価値観の転換期を繊細に描く

ジェイムス・アイヴォリー『眺めのいい部屋

 

f:id:mclean_chance:20180331200304j:image

ジョージに興味を持ち始めるルーシー。

付き添い人のシャーロットはイギリスを代表する女優、マギー・スミス

 

イギリスの文豪、フォースターの原作の映画化。

すでにかなりのキャリアを積んでいたアイヴォリーがついに、決定的となる作品を撮った作品と言ってよく、ここから、アイヴォリーの監督としての評価は世界的に高まっていきます。

フィレンツェを観光で訪れたルーシーは、「眺めのよい部屋」を予約したつもりでしたが、実際はその反対側の部屋となりました。

 

f:id:mclean_chance:20180331200527j:image

20世紀初頭まで、こんなにカッチリとした服装だったんですね。

 

f:id:mclean_chance:20180331200704j:image

エマソン親子。ジョージ役はジュリアン・サンズですね。

 

ちょうど、「眺めのいい部屋」だったエマソン親子は、「だったら、私の部屋と交換してもいいですよ」といいます。

エマソン氏の申し出をルーシーの付き添い人である、シャーロットは断ります。

自分たちよりも階級の下の人間に借りを作るなど以ての外だったからですね『結局、交換するんですが)。

 

f:id:mclean_chance:20180331200513j:image

眺めのいい部屋」です。

 

この感覚は、もう現代の日本人にはわからない感覚ですね。

しかし、本作で重要なのは、このイギリスの階級社会です。

ルーシーは、このたまたま部屋を譲ってくれると申し出てくれたエマソン氏の息子、ジョージの事が気になって仕方がありません。

 

f:id:mclean_chance:20180331201141j:image

f:id:mclean_chance:20180331201155j:image

 

このルーシーの心の動きを、彼女の弾くピアノ曲で表現しているのが、とても面白いですね。

ベートーヴェンシューベルトモーツァルト

と彼女の心は、婚約者であるセシル・ヴァイズではなく、ジョージ・エマソンに向かう。というのが大筋のストーリーなんですけども、この、ほとんど古典的な恋愛劇を、敢えて現代風にアレンジするでもなく、むしろ、そのまんま再現しているところにアイヴォリーの真骨頂がありますね。

コレは、その後の彼のフォースターやカズオ・イシグロ作品の映画化にも踏襲される方法論です。

本作では、ルーシーよりも更に階級が上である、ヴァイズ家との婚約を破棄して、ジョージとの結婚を選ぶという、ヴィクトリア朝の厳格な社会規範が少しずつ崩壊し始める予兆を描いているんですが、たった100年前のこの出来事が、もう現代の感覚とコレほどまでに違ってしまっているんですね。

 

f:id:mclean_chance:20180331201241j:image

20世紀初頭のブルジョワジーの世界を美しく見せます。

 

f:id:mclean_chance:20180331201456p:image

個人的には一番ツボのキャラクターはビーブ牧師(一番左)。

 

f:id:mclean_chance:20180331201613j:image

ダニエル・デイ=ルイス、若い!

 

f:id:mclean_chance:20180331201813p:image

若い男性が全裸で水辺でキャッキャするシーンは日本公開当時は、かなりカットされたみたいです。

 

なんというか、「常識」とか「社会規範」というものは、実は相当アヤシイものなのだ。という事が、結構わかってきますよね。

それは、ゲイであるアイヴォリー監督の、セクシャル・マイノリティがごく普通に社会に受け入れられる時代がいずれ来る事を暗に示しているのかもしれません。

後に撮られた『日の名残り』と比べると、もう少し内面の掘り下げが欲しい作品ですが(主人公ルーシー役のヘレナ・ボナム=カーターがまだこの頃は演技力不足です)、ダニエル・デイ=ルイスマギー・スミスの見事な演技と美しい映像は、やはり見る価値があります。

 

f:id:mclean_chance:20180331201955j:image

 

 

 

巻き込まれ型サスペンスの古典

ルフレド・ヒチコク『知りすぎた男』

f:id:mclean_chance:20180319123513j:image

家族でモロッコ観光をするつもりが。

 

