリンチがやりたかったのかどうか疑問の展開がかなりの部分を占めているんですけども、正直、ココは面白くないと思います。

ローラの最期は、映像化するよりも、観客の想像に託したほうが良いことぐらい、リンチ/フロストがわからないとは到底思えないのですが、『ツインピークス』が『誰がローラを殺したんだ?」という所にばかり注目されてしまい、シリーズの途中で、犯人を明らかにせざるを得なかった事は、リンチ監督にとって、最も不本意だったと思われ、それを映画でもやらざるを得なかったのは、かなり辛かったでないかと思われます。

よって、リンチの演出もローラ・パーマー中心のシーンになると、俄然、気が抜けて凡庸に見えます。

ローラと友人達を演じる役者たちの力量不足も目立ち、見ていて辛いですね。

 

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あっちゃ〜、ドナ役が変わっている。コレは痛恨事であります。恐らく、ハードなシーンをやりたくなかったのでしょうね。。


ツインピークス』の中で、ジェームズやボビー、ドナと言った友人たちが語っているローラをただそのまま映像化しているだけで、特段それに意味があるように思えません。

すでに「ボブ」が何者なのかも、テレビドラマで見て知っているわけですから、オチがわかりながら見ているサスペンスなど、面白い筈がありません。

 


このように大変問題が多い作品なのですが、前半のテレサ・バンクスの事件の面白さがバツグンなので、そこだけを見て、ローラ・パーマーのお話しは一切見ない。という見方もあるでしょうね。

 


テレビドラマの新作を見た方には、前半は必見だと思います。

 

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一応、ローラの魂は救われたのだ。という終わり方です。リンチも納得してない気がしますけど。

 

 

 

 

 

宮崎駿の作品の全てがこの作品に入ってます!

高畑勲『太陽の王子 ホルスの冒険』

 

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もう「の」が多いです。

 

監督高畑勲作画監督大塚康生、場面設定宮崎駿、原画小田部羊一という、今となっては信じられないような陣容で作られた、伝説の作品。

音楽はなんと、間宮芳生

見ていると、宮崎駿が初めて演出を担当した『未来少年コナン』の原型はほぼ本作にある事がわかりますし、それは取りも直さず、宮崎駿がいかに高畑勲の演出から多くの事を学んでいた事の証左でもあります。

当時のアニメ映画は時間制限がとても厳しかったので、本作も80分程度の短い作品なのですけども、あらゆるムダを廃し、大切な骨組みだけでものすごくスピーディに展開していくストーリーが、今見てもかなりすごいものがありますね。冒頭の10分くらいで、主人公ホルスは、伝説の剣「太陽の剣」を手に入れ、お父さんが亡くなる寸前に「実は、かくかくしかじかで」と言い残して亡くなり、もう相棒のクマのコロちゃんと冒険です。

 

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巨人モーグ。『ナウシカ』の巨神兵であり、『ラピュタ』の戦闘ロボットですよね。

 

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ホルスは、モーグの肩に突き刺さった、「太陽の剣」を手に入れる。


ホントは130分くらいかけてやりたかったんでしょけども、当時のアニメーションの地位はとても低かったんですね。

この辺の旅立ちは、完全に『コナン』とおんなじですね。

 

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なんで危篤になってから大事な事を言うんだろう。

 

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おじいを埋葬して、のこされ島を去るコナンとほとんど同じです。

 

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ほぼ『コナン』です(笑)。


そして、すぐにラスボス、グルンワルドに「私の弟になれ!」と脅迫されて、これを拒んで崖から転落!

