宮崎駿の作品の全てがこの作品に入ってます!

高畑勲『太陽の王子 ホルスの冒険』

 

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もう「の」が多いです。

 

監督高畑勲作画監督大塚康生、場面設定宮崎駿、原画小田部羊一という、今となっては信じられないような陣容で作られた、伝説の作品。

音楽はなんと、間宮芳生

見ていると、宮崎駿が初めて演出を担当した『未来少年コナン』の原型はほぼ本作にある事がわかりますし、それは取りも直さず、宮崎駿がいかに高畑勲の演出から多くの事を学んでいた事の証左でもあります。

当時のアニメ映画は時間制限がとても厳しかったので、本作も80分程度の短い作品なのですけども、あらゆるムダを廃し、大切な骨組みだけでものすごくスピーディに展開していくストーリーが、今見てもかなりすごいものがありますね。冒頭の10分くらいで、主人公ホルスは、伝説の剣「太陽の剣」を手に入れ、お父さんが亡くなる寸前に「実は、かくかくしかじかで」と言い残して亡くなり、もう相棒のクマのコロちゃんと冒険です。

 

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巨人モーグ。『ナウシカ』の巨神兵であり、『ラピュタ』の戦闘ロボットですよね。

 

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ホルスは、モーグの肩に突き刺さった、「太陽の剣」を手に入れる。


ホントは130分くらいかけてやりたかったんでしょけども、当時のアニメーションの地位はとても低かったんですね。

この辺の旅立ちは、完全に『コナン』とおんなじですね。

 

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なんで危篤になってから大事な事を言うんだろう。

 

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おじいを埋葬して、のこされ島を去るコナンとほとんど同じです。

 

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ほぼ『コナン』です(笑)。


そして、すぐにラスボス、グルンワルドに「私の弟になれ!」と脅迫されて、これを拒んで崖から転落!

 

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ラスボスのグルンワルド。デザインに一貫性があんまりないのも本作の特徴です。

 

もう、息つく暇もないほど、展開が早いのなんのって(広川太一郎調に)。

宮崎駿の「場面設定」という役職がとても不思議ですけども、それは見ているとよくわかります。

グルンワルドの手下の狼がホルスに襲いかかるシーンの見事さ。

 

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ホントに殺気がありますねえ。

 

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村人がお祭りで楽しんでいるのに、村長になにやら吹き込むシーンを挿入するうまさ。


村人たちが、大漁を祝う祭りのシーンなどなど、群衆シーンのキャラクターが恐ろしく生き生きと動いているのは、明らかに宮崎駿が設定しているものと思われます。


そして、その動きを大塚康生がつけているわけですから、当代最高水準のアニメーションが展開しているんですね。

そして、その村を一挙に襲撃に来る、オオカミたち!

 

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神様のように無類に強い。ほとんど内面がないキャラです。

 

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残念!これが止め絵なのです!!宮崎、大塚両氏は盛大に動かしたかった事でしょう!

 

恐らく、宮崎駿はこの戦闘シーンを、それこそ、『七人の侍』のように動かしたかったんでしょうけども、当時のスタッフの水準ではフルアニメーションで動かす事はできず、止め絵で表現してますが、それでも、凄絶さが充分伝わって来るのは、やはり、宮崎駿の並外れた力量を思わずにはいられません。

基本的なお話の構造は、『バーフバリ』なのですが、高畑監督は流石にもう一捻りしています。

それが、ヒルダという少女の造形なんですね。

 

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高畑組は、こういう無類にかわいいキャラを作る能力がずば抜けてました。


彼女も、ホルスと同じように、グルンワルドによって村を滅ぼされてしまったんですが、その能力を買われて、妹として生かされているんです。

そんな彼女が、ホルスたちのいる村にいるのですが、なかなか村人の中に溶け込む事が出来ないんですね。

 

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ナウシカなのかクシャナなのかわからないキャラクター、ヒルダ。

 

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ヒルダはグルンワルドの命令に従って、村人とホルスの分断工作を行う。