『ハリーの災難』という怪作を生み出した翌年、1956年の作品。

それにしても、ものすごいペースでこの頃のヒチコクは映画撮ってますねえ。だいたい年に2本くらいのペースで映画を作りまくってます。


彼のファンだったら知ってるでしょうけども、本作は、1934年にイギリスで作られた『暗殺者の家』をリメイクしたものなんです。

 

f:id:mclean_chance:20180319123616j:image

コレがオリジナルの方のタイトル。

 

原題はどちらも同じ『The Man Who Knew Too Much』でして、リメイク版の邦題が直訳になってるんですね。

主演は、ジェームズ・スチュアートドリス・デイです。

 

f:id:mclean_chance:20180319123659j:image

デイは「誰かに見られている」という嫌な予感を。

 

f:id:mclean_chance:20180319123938p:image

スチュアートが大男である事を利用したギャグシーン。座りづらそうなソファ。

 

ドリス・デイは実際に歌手として大変有名ですけど、主婦に専念するために歌手を引退したという役でして、コレが本作に上手く機能してます。

その夫で外科医役がスチュアートで、2人の間には男の子がいます。

平凡な人たちがとんでもない事件に巻き込まれていく。という映画は、たくさん作られていきますが、本作はその古典となった作品といっていいでしょう。

ただ、今の目で見ますと、最初のモロッコ観光のシーンはタルいですし、イスラーム文化の描き方が、ハリウッド的なエキゾの域を出ていない気がしますが、スチュアートの一家が、殺人を目撃してしまい、その死にかけている男からメッセージを託されてから、俄然スイッチが入ってきまして、面白くなってきます。

 

f:id:mclean_chance:20180319123806j:image

スチュアートは、暗殺事件かロンドンで起こる事を知ってしまう

 

ヒチコクとしては、のんびりとした観光を突然切り裂く殺人というその背後にあるより大きな事件に巻き込まれる落差を演出したんだと思うんですけども、ヒチコク映画って、ロケーション撮影に極端に鈍感というか、興味がないというか、映像がボヤっとしてるんですね。

多分、モロッコにも北アフリカにも何の興味もないんですね、彼は(笑)。

しかし、サスペンスが始まり出すと、やっぱりヒチコクです。

主人公たちはアメリカ人ですが、モロッコ、イギリスと常に外国にいる。という事が、やっぱり効いていて、モロッコではそこがダメダメなんですが、イギリスに舞台が移ってからは、水を得た魚なん

ですね。

 

f:id:mclean_chance:20180319124322j:image

息子がホテルに戻っていない!

 

f:id:mclean_chance:20180319124122j:image

知りすぎてしまったが故に、息子が誘拐されてしまう。

 

コレはネタバレさせてもいいと思いますが、スチュアート夫妻は、息子を組織に誘拐されてしまいます。

その解決のカギは最早、男の遺言だけであり、それがロンドンなんですね。

しかも、この組織は政治家の暗殺をロンドンで企てているようなんです。

 

f:id:mclean_chance:20180319124415j:image

暗殺計画を請け負う組織のリーダー。

 

一介の外科医でしかないスチュアートはとんでもない事に巻き込まれ、息子まで誘拐されてしまうという、私的な事件と国家レベルの事件の2つを一挙に抱えなくてはならなくなってしまったんですね。

 

f:id:mclean_chance:20180319124256j:image

 

ジェイソン・ボーンのシリーズだとかシチュエーションでも使われて、猛烈なカーチェイスやアクション、ハイテクノロジーを駆使した追跡/逃亡がド派手に展開すると思いますが、1950年代で、ただの外科医と元歌手が息子を助けるのと政治家の暗殺を食い止めるのに頑張るので、ド派手なシーンは、全然ないんです。

しかし、それでも面白いのは、彼らが外国人であり、ロンドンの土地勘もなく、「息子を殺す」と組織に脅迫されているので、警察にも事実を話すこともできない。という極端に不自由でもどかしいシチュエーションを作ってるんですね。