 

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ラスボスのグルンワルド。デザインに一貫性があんまりないのも本作の特徴です。

 

もう、息つく暇もないほど、展開が早いのなんのって(広川太一郎調に)。

宮崎駿の「場面設定」という役職がとても不思議ですけども、それは見ているとよくわかります。

グルンワルドの手下の狼がホルスに襲いかかるシーンの見事さ。

 

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ホントに殺気がありますねえ。

 

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村人がお祭りで楽しんでいるのに、村長になにやら吹き込むシーンを挿入するうまさ。


村人たちが、大漁を祝う祭りのシーンなどなど、群衆シーンのキャラクターが恐ろしく生き生きと動いているのは、明らかに宮崎駿が設定しているものと思われます。


そして、その動きを大塚康生がつけているわけですから、当代最高水準のアニメーションが展開しているんですね。

そして、その村を一挙に襲撃に来る、オオカミたち!

 

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神様のように無類に強い。ほとんど内面がないキャラです。

 

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残念!これが止め絵なのです!!宮崎、大塚両氏は盛大に動かしたかった事でしょう!

 

恐らく、宮崎駿はこの戦闘シーンを、それこそ、『七人の侍』のように動かしたかったんでしょうけども、当時のスタッフの水準ではフルアニメーションで動かす事はできず、止め絵で表現してますが、それでも、凄絶さが充分伝わって来るのは、やはり、宮崎駿の並外れた力量を思わずにはいられません。

基本的なお話の構造は、『バーフバリ』なのですが、高畑監督は流石にもう一捻りしています。

それが、ヒルダという少女の造形なんですね。

 

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高畑組は、こういう無類にかわいいキャラを作る能力がずば抜けてました。


彼女も、ホルスと同じように、グルンワルドによって村を滅ぼされてしまったんですが、その能力を買われて、妹として生かされているんです。

そんな彼女が、ホルスたちのいる村にいるのですが、なかなか村人の中に溶け込む事が出来ないんですね。

 

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ナウシカなのかクシャナなのかわからないキャラクター、ヒルダ。

 

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ヒルダはグルンワルドの命令に従って、村人とホルスの分断工作を行う。


村の様子を探るためのスパイのような役割をしてはいるのですが、グルンワルドの事実上の手下てしても、あんまりうまく機能しないんです。

ホルスたちの楽しい様子を見て、葛藤しているんですね。

これは、後に、『コナン』に出てくるモンスリーや『風の谷のナウシカ』のクシャナなどに引き継がれていくキャラクターの原型と見てよいでしょう。

あるいは、そのとんでもない力の秘密を握っている、ラナやナウシカの葛藤にも似ていて、その後の宮崎作品の少女キャラの原液みたいな存在ですね、ヒルダというのは。

そういう意味ではあまりにもいろんな意味づけを彼女にして与えてしまっているので、なんだかわからないキャラクターになってしまっているのもまた事実です。

その後の高畑/宮崎、もしくは、宮崎/大塚作品では、ラナとモンスリークラリス峰不二子ナウシカクシャナみたいに整理して提示するようになってますね。

主人公のホルスは、そんなに面白くない、ある意味、典型的なヒーローであり、『ニーベルングの指環』の無敵の戦士(なのに、劇中では死んでしまうのですが・笑)、ジークフリートですから、かなり記号的な存在ですね。

内面の葛藤などなく、ラスボスのグルンワルドを倒すためにのみ、行動し続けます。

これを修正したのが、コナンです。

あと、この作品を見ていてつくづく思ったのが、1968年という時代ですよね。

群衆シーンの描写(恐らくは、宮崎駿が考えているものと思います)を見ていると、一番思い出すのが、エイゼンシュテインですよね。

 

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一時期は神の如く崇められていた、悲劇の天才エイゼンシュテイン

 

ソ連の映画監督で、生前は満足できる作品をほとんど撮ることができないまま若くして亡くなった人なんですけども、その群衆シーンを撮らせたら、とにかく天下一品な人であり、宮崎駿高畑勲とともに相当にゴリゴリな左翼でしたから、エイゼンシュテインは神様だったと思われ、それをストレートに表現してますよね。

 

