マイケルもジャッキーもココから学んだんですね。

ジーン・ケリー

スタンリー・ドーネン

                     『雨に唄えば』   

 

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これぞ、「見た気になっている映画」の筆頭かもしれません。

舞台がサイレント映画末期のハリウッドである事すらよく知られてないかも。

主人公を演じるジーン・ケリーは旅芸人から、大スターにまで上りつめた、いわば、アメリカン・ドリームを体現した男です。

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 とにかく、歌いまくり、踊りまくるケリーですが、今見ても唖然とするほどうまい。

圧倒的です。

共演のドン・オコナー、デビー・レイノルズも見事。

 

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3人が意気投合するシーン。

 

劇中でのケリー主演の映画の剣劇シーンにおけるカラダのキレはホンマもの。

スタントなど要りませんね。

さて、とうとうトーキーの時代がやってきました。

実は、この時代をうまく乗り越えられなかった監督や俳優は結構多いんです。

日本でも阪東妻三郎がかなり低迷したんですが、原因は声でした。

バンツマの地声は甲高かったんですね。

役のイメージとのギャップがかなりあったんです。

コレを無理矢理ドラ声に変えたら人気が回復したんですけども、ケリーの相方の女優も、ルックスは申し分ないのですけども、声がバカっぽいというか(笑)、残念なヴォイスで更にバカっぽくしゃべるという人で。

この役者がしゃべらなくてはならない。という状況は、演技の仕方や演出の仕方など、要するに映画全体に及ぶ大変化なので、サイレント期からキャリアを始めた監督や役者は、スランプになったり、引退してしまう人がいたんですね。

これは、カラー撮影になった事や、70mm画面になった事、デジタル撮影、コンピュータによるポストプロダクションよりも劇的であったと言えます。

これらは、ある意味、採用しなければいい。とは言えます。

カラー撮影はもう基本なので、さすがにもう無視できませんが(黒澤やフェリーニ、ウェルズはなかなかカラーにしませんでした)。

相方のしゃべりにモンダイがある。コレは致命的ですよね。

時代の変化に対応できない。

こんな話だった。ってみなさん知ってました?

あのケリーがどしゃ降りの中で踊っているクラシック映画としか思ってなかったのでは?

トーキーなのだから、歌と踊りをふんだんに入れたら面白い!という、なんともアメリカ的で大らかな発想が、MGMという映画会社に空前の繁栄をもたらしましたが、フレッド・アステアと並ぶMGMの大スターであったジーン・ケリーが、トーキーへの転換期を描き、トーキーの素晴らしさ、カラー撮影の素晴らしさを満天下に知らしめるという、この発想の素晴らしさ。

実際、画面から溢れんばかりの多幸感は、今のハリウッド映画からは失われた世界ですね。

撮影所の中を、長年の相方である伴奏者(撮影する横でピアノを演奏して、役者をいい気分にする仕事なんです。こんな仕事があったんですね)と歩くシーンがいいですよ。

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オコナーの素晴らしいシーン

 

多分、1920年代の終わり頃ってこんな風に映画を撮影してたんですね。

大恐慌前の空前の好景気だったアメリカを懐かしんでいる。という側面も見逃せませんね(「私はカルヴィン・クーリッジよりも稼いでいる!」というセリフが出てきます)。

あと、この作品の振り付けはケリーが全部やっていると思うんですが、アステアと違うのは、アステアはとにかくエレガントでエレガントでもうトコトン洗練された美を追求しているんですけども、ケリーはコミカルでパワフルですね。

顔の表情まで振り付けているんです。

このケリーの振り付けに現在の作家で一番影響受けてるのは、間違いなくジャッキー・チェンです。

ジャッキーは、バスター・キートンの後継者でもありますが、あの顔の面白さと、ベタだけど笑っちゃうセンスは、本作や『パリのアメリカ人』なんかをよく研究していたんじゃないでしょうか。

話が横道にそれましたが、ここから急に史実が入ってきます。

アル・ジョルスンという、顔を黒く塗って黒人に扮装して歌っていたユダヤ系の歌手がいたのですが、彼を主演とした『ジャズ・シンガー』が大ヒットしました。

トーキー第1作です。

ケリーが撮影していた、フランス革命ロマンス(そんなのにばかり主演をしてます)も、トーキー撮影に急遽変更せざるを得なくなりました。

しかし、トーキーでは、共演の女優のあのバカっぽいしゃべりが致命的!!