しかも、今よりもずっとローテクです。

この状況を作り出していること自体がヒチコクの戦略に観客がまんまと引っかかる仕組みになっていて、「オイオイ、どうなるんだよ!」と引き込んでしまうんですね。

この巻き込まれ型の最高傑作と言えるのが、『北北西に進路をとれ』なのですが、本作は、スチュアートとデイですから、走り回らせても、絵になりません。

なので、ヒチコクはアクションに頼らず、このシチュエーションをどうやって切り抜けるのか?という設定をうまく作り出して、そこをポンコツながらもなんとかクリアしていく。という所にサスペンスを感じるように作ってるんですね。

それが本作での有名な、アルバート・ホールでのシーン(指揮者は音楽を担当しているバーナード・ハーマン本人がカメオ出演してます。ちなみに、この曲はハーマンの曲ではなく、オリジナルで、使われた曲をハーマンが編曲したものです)なんですね。

 

f:id:mclean_chance:20180319124527p:image

バーナード・ハーマンのホントのリサイタルを、アルバート・ホールで行うという面白さ。

 

f:id:mclean_chance:20180319124708j:image

フルオケにコーラスまでつけるという、贅沢なシーン。こういう豪華さはヒチコクには珍しいですね。

 

f:id:mclean_chance:20180319124832j:image

 

スチュアートのポンコツをリリーフするのが、なんと、ドリス・デイの歌であったりするのが実にうまいんですね。

どうしても、グレース・ケリーで場所本作はダメだったんです。

政治家暗殺の阻止。などというデカい話しっぽいのに、軽く終わってしまうのも、面白いですね。

この、キレイなのにコワイ。そして、キレイに終わる。という、ヒチコク・サスペンスの美学が貫かれた本作は、流石に『ダイヤルMを回せ』や『裏窓』級の大傑作とは言えませんが、やはり卓越した佳作として今見ても面白い作品です。

 

f:id:mclean_chance:20180319124900j:image

デイが歌う『ケ・セラ・セラ』は、アカデミー賞を受賞しました。

 

大映の谷崎原作ものは面白いです!

市川崑『鍵』

 

f:id:mclean_chance:20180317095327j:image

市川作品のオープニングのデザインのカッコよさには、いつもしびれますねえ。

 

谷崎潤一郎の小説の映画化。

原作は1956年に連載されていた作品ですから、公開当時は谷崎の最新作を映画化しているんですね。

『卍』、『刺青』、『痴人の愛』はすでにこの映画評で語りましたが、同じ大映の監督である、増村保造が映画化していますけども、本作は市川が撮ることになりました。

増村が取り上げた谷崎作品は、谷崎のどこか変態的な側面が強い小説の映画化ですが、それをあのドライでスピーディな展開でスパッと描いておるところが見事ですが、市川は谷崎の持つ、ブラックユーモアの感覚を描いています。

何しろ、金持ちのジイさんがコッソリ精力剤を医者に注射してもらっているというお話しです(笑)。

 

f:id:mclean_chance:20180317095509j:image

ケツに精力剤を注射て(笑)。

 

f:id:mclean_chance:20180317095747j:image

薄ら笑いキャラの仲代達也。出世のために剣持一家とつきあっている。

 

f:id:mclean_chance:20180318111415j:image

ドスケベおやじを演じさせたら天下一品の二代中村鴈治郎

 

なんというか、この大映の一連の谷崎原作の映画を見てますと、谷崎という作家は、決して高尚な感じが全然しなくて、結構俗っぽくて、どこか変態的なものを耽溺している、要するになかなかの変態オヤジであるなあと思います(笑)。