村の様子を探るためのスパイのような役割をしてはいるのですが、グルンワルドの事実上の手下てしても、あんまりうまく機能しないんです。

ホルスたちの楽しい様子を見て、葛藤しているんですね。

これは、後に、『コナン』に出てくるモンスリーや『風の谷のナウシカ』のクシャナなどに引き継がれていくキャラクターの原型と見てよいでしょう。

あるいは、そのとんでもない力の秘密を握っている、ラナやナウシカの葛藤にも似ていて、その後の宮崎作品の少女キャラの原液みたいな存在ですね、ヒルダというのは。

そういう意味ではあまりにもいろんな意味づけを彼女にして与えてしまっているので、なんだかわからないキャラクターになってしまっているのもまた事実です。

その後の高畑/宮崎、もしくは、宮崎/大塚作品では、ラナとモンスリークラリス峰不二子ナウシカクシャナみたいに整理して提示するようになってますね。

主人公のホルスは、そんなに面白くない、ある意味、典型的なヒーローであり、『ニーベルングの指環』の無敵の戦士(なのに、劇中では死んでしまうのですが・笑)、ジークフリートですから、かなり記号的な存在ですね。

内面の葛藤などなく、ラスボスのグルンワルドを倒すためにのみ、行動し続けます。

これを修正したのが、コナンです。

あと、この作品を見ていてつくづく思ったのが、1968年という時代ですよね。

群衆シーンの描写(恐らくは、宮崎駿が考えているものと思います)を見ていると、一番思い出すのが、エイゼンシュテインですよね。

 

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一時期は神の如く崇められていた、悲劇の天才エイゼンシュテイン

 

ソ連の映画監督で、生前は満足できる作品をほとんど撮ることができないまま若くして亡くなった人なんですけども、その群衆シーンを撮らせたら、とにかく天下一品な人であり、宮崎駿高畑勲とともに相当にゴリゴリな左翼でしたから、エイゼンシュテインは神様だったと思われ、それをストレートに表現してますよね。

 

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こういう群衆スペクタクルを撮る才能がズバ抜けていたので、ソ連では、プロバガンダばかり作らされていたんですね。。そして、戦後の若者は、エイゼンシュテインにカンドーしたわけです。


明らかに労働万歳!的な表現が散見されます。

革命とかそういう事がホントに信じられていた時代であり、妙に生々しいです。そういうものへの失望感が、高畑、宮崎両氏の後の作品には色濃く滲み出ている点は見逃せません。

今見ると、稚拙でストレートに過ぎるところもありますが、宮崎駿作品の原型のほとんどが本作にある事がわかる、大変重要な作品です。

ちなみに、高畑監督の「呪い」ですが、本作もご多分に漏れず、興行的には振るわず、当時の評価は大変低かったのでした。

 

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ラスボスの襲撃!

 

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モーグは最後に大活躍です。東映的です。

 

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おしまい。は、もう本作からやってます。

 

 

 

 

 

 

 

 

普通に面白かった。

デレク・ジャーマンヴィトゲンシュタイン

 

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20世紀最大の哲学書の1つであろう、『論理哲学論考』を著した哲学者、ルードウィヒ・ヴィトゲンシュタインの生涯を描いた作品。

 

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実際のヴィトゲンシュタインオーストリア帝国の大富豪の生まれで、西部劇やミュージカルを見るのが趣味でした。


脚本にテリー・イーグルトンがジャーマンと共にクレジットされているのに驚きますが、過激な作風で知られるデレク・ジャーマンとしては、意外なほど真っ当な伝記映画なので、彼の作品の入門編としてもいいかもしれませんね。

生前のヴィトゲンシュタインを知っている人のいろんな証言がありますけども、どう割り引いてもかなりの奇人変人だったようで、やっぱり天才というのは、なんとかと紙一重ではあります。

この作品はものすごく低予算で作られているんですけども、それは極端なほどに簡便なセットと限られたキャスティングのみで映画が構成されている事に由来します。

 

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ほとんど北野ファン倶楽部並みの簡素なセットです(笑)。

 

背景は基本的に黒で、そこにイスやテーブル、ベットなどの最低限の小道具が置かれているだけで場面ができていて、時には、時代考証を無視した電話機が出てきたり(1920年代頃なのに、プッシュホンを使っています)、ちょっとしたイタズラもあります。

 