さあ、どうなるんだ、どうなるんだ。というところまでにしておきましょうか。

ここからがホントに面白いですよ。

 

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この売れない女優さんとの出会いが決定的な事に

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そのキャシーのお仕事。いわゆる営業ですね。

 

「トーキー旋風」を見せるシークエンスがもう今見るとサイケでキッチュで可愛いんですよ!

合成なんかもやっちゃって。

あの『あまちゃん』の重要な伏線の元ネタもココでやってたんですね。

なかなかあのどしゃ降りのシーンが、ここまででは結びつきませんが、そこが見どころなのです!

あの伝説のシーンについては何も言いませんが、アレを現代的に捉え直して大スターになったのは、マイケル・ジャクスンあるという事は言っておきましょう。

ちなみにいうと、アレはラストシーンではありません。

50年代のエンターテイメントが大好きなのでしょう。

80年代を代表する映画と音楽の大スターが、この映画の影響を受けているというのは、恐らくは偶然ではないのでしょう。

私、ミュージカル映画って、どうも苦手でほとんど見てませんが、そういうものを超えたすごさが本作にはあります。

古典がもつ圧倒的な強度です。

映画館でデジタルリマスター版が上映されたら、絶対に観に行きますよ。

この頃のハリウッドは、どう割り引いて見ても黄金期と言わざるを得ませんね。

 

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実はラストシーンではないという事実!

 

デビー・レイノルズが2016年にお亡くなりになりした。合掌。

 

オカマちゃんの三人がうまいこと!

ペドロ・アルモドバル

『アイム・ソー・エキサイテッド』

 

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2000年代以降、に最も打率と打点の高い監督は誰かと言われたら、恐らくは、ペドロ・アルモドバルの名前はほぼ確実に出てくるでしょうね。

とにかく、どこかエキセントリックで独特の語り口を持つアルモドバルのこの所の作品は全部で面白く、どれもオススメです。

本作もまた全然趣向が変わっていて、なんと、旅客機の中。

ゲイの客室乗務員がなぜか三人もいるのですが、その内の1人(アル中です)が機長の所に食事を運んでいると、何やら飛行機にモンダイがあるかのような事を仄めかしていてるのですが、そこに女性の乗客が入り込んできます。

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彼女が言うには、「私は未来の運命を見抜く能力がある」とかなんとか言い始めるのです。

機長たちは、「まさか、飛行機の異状を見抜いているのでは?でもどこまで?」と不安を覚えるんですね。

この飛行機は、メキシコまでの便なのですが、彼女は何をしに行くのかというと、その「能力」を使って行方不明になった家族を探しに行く仕事なのだと。

そうこうしていると、クレーマーが部屋に入ってきたり、飛行機の操縦経験がある人が故障に気づいて操縦席にやってきたりと、もう騒々しいのなんの(笑)。

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で、話しが冒頭に戻るのですが、一見、なんの関係もないような出来事が描かれている割には、役者が妙にすごいので、一体なんなのか?と思っていたのですが、コレがこの便の飛行機の故障の原因でした。

飛行機の整備士がアントニオ・バンデラス(笑)。

そして、乗客の荷物を飛行機に運ぶ係がペネローペ・クルズ(笑)。

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ペネローペの運転する車がスマホをいじってる職員を避けようとしたら荷物が飛び出し、職員に一斉に降り注ぎました。