そういうところを市川監督は、あの流麗なテクニックで谷崎のヌルヌルと変態ゾーン突っ込みすぎずにサラッと見せますね。

何しろ、たったの90分の上映時間です。

つまりこれ、プログラム・ピクチャーなんですね。信じ難いですが。

こういう積み重ねが、後の大作『細雪』に結実していくのだと思いますが、今回は『鍵』です。

それにしても、二代中村鴈治郎のエロオヤジっぷり、京マチ子のムンムンのエロスを、名キャメラマン宮川一夫が撮ってるというだけでもう最高ですね。

 

f:id:mclean_chance:20180317095612j:image

エロすぎる女優、京マチ子

 

f:id:mclean_chance:20180317100034j:image

仲代は出世のためにだけ、叶順子に接近する。

 

そして、『人間の条件』という、超がつくハードコアな大作の主演で脚光を浴びた仲代達也が鴈治郎のケツに精力剤を注射しているインターンというおかしさ(笑)。

市川崑大映の監督になる前は、喜劇映画を得意としていたんですけども、そういう才能が、こういうところに見事に活きてますねえ。

中村鴈治郎京マチ子、そしてその2人の娘の叶順子の剣持一家と仲代がそれぞれに個別の事情で接しているんですが、鴈治郎の家では、全員がそんな個人的な関係は一切ないかのように振舞っているんですね。

 

f:id:mclean_chance:20180317095922j:image

あたかも「よい家族」を装う。

 

更に面白いのは、それぞれの個々の事情を剣持一家は仲代から探り出していて、みな知っていているにもかかわらず、家族全員がシラを切りながら、生活ところ本作の真骨頂がありますね。

それぞれの登場人物が、ある人物を介しながら事情を知り、直接的には仮面を被ったように「いい子ちゃん」で真っ当な家族を装っているという奇妙さ。

その最たるものが、鴈治郎京マチ子への愛情表現の変態ぶりであり、その倒錯感は、是非ともご覧下さい。

 

f:id:mclean_chance:20180318111537j:image

変態鴈治郎が何をしているのかは、見てのお楽しみ。

 

f:id:mclean_chance:20180317095453j:image

 

こんな事、まず思いつきませんから(笑)。

えっ。それで終わりなの?という軽いラストにもニヤリとさせられました。

市川、増村がものすごいペースで競うように映画を撮っていた頃が、やはり、大映の全盛期でしたね。

 

ちなみに本作はR指定がつきました。

 

f:id:mclean_chance:20180317100233j:image

当時としてはかなりきわどいシーンが出てきます。

 

 

 

『スターウォーズ』より、『バーフバリ』でしょ!

S. S. ラージャマウリ『バーフバリ 王の凱旋』

 

f:id:mclean_chance:20180317092921j:image

カッタッパがなぜ、アマンドラ・バーフバリを殺さなくてはならなかったのか?が回想として続きます。

 

※若干前編の重要なポイントをネタバレさせてしまうので、前編を見てない方がご覧にならないように。

 

バーフバリの後編です。

前半は主人公が、突然、人々から「バーフバリ!」と熱狂的に呼ばれる事の意味がわからず、カッタッパに「なぜ、私が『バーフバリ』と呼ばれるのか?私は一体なんなのか?」問いかけてからの、^大回想シーンが始まり、その回想の途中でズバン!と終わるというなかなか豪快な終わり方でしたが、その、回想はそこから80分くらい続きます(笑)!

その内容が本作の核心部分なので、一切説明を省かざるを得ないのですが、バーフバリとは、主人公ジヴドゥの実の父親「アマレンドラ・バーフバリ」であり、ジヴドゥの本名は、「マヘンドラ・バーフバリ」なのでした。

 

f:id:mclean_chance:20180317093126j:image

アマレンドラの結婚問題が王位継承問題に発展してしまいます。。

 

f:id:mclean_chance:20180317093232j:image

クンタラ王国の王女、デーヴァセーナ。

前編で鎖に繋がれていたのは、この人です!