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こういう群衆スペクタクルを撮る才能がズバ抜けていたので、ソ連では、プロバガンダばかり作らされていたんですね。。そして、戦後の若者は、エイゼンシュテインにカンドーしたわけです。


明らかに労働万歳!的な表現が散見されます。

革命とかそういう事がホントに信じられていた時代であり、妙に生々しいです。そういうものへの失望感が、高畑、宮崎両氏の後の作品には色濃く滲み出ている点は見逃せません。

今見ると、稚拙でストレートに過ぎるところもありますが、宮崎駿作品の原型のほとんどが本作にある事がわかる、大変重要な作品です。

ちなみに、高畑監督の「呪い」ですが、本作もご多分に漏れず、興行的には振るわず、当時の評価は大変低かったのでした。

 

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ラスボスの襲撃!

 

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モーグは最後に大活躍です。東映的です。

 

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おしまい。は、もう本作からやってます。

 

 

 

 

 

 

 

 

普通に面白かった。

デレク・ジャーマンヴィトゲンシュタイン

 

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20世紀最大の哲学書の1つであろう、『論理哲学論考』を著した哲学者、ルードウィヒ・ヴィトゲンシュタインの生涯を描いた作品。

 

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実際のヴィトゲンシュタインオーストリア帝国の大富豪の生まれで、西部劇やミュージカルを見るのが趣味でした。


脚本にテリー・イーグルトンがジャーマンと共にクレジットされているのに驚きますが、過激な作風で知られるデレク・ジャーマンとしては、意外なほど真っ当な伝記映画なので、彼の作品の入門編としてもいいかもしれませんね。

生前のヴィトゲンシュタインを知っている人のいろんな証言がありますけども、どう割り引いてもかなりの奇人変人だったようで、やっぱり天才というのは、なんとかと紙一重ではあります。

この作品はものすごく低予算で作られているんですけども、それは極端なほどに簡便なセットと限られたキャスティングのみで映画が構成されている事に由来します。

 

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ほとんど北野ファン倶楽部並みの簡素なセットです(笑)。

 

背景は基本的に黒で、そこにイスやテーブル、ベットなどの最低限の小道具が置かれているだけで場面ができていて、時には、時代考証を無視した電話機が出てきたり(1920年代頃なのに、プッシュホンを使っています)、ちょっとしたイタズラもあります。

 

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経済学者のケインズヴィトゲンシュタインケンブリッジ大学で働けるように尽力しました。


また、登場人物は、バートランド・ラッセルケインズ、そして、その助手でケインズの愛人であるジョニー、ケインズの奥さんのリディア・ロポコワ、そして、ヴィトゲンシュタインの姉と兄くらいしか出てきません。

 

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左がバートランド・ラッセル衣装デザインが素晴らしいですね。


ヴィトゲンシュタインは、20世紀最大の哲学者の1人として、有名ですが、いわゆる哲学書の類いはほとんど読んだ事がなく、アリストテレスヘーゲルといった著作は一切読んだことがないらしい(笑)。

 

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ケン・ラッセルの影響を感じますよね。


ハイデガーとは真逆の態度で哲学していた人で、ハイデガーは、シャレにならないほど膨大な著作を遺しましたが(とても長生きで、第二次大戦後は、一切公職に就かず、ほとんど隠遁して著作に専念してました)、ヴィトゲンシュタインは、生涯に発表した哲学の著作は、ケンブリッジ大での博士号取得の契機となった、『論理哲学論考』と、教師時代に作った、ドイツ語習得のための単語帳だけです。

 

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一応航空工学の実験です(笑)。この研究が実は後にヘリコプターの開発に役に立ってるそうです。

 

ヴィトゲンシュタインの著作のほとんどは死後に発表された遺稿でして、晩年に『哲学探究』という著作に取り組んでいたのですが、完成せずに亡くなってしまいます。


本作は、そういう過程を、非常にうまく省略してコンパクトにまとめた好編でして、途中に挿入される、いわゆる、前期ヴィトゲンシュタインと後期ヴィトゲンシュタインの思想の展開の違いを、とてもわかりやすく伝えているのが、とても好感が持てました。