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経済学者のケインズヴィトゲンシュタインケンブリッジ大学で働けるように尽力しました。


また、登場人物は、バートランド・ラッセルケインズ、そして、その助手でケインズの愛人であるジョニー、ケインズの奥さんのリディア・ロポコワ、そして、ヴィトゲンシュタインの姉と兄くらいしか出てきません。

 

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左がバートランド・ラッセル衣装デザインが素晴らしいですね。


ヴィトゲンシュタインは、20世紀最大の哲学者の1人として、有名ですが、いわゆる哲学書の類いはほとんど読んだ事がなく、アリストテレスヘーゲルといった著作は一切読んだことがないらしい(笑)。

 

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ケン・ラッセルの影響を感じますよね。


ハイデガーとは真逆の態度で哲学していた人で、ハイデガーは、シャレにならないほど膨大な著作を遺しましたが(とても長生きで、第二次大戦後は、一切公職に就かず、ほとんど隠遁して著作に専念してました)、ヴィトゲンシュタインは、生涯に発表した哲学の著作は、ケンブリッジ大での博士号取得の契機となった、『論理哲学論考』と、教師時代に作った、ドイツ語習得のための単語帳だけです。

 

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一応航空工学の実験です(笑)。この研究が実は後にヘリコプターの開発に役に立ってるそうです。

 

ヴィトゲンシュタインの著作のほとんどは死後に発表された遺稿でして、晩年に『哲学探究』という著作に取り組んでいたのですが、完成せずに亡くなってしまいます。


本作は、そういう過程を、非常にうまく省略してコンパクトにまとめた好編でして、途中に挿入される、いわゆる、前期ヴィトゲンシュタインと後期ヴィトゲンシュタインの思想の展開の違いを、とてもわかりやすく伝えているのが、とても好感が持てました。

 

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犬はウソをつく事はできない。


さすが、テリー・イーグルトンですね。また、そのヴィトゲンシュタインのユニークな哲学を形成する過程を、ヴィトゲンシュタインと彼の妄想であろう、火星人の「Mr.グリーン」との対話によって作られているのが面白かったですね。

 

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Mr.グリーンと子供時代のヴィトゲンシュタインの対話。


サン・ラやジミヘン、ユングのように、天才というのは、宇宙に向かうしかないのだと(笑)。

ちなみに、筒井康隆岩波書店から発表した小説『文学部只野教授』のプロットは、テリー・イーグルトンの『文学とは何か』を用いている事は有名です(大変面白い小説です)。

 

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デレク・ジャーマンは決してとっつきやすい作品を撮っている人とは言い難いですが、本作は上映時間たったの75分というものあり、展開もサクサクしていて、見ていて面白かったです。おススメです。

 

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芸能界はいつの世もキレイゴトでは済みません。

ジョセフ・L・マンキヴィッツイヴの総て

 

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なぜイヴは若くして権威ある賞を受賞するに至ったのか?

 

タイトルは知ってるけども、見た事がない。という映画の代表格と言ってよいでしょう(笑)。

1950年度のアカデミー賞を6部門を受賞した名作。というだけで見た気になってしまうんですね。

夏目漱石を読んだ事がない。みたいな事に似ているのでしょう。

しかし、面白いものは面白いのでありまして、別に昔の作品だから見ないというのは誠に勿体ない。

内容は演劇界のキタナイ舞台裏。という辛辣な内容で、冒頭のナレーションでアカデミー賞ディスすらしているという、なかなか尖った作品です。

演劇界の話なので、全体として、ハリウッド及び、西海岸を文化的に低く見ていますし。

現在だったら炎上してるんでしょうか。

本作のヒールとして見事な演技を見せるのは、ベティ・デイヴィスです。

 

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ベティ・デイヴィスの名演が光ります。

 

1930年代の彼女の全盛期はもう私にはわかりませんが、『何がジェーンに起こったのか?』という、ロバート・アルドリッチが撮ったサイコ・サスペンス映画で初めてデイヴィスを見たんですけども、とにかく、怪物のようにコワい役で、痛快な映画ばかり撮っていたアルドリッチがこんなエゲツないほどにコワい映画撮っていた事にも驚きましたが、ベティ・デイヴィスという女優は、私には、このコワいおばちゃんでした(実際、当時の人たちもかつてのデイヴィスとはあまりにもかけ離れた役で、かなり唖然としたらしいです・笑)。

 

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こんなコワいメイクでサイコキャラをやってました(笑)!