 

f:id:mclean_chance:20180317093549p:image

国母シヴァガミが実子バラーラデーヴァに騙されてしまいます。

 

f:id:mclean_chance:20180317093756j:imageONE PIECE』もビックリな空を飛んでしまう船(笑)。なんでもアリです。

 

つまり、マヒシュマテイ王国の王族の血をひいていたわけですね。

そして、前編の最後にカッタッパが言ったように、なぜ、バーフバリを殺さなくてはならなかったのか。もわかるわけです。

この「エピソード1」ともいえる内容を説明するのに、とてつもない時間を要さなくてはならない構成は、正直、無茶な作りだと思いますが(笑)、ここまで溜めて溜めて、暴君であり、事実上父親アマレンドラ・バーフバリの仇である、バラーラデーヴァの打倒への動機への怒りと大義というものを作り上げたかったわけですね。

週刊ジャンプ』のマンガをマジで実写にしたら、こんなです!という、『キングダム』や『北斗の拳』が大好きな人たちは、の前後編を見終わった後、拳を上げて、「バーフバリ!」と連呼する事間違いなし。

 

f:id:mclean_chance:20180317093733j:image

 

f:id:mclean_chance:20180317093947j:image

 

f:id:mclean_chance:20180317093512j:image

いい構図だ!

 

ただ、不満がないではなく、この作品、広く世界で受け入れられるためなのでしょう、かなりのカットがされています。

まだ、インドは編集があんまり上手ではないみたいで、明らかに不自然なところがあるんですね。

とはいえ、筋立ては真ん中のアマレンドラ・バーフバリのお話がめちゃ長いというだけで、基本はものすごくシンプルで豪快なお話しですので(そこを強調するためのカットと思われます)、監督が言わんとしている事は、損なわれているわけではありません。

映画史に名を残す黒澤明七人の侍』も、海外で上映するために、1時間もカットしたそうです(3時間半もある、超大作なのです)。

この前後編は、映画館で見直したいですね。

 

f:id:mclean_chance:20180320223226j:image

おまけ。国母になったのんちゃん(笑)。

 

 

レイ・ミランドの畢生の名演!!同年の『裏窓』と対をなす傑作!!

ルフレッド・ヒチコク『ダイヤルMを回せ』

 

f:id:mclean_chance:20180312153206j:image

電話などの小道具の使い方が実にうまい作品です。

 

ヒチコクのワーナー作品。

レイ・ミランドがほとんどジェームズ・スチュアートに見えるのですが、それは、ヒチコクがそういう記号的な役割を主演にさせているという事なのだと思います。

ヒチコクは、小津安二郎とはまた違った意味で役者に演技力をほとんど求めておらず、役者がどのように見えるのかは、演出やキャメラワーク、編集によって決まってくると思っていたようで、よって、役者は出来るだけ記号的な存在に近い人物が求められていて、それに最適だったのが、スチュアートだったのでしょう。

理由はわかりませんが、本作ではレイ・ミランドが主演となってますけど、しかし、その役割はスチュアートのそれとほとんど同じです。

ただ、スチュアートは「巻き込まれる側」や「むやみに首を突っ込んでしまう男」という、いわば天然キャラを演じてますが、ミランドは完全犯罪の遂行者です。

そういう使い分けなのかもしれません。

ヒチコクの演出はそれくらい徹底していたという事が、ここからわかります。

それは同じく主演のグレイス・ケリーにも言えて、要するにものすごく端正な白人の美女。という記号として起用しているんでしょう。

こういう感覚って、小津安二郎キューブリックくらいしか、他はいないかもしれませんね。

 

f:id:mclean_chance:20180312153315p:image

ごくごく平凡な夫婦と思われますが、

 

f:id:mclean_chance:20180312153413j:image

実は奥さん(グレース・ケリー)には愛人がおりました。

 

それにしても、冒頭のレイ・ミランドと の会話だけで(しかもサントラなし)、延々と話が進むのですが、それだけでグイグイと引き寄せてしまうという演出のすごさ。

ミランドが語る妻、グレイス・ケリーの不倫と招かれた男との関係。

ミランドが淡々と語る完全犯罪計画のコワさ。

 

f:id:mclean_chance:20180312153523j:image

妻の不倫を延々と語る、レイ・ミランド

 