 

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犬はウソをつく事はできない。


さすが、テリー・イーグルトンですね。また、そのヴィトゲンシュタインのユニークな哲学を形成する過程を、ヴィトゲンシュタインと彼の妄想であろう、火星人の「Mr.グリーン」との対話によって作られているのが面白かったですね。

 

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Mr.グリーンと子供時代のヴィトゲンシュタインの対話。


サン・ラやジミヘン、ユングのように、天才というのは、宇宙に向かうしかないのだと(笑)。

ちなみに、筒井康隆岩波書店から発表した小説『文学部只野教授』のプロットは、テリー・イーグルトンの『文学とは何か』を用いている事は有名です(大変面白い小説です)。

 

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デレク・ジャーマンは決してとっつきやすい作品を撮っている人とは言い難いですが、本作は上映時間たったの75分というものあり、展開もサクサクしていて、見ていて面白かったです。おススメです。

 

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芸能界はいつの世もキレイゴトでは済みません。

ジョセフ・L・マンキヴィッツイヴの総て

 

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なぜイヴは若くして権威ある賞を受賞するに至ったのか?

 

タイトルは知ってるけども、見た事がない。という映画の代表格と言ってよいでしょう(笑)。

1950年度のアカデミー賞を6部門を受賞した名作。というだけで見た気になってしまうんですね。

夏目漱石を読んだ事がない。みたいな事に似ているのでしょう。

しかし、面白いものは面白いのでありまして、別に昔の作品だから見ないというのは誠に勿体ない。

内容は演劇界のキタナイ舞台裏。という辛辣な内容で、冒頭のナレーションでアカデミー賞ディスすらしているという、なかなか尖った作品です。

演劇界の話なので、全体として、ハリウッド及び、西海岸を文化的に低く見ていますし。

現在だったら炎上してるんでしょうか。

本作のヒールとして見事な演技を見せるのは、ベティ・デイヴィスです。

 

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ベティ・デイヴィスの名演が光ります。

 

1930年代の彼女の全盛期はもう私にはわかりませんが、『何がジェーンに起こったのか?』という、ロバート・アルドリッチが撮ったサイコ・サスペンス映画で初めてデイヴィスを見たんですけども、とにかく、怪物のようにコワい役で、痛快な映画ばかり撮っていたアルドリッチがこんなエゲツないほどにコワい映画撮っていた事にも驚きましたが、ベティ・デイヴィスという女優は、私には、このコワいおばちゃんでした(実際、当時の人たちもかつてのデイヴィスとはあまりにもかけ離れた役で、かなり唖然としたらしいです・笑)。

 

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こんなコワいメイクでサイコキャラをやってました(笑)!

 

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若い頃はこんななのに!

 

それにしても、1950年というのは、アカデミー賞としても面白い年でして、作品賞にノミネートされた作品に、ビリー・ワイルダーの名作『サンセット大通り』があります。

こちらは、すでに世の中からスッカリ忘れされたサイレント期の女優のお話しであり、しかも、それを演じるのは、実際のサイレント期の大女優であったらグロリア・スワンソンであり、彼の執事を務めるのは、コレまたサイレント期の偉大な監督である、エーリヒ・フォン・シュトロハイムです。

 

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『サンセット大通り』のグロリア・スワンソン。圧倒的な演技でしたねえ。

 

監督であるワイルダーはもとも脚本家上がりで、そこもマンキヴィッツ監督とキャリアが似ています。

『サンセット大通り』の主人公は、しがない脚本家のウィリアム・ホールデンであり、彼からみた、往年の女優の狂気が描かれますが、本作はデイヴィス演じる、マーゴ・チャニングであり、このベテラン女優からみた、イヴという演劇女優志望の女の子への黒い黒い嫉妬が描かれています。