 

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若い頃はこんななのに!

 

それにしても、1950年というのは、アカデミー賞としても面白い年でして、作品賞にノミネートされた作品に、ビリー・ワイルダーの名作『サンセット大通り』があります。

こちらは、すでに世の中からスッカリ忘れされたサイレント期の女優のお話しであり、しかも、それを演じるのは、実際のサイレント期の大女優であったらグロリア・スワンソンであり、彼の執事を務めるのは、コレまたサイレント期の偉大な監督である、エーリヒ・フォン・シュトロハイムです。

 

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『サンセット大通り』のグロリア・スワンソン。圧倒的な演技でしたねえ。

 

監督であるワイルダーはもとも脚本家上がりで、そこもマンキヴィッツ監督とキャリアが似ています。

『サンセット大通り』の主人公は、しがない脚本家のウィリアム・ホールデンであり、彼からみた、往年の女優の狂気が描かれますが、本作はデイヴィス演じる、マーゴ・チャニングであり、このベテラン女優からみた、イヴという演劇女優志望の女の子への黒い黒い嫉妬が描かれています。

 

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スワンソンとデイヴィスという大女優を起用している事、一方は演劇界、もう一方はハリウッドですが、この作品はちょうど視点が正反対なんですね。

このような好対照な作品が同じ年に公開され、共にアカデミー賞にノミネートされ、結果としては本作が作品賞にはなりますが、共にアメリカ映画史上に残る名作というのは、とても面白いですね。

個人の好みとしては、ワイルダーのシニカルで残酷な視点をより高く評価しますけども、本作のベティ・デイヴィスのうまさ、いやらしさはやはり、すでに主演女優賞を二度も受賞している実力は、生半可なものではありません。

デイヴィスの演技は、4度目の主演女優賞か?と思われましたけども、イヴ役のアン・バクスターもノミネートされてしまったので、票が割れてしまい、受賞できませんでした。

本作と『サンセット大通り』に共通するのは、「老いる恐怖」です。

『サンセット大通り』のスワンソンは、最後は脚本家のホールデンを射殺した後に発狂して、サイレント時代のような大仰な演技を見せて終わりますけども、本作は現役の舞台女優である、デイヴィスが「40歳の大台に乗った」事への恐怖、それがそのまま若いイヴへの嫉妬へとつながっていますね。

『サンセット大通り』は、文字通りのシチュエーションや脚本の巧みさなんですけども、本作は現実のデイヴィスの置かれた状況そのもの。という、生々しいリアルを持ち込んでいるわけですね。

また、ともに客観的には全体を見ている立場の人がおりまして、『サンセット』だと、ウィリアム・ホールデンになります。

彼は冒頭でプールに浮かんで死んでおりまして、「なぜ、私がこんな風に死ななきゃならなかったかについて話しますね」という、なんともシニカルな始まり方なのですが、本作では、ズバリ、演劇評論家である、デウィット役のジョージ・サンダースが、「なぜ、イヴが、演劇界を代表するような権威ある賞を若くして受賞したのか?を見てみましょう」という、視点で描かれています。

 

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デウィットは、イヴにダイヤモンドの原石を見る。

 

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初めはマーゴの熱狂的なファンであったが、その実は。

要するに、冒頭で両方ともオチがわかった状態から始まるところまでおんなじなんですよ。

コレは、どちらかが内容をスパイして制作したんではないのか?と勘ぐりたくもなりますが、どうなんでしょうね。

それはさておき、ホールデンは、狂言回しとして、パッとしない役を演じる事でスワンソンの狂気を引き立てているんですけども、評論家を演じるサンダースは、そんなに出番があるわけではないんですけども、要所要所で冷徹な分析をしていて、あたかも、死神のように、デイヴィスの事を見つめているんですね。

恐らく、かつて、この評論家デウィットは、才能ある女優として、マーゴの事を見出し、大絶賛したんだと思います。

しかし、それがやがてマンネリ化し、最近は力量が落ちているのでは?と思い始めている矢先に、イヴ。というダイヤの原石を見つけた事に喜びを覚えるのと同時に、王座が入れ替わる瞬間を見たいとという残酷な欲望が生まれているんですね。

そういう、見る側の残酷な眼差しをマンキヴィッツは、評論家のデウィットという存在に象徴されて描いているところが、実は、最も秀逸です。

 

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よーく見ると、マリリン・モンローが出演してるんですよ。初々しい!