大したケガにはなりませんでしたが、この事とペネローペが妊娠したことを突然知った事に気をとられたバンデラスのミスで着陸時に車輪が出なくなりました(笑)。

という事がわかるんですね、途中で。

アレが原因だったのかと(笑)。

そこから機内、及び、その外側で起こる様々なてんやわんや(死語)が面白いので一切書きません。

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アドモドバル作品に一貫する色使いの独特な華やかさ、アルベルト・イグレシアスのサントラの素晴らしさは今回もやはり健在で、日本映画にいつも欠けているのは、こういう技術的な側面だなあ。と思います。

とにかく、人間関係の機微の悲喜こもごもを描かせたら、現在右に出るものはないというくらいうまいですね。

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ゲイの描き方がホントにうまいですよね。

アドモドバルの人間造形はどこかコミカルですが、どこかそれでいて荒唐無稽に見えないところが、彼の並外れたところです。

彼にしては珍しく、主人公が特にいない群像劇ですが、90分にキチッとまとめていて、とても面白かったですね。

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見たことないユニークない映画!

イェジー・スコリモフスキ『シャウト』

 

 

なんとも不思議な雰囲気の映画ですね。

おお、『ロッキーホラーショウ』の主人公だった、ティム・カリーが出てます。

ショットの積み重ねが誰とも似てない。

どこか不穏です。

クリケットの試合から始まる映画なのですが、状況説明がない。

淡々と出来事が進み、二人の男性がそれを見ている視点で描いてますが、一切状況とは関係のないことを話してます。

この、ポーンと見ている側を置き去りにしながら、「コレは一体なんだろう?」と惹きつけるところがとても上手いですね。

1人がクリケットのスコアラー1人が「私が見た不思議な話し」を語るというところからようやく話しは動き始めますが、それがオープニングのクレジットと繋がります。

ジョン・ハート演じる、アンソニーというかなりアヴァンギャルドな作曲家は、いろんな物音を使って曲を書いているのですが、このシーンが面白く、音響効果が存分に使われています。

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アンソニーは、教会でオルガンを弾くアルバイトをしているのですが、ここで出会ったチャールズ・クロスリーという得体の知れない男と出会います。

ある日、この男がアンソニーの家の前で行き倒れていて(?)、彼を昼食に招待します。

このクロスリーという男が言うには、18年もアボリジニの社会で生活していて、アボリジニと結婚もし、子供も設けたのだそうです。

しかし、全員死んだと。

また、アボリジニの呪術師から秘術を体得して、それで人を殺す事も出来るようになったのだと。

普通に考えて、彼は完全に狂人ですが(笑)、アンソニーは音楽家として、彼の秘術、すなわち、叫び声で人を殺す事ができるという、その声に興味が出てきました。

どれくらいすごいのか。というのを、恐らくは5倍は超えるものが、実際に繰り広げられます。

耳栓してるのに、アンソニーは砂丘を転げ落ちます。

周りにいた羊は死んでしまいました。

よく見ると、誰か死んでます。知らんけど(後で誰だかわかりますが)。

たしかに、アレは死にます(笑)!!!

なぜか藤子不二雄作品のように居候状態になるクロスリーは、完全にこの作曲家夫婦の家に馴染んでいるのがすごいですね。

いつの間にか、アンソニーの嫁とお茶をしているクロスリー

人妻にグイグイ食い込んでいく、エロドラえもんです(笑)。

嫁は、なんと、ダンナに「お使いに行ってきてよ」なんてな事まで言い始める始末ですよ。

なんも言えねえ男の悲哀が見事なジョン・ハートです。

かれがお使いにいったらどうなるのかはもうヤボなので言いませんが。

そして、スナフキンのように、クロスリーは出て行ってしまいます。

でも、出て行ってるわけですから、クロスリーはその後を見てるはずがないのに、あたかもクロスリーが見てるかのように話しが進んでいるのがおかしいですね。

この話、どう見ても、アンソニーの視点で進んでいるように見えるんですよ。

と思ったら、またクロスリーが戻ってきて更に態度が横柄になり。

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しかし、ココでよく考えてみると、この奇妙な話をティム・カリーにしているのは、クロスリーなんですよね。

全部ウソかもしれないわけですよね。

しかも、話している場所はどこでしょうか。

精神病院です。

そこで、アンソニークリケットをしています。

アンソニーは患者という事でしょうか。

そうすると、クロスリーも患者ですよね。

一体どういう事だかわからなくなってきましたね。

ラストは全くオチを示さないまま終わってしまいます。強烈です。

アラン・ベイツの怪演ぶりは素晴らしく、『まぼろしの市街戦』とならぶ、彼の代表作と言っていいのではないでしょうか。

とにかく、類例がない映画です。

 

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 とにかくすさまじい「シャウト」です!