レイ・ミランドははっきり言って二流の人だと思いますが、ここではとんでもない名演を繰り広げていて、恐らく畢生の演技だと思います。

ヒッチコック演出のものすごさですよね。

前科のある男の行状をトコトン調べ上げて精神的に追い込んで共犯者に仕立てていく異様さ。

バイオレンスもアクションも何もないのに巧みな会話だけで進行していく犯罪計画。

犯行プランを話し始めると、急に俯瞰したキャメラワークに変わるのも絶妙としか言いようがない。

 

f:id:mclean_chance:20180312153630p:image

犯行計画になると、突然アングルが俯瞰になります。うまいですねえ。

 

そして、前科者が100ポンドを懐に入れて初めてサントラ。

精緻に狂っております。

この冒頭のサスペンスのうまさは、彼の作品史上でも屈指だと思います。

それはすなわち、映画史上屈指の出来ばえという事ですが。

そして、後半の犯罪シーンと二転三転するサスペンス(ここからは実際にご覧になってください)。

見た目は一見、端正なハリウッド映画なのですが、その内実はかなり変態的で、それは別に『サイコ』や『鳥』のようなショッキングな作品だけでなく、彼の作品に一貫しているものです。

このアブなさが、観客を魅了し、んと、ゴダールトリュフォーすら虜にしてしまったんですね。

映画はほとんどが主人公の自宅のリビングしか出て来ず、同年に作られた『裏窓』(こちらはパラマウント作品)と対をなしておりますね。

『裏窓』はスチュアート/ケリーで犯人を捕まえるお話であり、スチュアートの自室とそこから見える景色だけで成り立っており、本作はミランド/ケリー主演で、ミランドの完全犯罪がリビングで行われるというお話です。

サスペンスというものを映像に於いて、極限の至芸にまで高めてしまった監督のすごさをご堪能下さい。

 

f:id:mclean_chance:20180312153814j:image

それにしても、ジェームズ・スチュアートにしか見てませんね。 

 

f:id:mclean_chance:20180312153832j:image

完全犯罪は成功するのか?

カズオ・イシグロがノーベル文学賞とったと思ったら、監督のアイヴォリーまでアカデミー受賞でした。

ジェイムス・アイヴォリー『日の名残り

 

f:id:mclean_chance:20180307204145j:image

スティーヴンスが仕えるダーリントン卿の邸宅。

 

ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロ(彼を日本と結びつけて考えても仕方がないと思います)原作の小説の映画化です。

「マーチャント・アイヴォリー・プロダクション」による傑作の1つであり、アイヴォリーの監督としてのピークは、80年代後半から90年代と見るべきでしょう。

1928年生まれですから、世界的に脚光を浴びるようになったのは結構遅かったんですね。

クリント・イーストウッドよりも更に2歳年上です。

アイヴォリーは60年代から映画を撮っていて、そこそこの評価はあったんです。

しかし、世界的な評価となると、やはり、『眺めのいい部屋』以降でしょうね。

かなり大器晩成型の映画監督です。

本作は、そんな絶好調時代のアイヴォリーの代表作の一つと言ってよいでしょう。

ダーリントン卿という貴族が亡くなって、相続する者もなく、邸宅は人の手に渡ってしまいました。

 

f:id:mclean_chance:20180307204425j:image

競売に出させる絵画を買い取るルイス。

 

その屋敷を買い取ったのは、アメリカで政治家をしていたルイスという男で、実はダーリントン卿の知り合いでした。

卿に仕えていたスティーヴンスは、そのまま、ルイスに仕える事になりました。

 

f:id:mclean_chance:20180307204512j:image

ルイスに仕えるスティーヴンス。

 

ルイスは若い頃、この邸宅を訪れ、演説をしたんですが(どんな演説をしたのかはご覧ください)、その「古き良き時代」が忘れられず、人手に渡るくらいなら、自分で買い取ろうと思ったんですね。

そして、お話はそんな2人がまだか若かった、1935年の頃を回想していきます。

1935年のヨーロッパ。というのは、大変危機的な政治情勢がありました。

ヒトラー率いるナチスが議会で第1党となり、ヒトラーが首相となると、あっという間に合法的に独裁体制を築き、驚異的な経済成長を遂げました(フォードやデュポン、JPモルガンという、アメリカ資本の支援があったからだと言われています)。