 

1950年のアカデミー賞脚本賞ワイルダーで、監督賞がマンキヴィッツというのは、納得のいく評論だと思いますし、サンダースが助演男優賞というのも、まさに正当な評価ですね。

そして、そのサンダースとともに、後半になると本性を現し始めるバクスターがコワいんですね。

そこまでの道のりが、今見るとやや冗長ですが、アン・バクスターも主演女優賞にノミネートされたのがわかる、ギラギラとしたコワさがあります。

ともかくも、『サンセット大通り』とコンビで見たい作品です。

 

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価値観の転換期を繊細に描く

ジェイムス・アイヴォリー『眺めのいい部屋

 

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ジョージに興味を持ち始めるルーシー。

付き添い人のシャーロットはイギリスを代表する女優、マギー・スミス

 

イギリスの文豪、フォースターの原作の映画化。

すでにかなりのキャリアを積んでいたアイヴォリーがついに、決定的となる作品を撮った作品と言ってよく、ここから、アイヴォリーの監督としての評価は世界的に高まっていきます。

フィレンツェを観光で訪れたルーシーは、「眺めのよい部屋」を予約したつもりでしたが、実際はその反対側の部屋となりました。

 

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20世紀初頭まで、こんなにカッチリとした服装だったんですね。

 

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エマソン親子。ジョージ役はジュリアン・サンズですね。

 

ちょうど、「眺めのいい部屋」だったエマソン親子は、「だったら、私の部屋と交換してもいいですよ」といいます。

エマソン氏の申し出をルーシーの付き添い人である、シャーロットは断ります。

自分たちよりも階級の下の人間に借りを作るなど以ての外だったからですね『結局、交換するんですが)。

 

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眺めのいい部屋」です。

 

この感覚は、もう現代の日本人にはわからない感覚ですね。

しかし、本作で重要なのは、このイギリスの階級社会です。

ルーシーは、このたまたま部屋を譲ってくれると申し出てくれたエマソン氏の息子、ジョージの事が気になって仕方がありません。

 

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このルーシーの心の動きを、彼女の弾くピアノ曲で表現しているのが、とても面白いですね。

ベートーヴェンシューベルトモーツァルト

と彼女の心は、婚約者であるセシル・ヴァイズではなく、ジョージ・エマソンに向かう。というのが大筋のストーリーなんですけども、この、ほとんど古典的な恋愛劇を、敢えて現代風にアレンジするでもなく、むしろ、そのまんま再現しているところにアイヴォリーの真骨頂がありますね。

コレは、その後の彼のフォースターやカズオ・イシグロ作品の映画化にも踏襲される方法論です。

本作では、ルーシーよりも更に階級が上である、ヴァイズ家との婚約を破棄して、ジョージとの結婚を選ぶという、ヴィクトリア朝の厳格な社会規範が少しずつ崩壊し始める予兆を描いているんですが、たった100年前のこの出来事が、もう現代の感覚とコレほどまでに違ってしまっているんですね。

 

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20世紀初頭のブルジョワジーの世界を美しく見せます。

 

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個人的には一番ツボのキャラクターはビーブ牧師(一番左)。

 

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ダニエル・デイ=ルイス、若い!