 

コレは怖い。

ジョーゼフ・ロウジー

『召使』

 
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ダーク・ボガードとロウジーのコンビ作品は結構ありますね。
 
コレもその1つです。
 
ダーク・ボガードは何度もハリウッドからお呼びがかかっていたらしいですが、結局、一度もハリウッド映画には出てません。
 
でも、ハリウッドを赤狩りで追放されたロウジーとは何度も仕事してるので、思うところがあったのでしょうね。
 
冒頭にアルトサックスのワンホーン・カルテットの演奏が出てきますが、これは、映画の音楽を担当しているジョン・ダンスワースのカルテットでしょうね。
 
ダンスワースはジャズメンながらも、映画音楽でも成功した人です。
 
ジャズメンなので、サントラは全編にわたってサックスが大活躍で、ほとんどジャズなのですが、映画の音がモノラルなので、合ってますね。
 
奥さんのクレオ・レーンは歌手でして、本作では主題歌を歌っていますがコレがまたイイですよ。
 
ボガードはタイトル通りの召使いを職業にしている人で、トニーという貴族の召使いとして新たに雇われるところから始まります。
 
新居に越してきて、召使いが必要になったからなのですが、この貴族には婚約者のスーザンがおります。
 
たった1人しか雇われてないので、当然ですが全部ボガードがやるのですが(ロンドンの高級住宅みたいなものなので)、そのボガードを婚約者はどうも好きになれないんですね。
 
そんなところに妹のベーラがやってきます。
 
アーッ、『時計じかけのオレンジ』のアレックスに半殺しにされた、あの作家がチョコっと出演してます(笑)!
 
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左がフランクですね。
 
後に政府に「適切に処置」されてしまう、フランクさん(実際はカトリックの神父役ですが・笑)と貴族と婚約者などがレストランにいるシーンとボガードが妹のベーラと駅で出会うシーンが交錯する場面がカメラと編集、音声のうまさを見ますね。
 
とりわけ、レストランのシーン。
 
フランクさん、女性2人はストーリーと全く関係ないのにロージーはパッとショットを入れて、何ということのない会話を入れる。
 
そのリズムですよね。
 
これぞ映画独特の表現だと思います。
 
やっぱり映画は白黒でモノラルでなくては。
 
で、貴族に雇われる事になった妹のベラ、なんと、サラ・マイルズですね。
 
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『ライアンの娘』のロージー役です。
 
しかし、ここからなんだかおかしくなってくるんですね。
 
ボガードとマイルズは貴族が出かけると、突然、勝手し放題を始める。
 
ボガードがなんだかおかしいのは、マイルズに公衆電話から電話した時から少しずつ出てますね。
 
女性たちが「早く電話を切ってよ!」とせがんでいると、「どけこのサノバビッチ!!」みたいなかなりひどい事を言うんですね。
 
なんだか怖いですね。
 
故郷のマンチェスターの母が病気だと言うんで兄のボガードは帰省するのですが、なぜか、マイルズだけ家にいるんですね。
 
貴族さん、だんだん調子が狂ってきますね。
 
このジワジワと何だか変だなあ。を伝える感じ、見事な演出ですね。
 
素っ頓狂な顔をしているサラ・マイルズがうまいですねえ。
 
なんと、貴族さんと関係を結んでしまう。
 
かなりめちゃくちゃでございます。
 
なんとなく、『ブレードランナー』のダリル・ハナが、タイレル社の技術者の家にうまいこと居候していくの件を思い出します。
 
婚約者のボガードへのドSな扱いぶりが見事で、コレを受けるボガードのドMぶりも素晴らしい。
 
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ボガード、マイルズの、貴族が不在時の狼藉は、ますますエスカレートしていくのですが、コレがある日、とうとう貴族さんにバレてしまいます。
 