 

f:id:mclean_chance:20180307204608j:image

ダーリントン卿。平和主義の立場をとります。

 

英仏を中心とするヨーロッパは、コレと対立することを恐れ、融和的、妥協的にナチスドイツに接しておりました。

ダーリントン卿も、そういう考えに基づいていました。

1935年に、ルイスなどの各国の有力者を邸宅に招き、ドイツとどのように接するべきかを議論したんですね。

 

f:id:mclean_chance:20180307204714j:image

あくまでもドイツの苦境を 助けようとする卿。

 

ヨーロッパ各国はヒトラーの恐るべき野望を理解せず、大変寛容な態度を示していました(ナチスドイツの中核は、およそドイツの名門とは程遠い連中の集まりでしたから、ハナからバカにしている側面もあったと思います)。

ルイスはコレに大変な危機感を覚えましたが、貴族的なサロンの場であるため、ルイスの立場は完全に浮いてしまっていたんですね。

 

f:id:mclean_chance:20180307204848j:image

 ルイスの危機感は現実のものとなる事はご存知の通り。

 

執事のスティーヴンスは、鋼鉄でできたような職業倫理を持っている男で、自分の父親が亡くなっても仕事を優先し、長年一緒に働いてきた同僚の女性が結婚して邸を去ろうとしても「ああ、そうですか。おめでとう」と言って仕事に戻ろうとするほど、主人に仕える事に身を捧げきっております。

 

f:id:mclean_chance:20180307205341j:image

常に完璧に仕事をこなすスティーヴンス。

 

ダーリントン卿がナチスドイツに対して、明らかにお人好しになりすぎている事もスティーヴンスにはわかっていたんですが、それを一切口にはしません。

 

f:id:mclean_chance:20180307204703j:image

よーく見ると、スティーヴンスの目は笑ってませんね。

 

彼がなぜここまでの人間になって言ったのかは、本作では語られません。

しかし、そんな彼が唯一心を動かされていたのが、一緒に働くサラであった事が本作の核心です。

 

f:id:mclean_chance:20180307205311j:image 

 

f:id:mclean_chance:20180307205108j:image

 

強固な倫理観を持つスティーヴンスは、表面上の感情は余り言動としてほとんど出てきませんが、ガラにもなく恋愛小説をプライベートな時間に読んでいたり、仕事上のミスはほとんどない彼が、首相たちに振る舞うワインを落としてしまったりと、実は、彼にも人並みの感情が間違いなくある事が、わかります。

コレを名優アンソニー・ホプキンスがやるのですから、もう見事という他ありません。

それにしても、貴族でもなく、生まれは日本というカズオ・イシグロが、1930年代の不穏な世界情勢とコレに翻弄されるイギリスの貴族社会を小説にしたというのは、驚くべき事ですが、コレを映画化しているのが、なんと、カリフォルニア州バークレー生まれのアメリカ人監督である事も、これまた面白いですよね。

 

f:id:mclean_chance:20180307205133j:image

現在のカズオ・イシグロ

 

アメリカ的な要素は、クリストファー・リーヴが演じる元政治家だけであり、名前を伏せたら、イギリス人監督が撮ったのではないか。とすら思ってしまいます。

そういえば、かつて、アメリカ人にもかかわらず、英国的な映画を撮り続けていた監督がいましたね。

ジョセフ・ロージーです。

彼の全盛期の頃にコンビを組んでいた脚本家はハロルド・ピンターですけども、実は、ピンターが脚本に協力していたようです。

ピンターは赤狩りでアメリカで映画を撮れなくなった、ロージーと組んでいたので、アメリカ映画界からは決してよくは見られていなかったんですね。

よって、映画のクレジットでも、名前をのせなかったのでしょう。

本作の影の功労者は、実は、ピンターだったんですね。

これ以前のアイヴォリー作品には足りなかった人物描写の彫りの深さが一段とましたのは、やはり、ピンターの協力なくしてはあり得なかったでしょう。

そんはアイヴォリーが、2017年度のアカデミー賞で89歳にして、久々にノミネートされ、脚色賞を受賞したのは、ホントに立派ですね。

こういう恋愛の形もあるのだ。と、ジンワリと染み込んでくるオトナの映画でございました。

 

f:id:mclean_chance:20180307205243j:image

 