 

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若い男性が全裸で水辺でキャッキャするシーンは日本公開当時は、かなりカットされたみたいです。

 

なんというか、「常識」とか「社会規範」というものは、実は相当アヤシイものなのだ。という事が、結構わかってきますよね。

それは、ゲイであるアイヴォリー監督の、セクシャル・マイノリティがごく普通に社会に受け入れられる時代がいずれ来る事を暗に示しているのかもしれません。

後に撮られた『日の名残り』と比べると、もう少し内面の掘り下げが欲しい作品ですが(主人公ルーシー役のヘレナ・ボナム=カーターがまだこの頃は演技力不足です)、ダニエル・デイ=ルイスマギー・スミスの見事な演技と美しい映像は、やはり見る価値があります。

 

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巻き込まれ型サスペンスの古典

ルフレド・ヒチコク『知りすぎた男』

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家族でモロッコ観光をするつもりが。

 

『ハリーの災難』という怪作を生み出した翌年、1956年の作品。

それにしても、ものすごいペースでこの頃のヒチコクは映画撮ってますねえ。だいたい年に2本くらいのペースで映画を作りまくってます。


彼のファンだったら知ってるでしょうけども、本作は、1934年にイギリスで作られた『暗殺者の家』をリメイクしたものなんです。

 

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コレがオリジナルの方のタイトル。

 

原題はどちらも同じ『The Man Who Knew Too Much』でして、リメイク版の邦題が直訳になってるんですね。

主演は、ジェームズ・スチュアートドリス・デイです。

 

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デイは「誰かに見られている」という嫌な予感を。

 

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スチュアートが大男である事を利用したギャグシーン。座りづらそうなソファ。

 

ドリス・デイは実際に歌手として大変有名ですけど、主婦に専念するために歌手を引退したという役でして、コレが本作に上手く機能してます。

その夫で外科医役がスチュアートで、2人の間には男の子がいます。

平凡な人たちがとんでもない事件に巻き込まれていく。という映画は、たくさん作られていきますが、本作はその古典となった作品といっていいでしょう。

ただ、今の目で見ますと、最初のモロッコ観光のシーンはタルいですし、イスラーム文化の描き方が、ハリウッド的なエキゾの域を出ていない気がしますが、スチュアートの一家が、殺人を目撃してしまい、その死にかけている男からメッセージを託されてから、俄然スイッチが入ってきまして、面白くなってきます。

 

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スチュアートは、暗殺事件かロンドンで起こる事を知ってしまう

 

ヒチコクとしては、のんびりとした観光を突然切り裂く殺人というその背後にあるより大きな事件に巻き込まれる落差を演出したんだと思うんですけども、ヒチコク映画って、ロケーション撮影に極端に鈍感というか、興味がないというか、映像がボヤっとしてるんですね。

多分、モロッコにも北アフリカにも何の興味もないんですね、彼は(笑)。

しかし、サスペンスが始まり出すと、やっぱりヒチコクです。

主人公たちはアメリカ人ですが、モロッコ、イギリスと常に外国にいる。という事が、やっぱり効いていて、モロッコではそこがダメダメなんですが、イギリスに舞台が移ってからは、水を得た魚なん

ですね。

 

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息子がホテルに戻っていない!

 

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知りすぎてしまったが故に、息子が誘拐されてしまう。

 

コレはネタバレさせてもいいと思いますが、スチュアート夫妻は、息子を組織に誘拐されてしまいます。

その解決のカギは最早、男の遺言だけであり、それがロンドンなんですね。

しかも、この組織は政治家の暗殺をロンドンで企てているようなんです。

 

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暗殺計画を請け負う組織のリーダー。

 

一介の外科医でしかないスチュアートはとんでもない事に巻き込まれ、息子まで誘拐されてしまうという、私的な事件と国家レベルの事件の2つを一挙に抱えなくてはならなくなってしまったんですね。

 

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ジェイソン・ボーンのシリーズだとかシチュエーションでも使われて、猛烈なカーチェイスやアクション、ハイテクノロジーを駆使した追跡/逃亡がド派手に展開すると思いますが、1950年代で、ただの外科医と元歌手が息子を助けるのと政治家の暗殺を食い止めるのに頑張るので、ド派手なシーンは、全然ないんです。

しかし、それでも面白いのは、彼らが外国人であり、ロンドンの土地勘もなく、「息子を殺す」と組織に脅迫されているので、警察にも事実を話すこともできない。という極端に不自由でもどかしいシチュエーションを作ってるんですね。