と、ココまでにしときましょう。
 
ココから先は実際にご覧ください。
 
とにかく容赦ない描き方に、よく上映できたなあという内容です。
 
ロウジーは、アメリカを飛び出してからややしばらく低迷しましたが、脚本家のハロルド・ピンター(2005年にノーベル文学賞を受賞してます)と組んでからはまさに絶好調と言ってよく、主演にダーク・ボガードを起用して素晴らしい作品を作りました。
 
結局、ロウジーはハリウッド時代よりも、このイギリスで一番いい仕事ができてしまったという事になりますね。不思議なものです。
 
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邦題に騙された人少なくないかも。

ホン・サンス

『アバンチュールはパリで』

 
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邦題は内容を示しているようないないような。
 
いつものオープニングになぜかベートーヴェン交響曲第七番の第2楽章!
 
しかも、ちゃんとフルオケ!
 
ザルドスなのかな?と思ったんですが、ゴダールの『ドイツ零年』で使ってるのか(笑)!
 
でも、キューブリックや黒澤みたいな面白さはないし、デイヴィッド・リンチみたいに「ホラ、こんなにドロドロなモノが隠れているんですよ」みたいなテクストのモノ読み替えができているわけでもない。
 
相変わらず、小津っぽい(笑)。
 
大麻を使ったのがバレたソンナムがパリにトンズラしました。
 
その慌ただしさをソンナムの後頭部の寝グセと無謀なまでの軽装が物語っております。
 
なんと本作はフランスでオールロケです。
 
多分ですが、彼の作品で最も制作費がかかっているのではないでしょうか。
 
話は、2007年の8月8日に始まり、10月までの(最後はハッキリとしません)お話しです。
 
韓国の男性は喫煙派が多いのか、ホンの作品の男性はまずタバコ吸ってますが、「フィリップ・モリス5.20ユーロ」って、ものすごく高い!
 
日本でもタバコがずいぶん高くなりましたが(私が子供の頃は180円くらいで消費税はありませんでし、お父さんのお使いで買いに行っても誰も怪しむ人はありませんでした)、フランスは更に高いんですなあ。
 
ソンナムは、韓国人と10人相部屋をして、要するに民泊をしてるんですが、もう、韓国の人々がヨーロッパに行くのは、結構普通なんですね。
 
日本ではホテルの部屋になぜか聖書がありますけども、ここでも出てきますね。
 
フランスでもそうなのだろうか?
 
ちなみに韓国は、プロテスタントがとても多いです。
 
その原因は日本の植民地支配にあるのですが。
 
それはともかくとして、ソンナムは一応画家なのですが、ボーッと何をするでもなく、観光らしい事もせずに無為の時を過ごしているのですが、思い出したように妻に泣き言を電話したり、タイトルがほとんど詐欺みたいな展開が冒頭です。
しかし、ソンナムがパリでバッタリと出会った女性から話しが展開します。
 
相変わらず、掴み方がうまい。
 
女性はソンナムを覚えてるのですが、ソンナムは誰だかなかなか思い出せないのですが、ようやくミンソンである事を思い出します。
 
元恋人です。
 
1日がホンの数分で過ぎていくように話しが進んでいくのですが、要するに逃亡生活なので、やる事がなくてどうしようもないわけですね。
 
なので、必然的にやる事がアバンチュールになっていくわけですが(笑)、コレを止めるのが『聖書』!!
 