御大、ますます軽快にしかも実験的になってきました。

クリント・イーストウッド『15時17分、パリ行き』

 

※公開されたばかりの作品ですので、絵は載せません。あしからず。

 

 

2015年8月21日、アムステルダムからパリに向かう高速鉄道タリス内で実際に起こったテロ未遂事件についての映画化で、ここのところ、イーストウッドは実話モノが続きますが、今回の最大の特徴は、列車内でテロリストを食い止め、撃たれた人を応急処置した人たちを張本人が演じているというのがすごいところです。

つまり、当人たちによって再現されてる映画。という、ものすごい映画でして、本作を映画化するに当たってイーストウッドが主要の3人に取材しているうちに、「じゃあ、君たちが演じてくれよ」という事になってしまい、イーストウッド作品史上初めて、主演が完全なシロウト。という映画となりました。

 

f:id:mclean_chance:20180301181215j:image

左から、アレック・スカトロス、ウィリアム・サドラー、スペンサー・ストーン。当人が実際に演じております。

 

お話は列車内でのシーンだけでは映画の尺が足りませんから、3人の中学生くらいからの生い立ち、そして、その3人がヨーロッパ旅行を楽しみ、その時にこの事件に遭遇してしまったという、筋立てになってます。

それを100分弱でサッとまとめてしまう、イーストウッドの手腕は相変わらず冴えています。

当然のことながら、コレは実話なので、前半に伏線はほとんどありません。

スペンサー・ストーン、アンソニー・サドラー、アレック・スカトロスの3人は幼馴染みで、どこにでもいそうなごくごく普通のアメリカ人です。

スペンサーとアレックスがたまたま軍人で柔術を心得ていた事と、武器の扱い方、負傷者の応急処置ができていたというのが、無差別殺人を食い止める事ができた最大の要因ですね。

このさりげない出来事があのテロ阻止には全て役立っているという事に、よくよく考えてみると構成がかなり巧みです。

当然、見所はそのテロを阻止するシーンではあるんですが(ジェイソン・ボーン・シリーズみたいなすごいものではなくて、モタモタ、オタオタしているのをそのまんま撮ってるのがものすごくリアルです)、それ以上によかったのが、3人のヨーロッパでのバカンスの再現が面白かったです。

ヴェネツィア、ベルリン、アムステルダムと観光しているんですが、この一切その後の大事件に巻き込まれていく予兆ゼロのマッタリ感を、当人がやってるというのが、実にいいんですね。

あんまり作り込まず、現場にはそれほど多くのスタッフがいない感じでササッと撮っているのですが、適当だったり、安っぽくならないのが上手いですねえ。

スペンサーとウィリアムがヴェネツィアでLAの女の子と偶然知り合って3人デートしちゃうところとかもよかったですし、御歳87のイーストウッドが、アムステルダムの爆音のクラブのシーンを撮ってるとかも楽しいです。

最後は、ちゃんとフランス大統領オランドが出てきて(実際の映像と撮影を巧みに合成しています)、3人と偶然居合わせた1人にレジオン・ドヌール勲章を受章する場面で本作は終わるのですが、イーストウッドは、英雄譚を描きたかったのではなく、このような名もなき人々の中にこそ、素晴らしいモノがあるという事を厳かに言いたかったのであり、それは、前作の飛行機事故を見事にハドソン川に軟着陸させたパイロットのお話以上に、より強く言いたかった事なのかもしれません。

イーストウッドおじいちゃんからの、「アメリカはまだまだこんなものではない」という宣言のような、しかも相当な実験作でもあったという小傑作でありました。

 

f:id:mclean_chance:20180301181359j:image

 実際にレジオン・ドヌール勲章を授与された後の写真です。