しかも、今よりもずっとローテクです。

この状況を作り出していること自体がヒチコクの戦略に観客がまんまと引っかかる仕組みになっていて、「オイオイ、どうなるんだよ!」と引き込んでしまうんですね。

この巻き込まれ型の最高傑作と言えるのが、『北北西に進路をとれ』なのですが、本作は、スチュアートとデイですから、走り回らせても、絵になりません。

なので、ヒチコクはアクションに頼らず、このシチュエーションをどうやって切り抜けるのか?という設定をうまく作り出して、そこをポンコツながらもなんとかクリアしていく。という所にサスペンスを感じるように作ってるんですね。

それが本作での有名な、アルバート・ホールでのシーン(指揮者は音楽を担当しているバーナード・ハーマン本人がカメオ出演してます。ちなみに、この曲はハーマンの曲ではなく、オリジナルで、使われた曲をハーマンが編曲したものです)なんですね。

 

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バーナード・ハーマンのホントのリサイタルを、アルバート・ホールで行うという面白さ。

 

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フルオケにコーラスまでつけるという、贅沢なシーン。こういう豪華さはヒチコクには珍しいですね。

 

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スチュアートのポンコツをリリーフするのが、なんと、ドリス・デイの歌であったりするのが実にうまいんですね。

どうしても、グレース・ケリーで場所本作はダメだったんです。

政治家暗殺の阻止。などというデカい話しっぽいのに、軽く終わってしまうのも、面白いですね。

この、キレイなのにコワイ。そして、キレイに終わる。という、ヒチコク・サスペンスの美学が貫かれた本作は、流石に『ダイヤルMを回せ』や『裏窓』級の大傑作とは言えませんが、やはり卓越した佳作として今見ても面白い作品です。

 

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デイが歌う『ケ・セラ・セラ』は、アカデミー賞を受賞しました。

 

大映の谷崎原作ものは面白いです!

市川崑『鍵』

 

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市川作品のオープニングのデザインのカッコよさには、いつもしびれますねえ。

 

谷崎潤一郎の小説の映画化。

原作は1956年に連載されていた作品ですから、公開当時は谷崎の最新作を映画化しているんですね。

『卍』、『刺青』、『痴人の愛』はすでにこの映画評で語りましたが、同じ大映の監督である、増村保造が映画化していますけども、本作は市川が撮ることになりました。

増村が取り上げた谷崎作品は、谷崎のどこか変態的な側面が強い小説の映画化ですが、それをあのドライでスピーディな展開でスパッと描いておるところが見事ですが、市川は谷崎の持つ、ブラックユーモアの感覚を描いています。

何しろ、金持ちのジイさんがコッソリ精力剤を医者に注射してもらっているというお話しです(笑)。

 

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ケツに精力剤を注射て(笑)。

 

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薄ら笑いキャラの仲代達也。出世のために剣持一家とつきあっている。

 

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ドスケベおやじを演じさせたら天下一品の二代中村鴈治郎

 

なんというか、この大映の一連の谷崎原作の映画を見てますと、谷崎という作家は、決して高尚な感じが全然しなくて、結構俗っぽくて、どこか変態的なものを耽溺している、要するになかなかの変態オヤジであるなあと思います(笑)。

そういうところを市川監督は、あの流麗なテクニックで谷崎のヌルヌルと変態ゾーン突っ込みすぎずにサラッと見せますね。

何しろ、たったの90分の上映時間です。

つまりこれ、プログラム・ピクチャーなんですね。信じ難いですが。

こういう積み重ねが、後の大作『細雪』に結実していくのだと思いますが、今回は『鍵』です。

それにしても、二代中村鴈治郎のエロオヤジっぷり、京マチ子のムンムンのエロスを、名キャメラマン宮川一夫が撮ってるというだけでもう最高ですね。

 

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エロすぎる女優、京マチ子

 

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仲代は出世のためにだけ、叶順子に接近する。

 

そして、『人間の条件』という、超がつくハードコアな大作の主演で脚光を浴びた仲代達也が鴈治郎のケツに精力剤を注射しているインターンというおかしさ(笑)。

市川崑大映の監督になる前は、喜劇映画を得意としていたんですけども、そういう才能が、こういうところに見事に活きてますねえ。

中村鴈治郎京マチ子、そしてその2人の娘の叶順子の剣持一家と仲代がそれぞれに個別の事情で接しているんですが、鴈治郎の家では、全員がそんな個人的な関係は一切ないかのように振舞っているんですね。