ホン・サンスにしては珍しく、通奏低音にイライラ感とウツウツ感が満ちていて、しかも2時間超えの超大作なのだ(ヘタすると1番長いのでは?)。
 
 
この、ウダウダとした時間の停滞はゴダールって言えばゴダールかもわかりませんね。
 
そういや、ボザールに通っている女の子とオルセー美術館に行くシーンがあって、なんと、出てくるのがクールベ『世界の誕生』だけ(どんな絵かは、各人ググってね!)。というのは、陰鬱なゴダールへのオマージュなのか、何かへの当てつけなのかわからんですね。
 
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ゴダール『はなればなれに』で許可なしでルーヴル美術館に激走するというトンデモなシーンが出てきますが、アレは痛快ですね。
 
この辺は、もっと後の作品になるとスッキリしてきて、上映時間も80分くらいでスッと終わります(ゴダールの老年になってから撮った映画は『映画史』は別として、だいたい80分くらい。でも、退屈で寝ちゃうんですよね・笑)。
 
個人的にツボだったのは、公園で太極拳している人たちをソンナムがボーッとカセットテープでフォースターの「僕のそばのマギー」を再生しながら見ているシーン。
 
音楽と映像が彼にしては珍しくシンクロしているんですね。
 
なんだか話しが逸れますが、そのボザールに通っている女の子、ユジョンの事を考えて生活するようになってくるんですね。
 
しかし、なかなか展開はなく、奥さんにテレフォン・セックスをせがむほどにアホになってくるんですが、そこが妙にリアルです(笑)。
 
もうしょうがなくなって、太極拳を自分でやったり。
 
だんだんおかしくなってきて(笑)。
 
しかし、民泊(というか逃亡先のアジトですが)のホストが親族の家に行ってから、このドローン状態になっている生活が変わります。
 
どう変わるのかがこのお話のキモなので、見てのお楽しみという事で。
 
これ見て改めて思うのは、どうして日本でコレができないのか?という事なんですよね。
 
この事を考えるのは私はとても日本の映画には有益なのでは?と思ってます。
 
後の作品と比べると、冗長な気がしますけども、ホン・サンスのフランスの、そして、韓国への愛憎が珍しく表出する作品。
 
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初めて知りましたが、韓国では北朝鮮の事を「北韓」というんですね。
 
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キューブリックはコワイね。

スタンリー・キューブリック時計じかけのオレンジ』 

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高校生の頃、初めて見ましたが、コレはぶったまげました(笑)。
 
高校の頃に、アレハンドロ・ホドロフスキー『エル・トポ』、デイヴィッド・リンチイレイザーヘッド』というぶっ飛び映画を見たわけですけども(笑)、これらを抑えて君臨するのが、『時計じかけのオレンジ』ですね。
 
前二者は、非常に低予算で作られたインディーズの映画ですから、ある意味、ハナからメチャクチャやってるわけですが、キューブリックは、大資本のワーナーです。
 
そこで、このウルトラバイオレンス作品です(笑)。
 
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レックスとドルーグの根城であるミルクバー。
 
 
唖然としてしまいますね。
 
もう、40年以上も昔の映画ですから、この映画よりももっとひどい暴力描写の映画など、それこそいくらでもあるのですが、残念ながら、これらは見慣れてくると、どうということはなくなってしまいます。
 
しかし、『時計じかけ〜』は、キューブリックバイオレンスに異様なまでに冷徹な目で見ているのが、こわいんです。
 
そう。
 
画面上で起こっている事以上に、そのカメラの冷静さがとてもコワイ。
 
こういう恐さ、ちょっと見たことないです。
 
麻薬入りのミルクを飲んでバッチリとキメ、ホームレスの老人をぶちのめし、敵対グループと打ちのめし、勝手に他人の家に上がりこんで女性をレイプし、クルマを暴走させる。
 
雨に唄えば」を歌いながらの作家夫婦を襲撃するシーンは、もはや伝説。
 
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主人公アレックスの悪行三昧を冷徹に凝視しているんですね、キューブリックは。
 
仁義なき戦い』という素晴らしい映画を撮った深作欣二は、菅原文太たちと一緒になって興奮し、役者たちもヴォルテージが300%になって、画面で暴れまくり、キャメラも興奮しまくりですが、キューブリックは、アレックスたちの狼藉、そして、その後にアレックスが受ける様々な報いを、ジッと見つめるんですね。
 