 

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スワンソンとデイヴィスという大女優を起用している事、一方は演劇界、もう一方はハリウッドですが、この作品はちょうど視点が正反対なんですね。

このような好対照な作品が同じ年に公開され、共にアカデミー賞にノミネートされ、結果としては本作が作品賞にはなりますが、共にアメリカ映画史上に残る名作というのは、とても面白いですね。

個人の好みとしては、ワイルダーのシニカルで残酷な視点をより高く評価しますけども、本作のベティ・デイヴィスのうまさ、いやらしさはやはり、すでに主演女優賞を二度も受賞している実力は、生半可なものではありません。

デイヴィスの演技は、4度目の主演女優賞か?と思われましたけども、イヴ役のアン・バクスターもノミネートされてしまったので、票が割れてしまい、受賞できませんでした。

本作と『サンセット大通り』に共通するのは、「老いる恐怖」です。

『サンセット大通り』のスワンソンは、最後は脚本家のホールデンを射殺した後に発狂して、サイレント時代のような大仰な演技を見せて終わりますけども、本作は現役の舞台女優である、デイヴィスが「40歳の大台に乗った」事への恐怖、それがそのまま若いイヴへの嫉妬へとつながっていますね。

『サンセット大通り』は、文字通りのシチュエーションや脚本の巧みさなんですけども、本作は現実のデイヴィスの置かれた状況そのもの。という、生々しいリアルを持ち込んでいるわけですね。

また、ともに客観的には全体を見ている立場の人がおりまして、『サンセット』だと、ウィリアム・ホールデンになります。

彼は冒頭でプールに浮かんで死んでおりまして、「なぜ、私がこんな風に死ななきゃならなかったかについて話しますね」という、なんともシニカルな始まり方なのですが、本作では、ズバリ、演劇評論家である、デウィット役のジョージ・サンダースが、「なぜ、イヴが、演劇界を代表するような権威ある賞を若くして受賞したのか?を見てみましょう」という、視点で描かれています。

 

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デウィットは、イヴにダイヤモンドの原石を見る。

 

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初めはマーゴの熱狂的なファンであったが、その実は。

要するに、冒頭で両方ともオチがわかった状態から始まるところまでおんなじなんですよ。

コレは、どちらかが内容をスパイして制作したんではないのか?と勘ぐりたくもなりますが、どうなんでしょうね。

それはさておき、ホールデンは、狂言回しとして、パッとしない役を演じる事でスワンソンの狂気を引き立てているんですけども、評論家を演じるサンダースは、そんなに出番があるわけではないんですけども、要所要所で冷徹な分析をしていて、あたかも、死神のように、デイヴィスの事を見つめているんですね。

恐らく、かつて、この評論家デウィットは、才能ある女優として、マーゴの事を見出し、大絶賛したんだと思います。

しかし、それがやがてマンネリ化し、最近は力量が落ちているのでは?と思い始めている矢先に、イヴ。というダイヤの原石を見つけた事に喜びを覚えるのと同時に、王座が入れ替わる瞬間を見たいとという残酷な欲望が生まれているんですね。

そういう、見る側の残酷な眼差しをマンキヴィッツは、評論家のデウィットという存在に象徴されて描いているところが、実は、最も秀逸です。

 

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よーく見ると、マリリン・モンローが出演してるんですよ。初々しい!

 

1950年のアカデミー賞脚本賞ワイルダーで、監督賞がマンキヴィッツというのは、納得のいく評論だと思いますし、サンダースが助演男優賞というのも、まさに正当な評価ですね。

そして、そのサンダースとともに、後半になると本性を現し始めるバクスターがコワいんですね。

そこまでの道のりが、今見るとやや冗長ですが、アン・バクスターも主演女優賞にノミネートされたのがわかる、ギラギラとしたコワさがあります。

ともかくも、『サンセット大通り』とコンビで見たい作品です。

 

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