 

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あたかも「よい家族」を装う。

 

更に面白いのは、それぞれの個々の事情を剣持一家は仲代から探り出していて、みな知っていているにもかかわらず、家族全員がシラを切りながら、生活ところ本作の真骨頂がありますね。

それぞれの登場人物が、ある人物を介しながら事情を知り、直接的には仮面を被ったように「いい子ちゃん」で真っ当な家族を装っているという奇妙さ。

その最たるものが、鴈治郎京マチ子への愛情表現の変態ぶりであり、その倒錯感は、是非ともご覧下さい。

 

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変態鴈治郎が何をしているのかは、見てのお楽しみ。

 

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こんな事、まず思いつきませんから(笑)。

えっ。それで終わりなの?という軽いラストにもニヤリとさせられました。

市川、増村がものすごいペースで競うように映画を撮っていた頃が、やはり、大映の全盛期でしたね。

 

ちなみに本作はR指定がつきました。

 

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当時としてはかなりきわどいシーンが出てきます。

 

 

 

『スターウォーズ』より、『バーフバリ』でしょ!

S. S. ラージャマウリ『バーフバリ 王の凱旋』

 

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カッタッパがなぜ、アマンドラ・バーフバリを殺さなくてはならなかったのか?が回想として続きます。

 

※若干前編の重要なポイントをネタバレさせてしまうので、前編を見てない方がご覧にならないように。

 

バーフバリの後編です。

前半は主人公が、突然、人々から「バーフバリ!」と熱狂的に呼ばれる事の意味がわからず、カッタッパに「なぜ、私が『バーフバリ』と呼ばれるのか?私は一体なんなのか?」問いかけてからの、^大回想シーンが始まり、その回想の途中でズバン!と終わるというなかなか豪快な終わり方でしたが、その、回想はそこから80分くらい続きます(笑)!

その内容が本作の核心部分なので、一切説明を省かざるを得ないのですが、バーフバリとは、主人公ジヴドゥの実の父親「アマレンドラ・バーフバリ」であり、ジヴドゥの本名は、「マヘンドラ・バーフバリ」なのでした。

 

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アマレンドラの結婚問題が王位継承問題に発展してしまいます。。

 

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クンタラ王国の王女、デーヴァセーナ。

前編で鎖に繋がれていたのは、この人です!

 

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国母シヴァガミが実子バラーラデーヴァに騙されてしまいます。

 

f:id:mclean_chance:20180317093756j:imageONE PIECE』もビックリな空を飛んでしまう船(笑)。なんでもアリです。

 

つまり、マヒシュマテイ王国の王族の血をひいていたわけですね。

そして、前編の最後にカッタッパが言ったように、なぜ、バーフバリを殺さなくてはならなかったのか。もわかるわけです。

この「エピソード1」ともいえる内容を説明するのに、とてつもない時間を要さなくてはならない構成は、正直、無茶な作りだと思いますが(笑)、ここまで溜めて溜めて、暴君であり、事実上父親アマレンドラ・バーフバリの仇である、バラーラデーヴァの打倒への動機への怒りと大義というものを作り上げたかったわけですね。

週刊ジャンプ』のマンガをマジで実写にしたら、こんなです!という、『キングダム』や『北斗の拳』が大好きな人たちは、の前後編を見終わった後、拳を上げて、「バーフバリ!」と連呼する事間違いなし。

 

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いい構図だ!

 

ただ、不満がないではなく、この作品、広く世界で受け入れられるためなのでしょう、かなりのカットがされています。

まだ、インドは編集があんまり上手ではないみたいで、明らかに不自然なところがあるんですね。

とはいえ、筋立ては真ん中のアマレンドラ・バーフバリのお話がめちゃ長いというだけで、基本はものすごくシンプルで豪快なお話しですので(そこを強調するためのカットと思われます)、監督が言わんとしている事は、損なわれているわけではありません。

映画史に名を残す黒澤明七人の侍』も、海外で上映するために、1時間もカットしたそうです(3時間半もある、超大作なのです)。

この前後編は、映画館で見直したいですね。

 

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おまけ。国母になったのんちゃん(笑)。