ベルイマンのような「神様は見てるぞ!」でもないし、ヴィスコンティのような残酷さでもない、静かでコワイ目線ですね。
 
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レックスが持ってるのは、一応、作品の中では「アート作品」となってます(笑)。ただのチンコですが。
 
 
これは、ある意味、キューブリック作品に一貫してるものかもわかりません。
 
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核戦争の恐怖をブラックコメディとして描いた、『博士の異常な愛情』も、キューブリック本人は熱狂していなくて、どこか画面はクールです。
 
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タランティーノレザボア・ドッグス』はこのシーンをパクってますね。
 
 
と、恐ろしくバイオレンスシーンが印象に残りますが、この映画、そういうシーンは、実は、それほど多くないんですね。
 
 
まあ、一番宣伝しやすいし、画面のデザインが飛び抜けて素晴らしいですので。
 
仲間の裏切りによってアレックスだけが逮捕され、殺人罪で刑務所に行くことになるのですが(まだ高校生なのに!)、実はココからが本作のトンデモがはじまるのですが、それは見てのお楽しみ(笑)。
 
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ダダとマム。
 
刑務所でのアレックスの聖書を読みながらのアホな妄想はなかなかツボ(全然反省してないんですね)。
 
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それにしても、人類愛を歌い上げるベートーヴェン「第九」がここまでひどい使われ方をされた映画は他にないでしょうね(ちなみに、アレックスが聴いているのは、フィレンツ・フリッチャイベルリン・フィルの1958年の録音です。若き日のディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウが参加してます)。
 
ちなみに、コレを自宅の部屋で聴こうとする時に、その前に入っていたテープはGogly Gogolという、実在しないミュージシャンのテープで、あたかもポリドールから出ているようにそっくりのものを作ってます(キューブリックの遊びですね)。
 
とりわけ前半の見事な美術と衣装のセンスは、未だに素晴らしいですし、音楽を担当した、ウェンディ・カーロスのアナログ・シンセサイザーの音楽は今聴いても斬新です。
 
オッフェンバックの「天国と地獄」のシンセサイザー版(失礼!ロッシーニウィリアム・テル』序曲でした!!)は、アレックスがナンパした女の子2人との3Pシーンに使われてます(笑)、見事ですねえ。
 
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卑猥な形をしたアイス。よく、こんなの考えつくなあ(笑)。
 
レックスを演じるマルカム・マクドーウェルの怒りと狂気を秘めた演技はまさに一世一代の見事なもので、彼以外にこのアレックスを演じることはできなかったでしょう。
 
この役が余りにもインパクトが強すぎて、その後パッとしないのも、ある意味、仕方がありません。
 
前編のインパクトばかりが取りざたされますが、実はそれは伏線でして、それが後半にすべてアレックスに報いとなって返ってきて(情け容赦ない「ホラーショー」の連発です!)、皮肉などという言葉では追っつかないオチが待っております。
 
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その装置の残酷さ!
 
ココにアレックスが愛するベートーヴェンが絡んでくるんですが、キリスト教をココまで露骨にバカにしている映画も珍しいでしょう。
 
ロシア語を思わせる隠語を巧みに使った字幕は大変秀逸で、なんと、キューブリック本人が絶賛したそうです。
 
キューブリックは、字幕が気に入らないと、その国でのソフト化を一切認めなかったのだそうですが、『フルメタル・ジャケット』の海兵隊の訓練シーンの下品な字幕に絶賛し、『時計じかけのオレンジ』の字幕も認めたという話があるですね。
 
このお話で何が一番怖いのかは、オチを見ると、ヨークわかります。
 
あと、全編にわたって言えますが、ホントに役者さんがみんなうまいです。
 
イギリスの役者の層の分厚さは尋常ではありません。
 
それしにしても、「健全」とはなんなのでしょうね。
 
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マムが完全にサリーちゃん。
 
 
 

