1970年代のソウルミュージックを映像にしたような見事な作品!

バリー・ジェンキンス『ビール・ストリートの恋人たち』

 

 

ウィリアム・ボールドウィン(先ごろ、彼にちなんだドキュメンタリー、『私は二グロではない』が公開されました)の小説、『もしビール・ストリートが話す事ができたなら』の映画化。


前作『ムーンライト』は大変素晴らしかったので、今回はどうであろうか?と心配でしたけども、それは杞憂でしたね。


それどころか、前作をはるかに上回るクオリティの作品でした。


1970年代のニューヨークのアフリカ系アメリカ人の若い男女、ファニーとティシュのお話しです。

 

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ファニーとティシュ。若い黒人の男女が体験する人種差別がメインテーマです。

 


1970年代のニューヨークを舞台にした映画というと、『狼たちの午後』や『セルピコ』のシドニー・ルメットの作品や、マーティン・スコシージ『タクシードライバー』や、変わり種ではチャールズ・ブロンソン主演で、その後シリーズ化された『狼よさらば』などが思い浮かびますけども、一貫しているのは、その治安の悪さ、ニューヨーク市警の腐敗ぶりの凄さが描かれている事ですね。


本作は、それをアフリカ系の立場から、描いていおり、かつ、これまでにあげた作品にはない、味わいをもつ、秀逸な作品です。


見ていてホントに素晴らしいと思ったのは、その画面から滲み出てくる品の良さですね。


それはカラフルなのに落ち着いた画面作り、そして、音楽の使い方のセンスの良さに端的に表れています。


ネタバレさせても面白さにキズがつく事はないので、書いてしまいますが、本作が描くのは、主人公の冤罪から見えてくる、アメリカ社会にある、黒人差別の現実です。

 

プエルトリコ系の女性をレイプしたという容疑で逮捕されてしまうファニーとその恋人のティシュのが、如何にして冤罪に巻き込まれ、そして、それが悪辣で陰湿な警察や検察による仕業である事が明らかにされていきます。


しかも、ティシュはファニーとの間の子供を宿してしまいました。

 

こう書いてしまうと、野村芳太郎の苦い後味タップリな一連の松本清張原作の映画のようですが、この監督の真骨頂はそこにあるのではなくて、その語り口というか見せ方に、品の良さを感じるんですね。


それは、あたかも、1970年代に次々と出てきたアフリカ系のシンガー&ソングライターの人々の、品の良さを感じる、新しいブラックネスととてもよく似通っていているんです。

 

それは、マーヴィン・ゲイカーティス・メイフィールド、スティーヴィ・ワンダーのような60年代から活躍しつつ、70年代になって、シングルヒットチャートを狙うのではなく、アルバム1枚で、自分たちの描きたい音楽にシフトしていくのに呼応するように、ロバータ・フラックやドニー・ハサウェイのような、ロックやジャズなどの周辺の音楽を巧みに取り込んだ、しなやかな黒人音楽が出現した時のようなテイストなんです。

 

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ティシュは、デパートで香水の販売員をしています。


警察にハメられるような形で服役せざるを得なくなる、ファニーの親友ダニエルの「地獄の底のような経験だ」とすら言わしめる刑務所での体験を映像では一切見せず、マイルス・デイヴィスの名演「Blue in Green」をゆっくりとドローン化させ、音響として思いっきり歪ませていく事でそれを表現したり(ダニエルの表情もハッキリと写しません)、主人公ファニーの刑務所のシーンは、ティシュとの面会シーンに絞り込むなど、苦しさや厳しさを敢えて写さずに仄めかすように描くところに真骨頂があります。

 

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回想と現在を巧みに行き来しつつ、黒人がアメリカで生活する事の難しさを浮き彫りにしていきます。

 


それは、アフリカ系アメリカの厳し現実を覆い隠したいのではなく、見せなくても滲み出てしまう、時には溢れ出してしまうものなのだ。つまり、どんなに隠しても見えてしまうものなのだ。という事なのだと私は感じました。


そして、その溢れ出るものを感じることができなかったり、見えてないというのは、余りにも鈍感すぎやしませんかな?という、事が言下にあると思います。


その静かな怒りと言うのでしょうか、そう言うものが、全編に言いしれぬ緊迫感を与えています。


ですので、本作の語り口は一見、ソフトに見えますけども、その本質はとてもハードコアであり、それは、原作者である、ジェイムズ・ボールドウィンの小説に一貫して流れているものと一致するのだと思います。

 


『私は二グロではない』での、ボールドウィンは、常に言葉を慎重に選び、しかし、適切にアメリカ社会に蔓延する黒人差別の実態を明らかにしていますが、こういう「静かな怒り」を言葉ではなく、映像や音で語らせるジェンキンス監督の演出は実に素晴らしかったです。

 

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ジェイムズ・ボールドウィン


本作は1970年代のニューヨークを描いてはいるのですが、残念な事に、人種差別は現在の警察の中に存在している事にこの問題の困難さ、根深さを思わざるを得ません。

 


見た後の余韻、それは鈍い痛みを伴うかもしれませんが、それは避けて通る事は出来ない事を、昨今の日本社会を見ていると尚更痛感せざるを得ないのでした。

 

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1970年代の黒人ファッションの素晴らしさにも注目です。