ポランスキが正攻法で撮った文芸大作。

ロマン・ポランスキ『テス』


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トマス・ハーディの小説を映画化。

どちらかというと、B級感覚に溢れた映画を撮っていたポランスキが本格的な文芸作品に取り組むというのは、ちょっと驚きですが、70年代は、ベルトルッチ『1900年』とか、キューブリック『バリー リンドン』などが上映されていた頃なので、こういう作品が結構撮られてはいたんですね。

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19世紀のイギリスのお話で、ナターシャ・キンスキー扮するテスの一家、ダービーフィールド家は、ノルマン朝まで遡ると、ナイト爵だったらしく、遠い親戚のダーバヴィル家(実際は、金で家名を買っているので、血をひいているわけではない)で働くこととなりました。

という、ハウス名作劇場的な始まり方で、今時考えられないようなお話です。

イギリスは、なんとか朝の王様であった、○○2世の末裔です。みたいな人が結構普通に暮らしているらしいので、こういうテスのようなすっかり零落してただの百姓になっている場合は考えられます。

そういう「おのぼりさん」の視点から、貴族社会を見てみよう。という事なので、まさにハウス名作劇場なのですが(笑)、こういうのは、ドンだけガチにウソ臭くなくできるのか。で、作品としてのクオリティがほぼ決まってしまうので、撮るのは、ある意味楽ではないですね。

ダーバヴィル家の遊び人、アレックが、テスを好きになってしまう事がこのお話しの悲劇でして、まずは、子供ができてしまいます。

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実家では、洗礼も受けさせてもらえず、要するに村八分になってしまいます。

病気でこの赤ん坊は呆気なくなくなってしまいますが、洗礼を受けていないため、教会で埋葬すらしてもらえませんでした。

ローズマリーの赤ちゃん』や『チャイナタウン』もそうですが、ある共同体や集団の慣習(それは外部から見たら、明らかに悪習であったり、マトモでなかったりします)に従属する事への抗議が、ポランスキの作品には見て取れますね。

ココでも教会から相手にされない亡くなった赤ん坊を自分で洗礼を授け、自分で埋葬し、「二度と教会には行かない!」とすら、テスは言います。

この辺の感覚は、もう、現代の私たちには、なかなか実感できないですね。

村にはいられなくなったであろうテスは、別なお屋敷に奉公に出ます。

今度は貴族社会を軽蔑している、農業を近代化しようとしている牧師で大地主という家です。

地主さんは、雇い人たちと同じテーブルでご飯を食べるくらい、多分、当時としてはかなり進歩的な人です。

それにしても、ナターシャ・キンスキーの美少女ぶりは、一体なんなのでしょうね。

この大地主さんの息子のエンジェル(こういう名前なのです)は、ブラジルで酪農などをしていこうと考えており、彼が出てくると、急に話がダイナミックになっていきます(ブラジルのシーンは一切ありませんが)。

敬虔なキリスト教徒の家庭なので、いちいち堅苦しいのですが、ヴィクトリア朝時代のイギリスの雰囲気でもあります。

そういう禁欲的に生きることが当然という時代に起こった齟齬である。という事が掴めていないと、この映画の人々の行動が今ひとつわからないかもしれません。

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エンジェルがテスと結婚しようとしますが、これがうまくいかないのも、この時代特有の倫理観なのですね。

それにしても、なんたる男の都合のよさ! 

しかし、この点に関しては、かなり普遍的というか、時代というものは関係ない気がしますね。

男のズルさ、臆病、甘えが、エンジェルを通して、よく見えてきますね。

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しかし、そんなズルさがわかっていながらダマされてしまうテス。

トコトン、男に都合のよい話ではありますが、そういう風にしか描くことができなかったのだとも言えます。

お話は、ドロドロの三角関係に陥り、文字どおりのゲスの極みの不倫ものになっていきますが、このスピード感、さすがポランスキですねえ。

この辺りは、後の作品の『フランティック』っぽいです。

ポランスキは、本作で巨匠というクラスに至るのですが、実生活では逃亡犯として、現在もアメリカからは指名手配を受けております。

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