本年のベストと言える傑作!なのだがががが!

スパイク・リー『デイヴィッド・バーンのアメリカン・ユートピア

 


本作は2018年に発表された、デイヴィッド・バーンのアルバム、『American Utopia』のいくつかのライブの様子を撮影した作品です。


ただし、ライブの模様を撮りました。的なラフなものでは決してなく、相当に用意周到な準備のもとに作成されたもので、もともとのライブも、バーン以下、ミュージシャンやダンサー、照明などなど、相当なリハーサルがなされた、近年稀に見るような完成度を誇るライヴであり、それを撮影するために、用意周到な準備がスパイク・リーとバーン双方によってきめ細やかになされたものである事は、完成された作品を見るに、想像に固くないです。


率直に言って、一体、どうやって演奏し、しかも、機材トラブルもなく音がアウトプットされているのか、どうやって撮影しているのだろう?と思われるようなシーンの連発で、まずその技術のすごさに驚いてしまいました。


というのも、ライヴには、当然ながら演奏するための機材が多く持ち込まれるのですが、それらに一切配線がないのです。


要するに、すべて、ワイアレスで繋がっているのですが、それは必然があってやっています。


バーンは、「ライヴというのものは、何を見にきているのだろう?」と今回のツアーをするにあたって考えたらしいのですが、彼の結論は「人を見に来ているのだ」というシンプルなものでした。


なので、それ以外の要素はすべてステージから消してしまおう。と考え、まず、楽器やPAがステージから消え、ミュージシャンたちも全員同じ色の衣装を来て、ステージを自由自在に動けるようにしました。

 

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パッと見ると、ロックのライヴに見えません。

 


ドラムセットすら解体し、この人はスネア、この人はバスドラ、この人はパーカッションと、打楽器群をまるでニューオリンズセカンドラインのように分担して、身体に固定して動き回れるようにしているんです。

 

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キーボードもそうしています。


コレによって、ミュージシャンがステージを目一杯使って動き回るのですが、その動きはすべて事前に決められたもので、驚くほど統率が取れています。

 

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こうなるとステージ上には、全く何もなく、色も単色で、ステージの背後に簾状のカーテンがあるだけです。


コレも重要でして、コレまた極めて計算されて動き回るミュージシャンの動きにピッタリと合わせた照明の演出が寸分違わず行われるのです。

 

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このすべてが完全に計算され尽くした演出には、正直、唖然としっぱなしでした。


しかも、演奏もバーン以下、誰一人としてよたっているひとがおらず、鉄壁の演奏です。


バーンのヴォーカルは、アルバムでのものよりも遥かに若々しく、力強いのに驚きます。


アルバムのバーンは、ある意味、年相応のヴォーカルでして、それはそれでしみじみとした味わいがあって私はとても好きなのですが、ライヴでのバーンの声の張りは、まるで、トーキング・ヘッズの頃のようであり、出来のよいものをチョイスしているとは言え、コレだけ計算しつくしたライヴでは曲順はそうやすやすと変えられないでしょうから、後半では声が出なくなってくるのかと思いきや、一切そういう場面が無いのです!


Protools などでピッチは修正はしていると思いますが、コレは驚異でした。


また、レコ発ライヴなので、新作をメインとしたライヴなのですが、トーキング・ヘッズの初期から現在まで満遍なく選ばれた曲の演奏に全くバラつきがらなくまるでこのライヴのためにすべて作曲されたようにアレンジされている事にも驚きました。

 

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トーキング・ヘッズと言えば、『Remain in Light』がオススメです!


ほとんど観客を写さず、ステージを映すことに徹したキャメラワークも素晴らしいですね。


観客は映画館にいる皆さんであるという事であり、殊更見せる必要ないという徹底したものです。

 

それにしても、バーンとスパイク・リーというのは、2人のこれまでのキャリアを考えるとともにニューヨークを拠点にしている事くらいしか共通点は見出せません。

 

バーンはニューヨークのミュージシャンらしく、恐らくは民主党支持者でしょうし、ライヴ内でも、若い人たちが選挙(とりわけ、州の選挙)に投票する事の大切さを訴える場面があるものの、彼の音楽はそれほどダイレクトに政治や社会へのメッセージを伝えるようなものではない事は、トーキング・ヘッズ時代から一貫しているような気がします。

 

コレに対して、常にアメリカ(とりわけ白人優位社会である事に対してですが)への怒りを常に作品の中でぶつけている、スパイク・リーは、水と油であるように思えます。

 

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近作『ブラック・クランズマン』は久々の快作でした。


しかしながら、リーはバーンの計算され尽くした世界を非常に的確に撮影するという仕事に徹しきっていて、ある意味、彼の作品の中で最も職人的な仕事に徹しきっています。


が、しかしながら、やはり、スパイク・リースパイク・リーでして(笑)、どうしてもBLMを無理くりねじ込んでくるんですね。

 

私は映画に政治的メッセージを込めるな。というつもりはありませんが、バーンの極めて穏健的な政治姿勢と、普段のリーの言動はどうやっても折り合いがつくとは思えません。


バーンとしては、スパイク・リーを起用するという事は、BLMをダイレクトかつ強烈に押し込んでくる事は折り込み済みだったと思います。


バーン自身もライヴ内で「私自身も変革しなくてはならない」と言って、ある曲をカヴァーするのですが、それは明らかに全体の流れを悪くしており、リーが後で撮影した絵も、とても違和感がありました。


本作の最大の社会的メッセージは、「私はスコットランド人で、アメリカに帰化しました。そして、バンドのメンバーは、カナダ人やフランス人、ブラジル人と外国人ばかりです。彼ら彼女らがいなければ、このバンドは成立しません」というものであり、明らかにトランプ大統領の移民排斥への批判を行なっているんですね。


当然ながら、ここにはBLMへの批判が包含されているはずなのです。


彼は黒人だけでなく、ありとあらゆるマイノリティへの寛容の精神を訴えているわけです。


そんな移民国家アメリカを「Utiopia」とすら呼んでいるバーンの音楽に、殊更、BLMのダイレクトなメッセージを込める意味は私には必要ないと思いました。


私には、とてもワザとらしく、薄っぺらいものに感じてしまいましたし、コレがアナタの望んでいたのものなのですか?とリーには言いたくなります。


リーに言いたいのは、映画というのは、政治的プロパガンダではないのではないですか?そんな程度の低いものですが、映画というのは。という事なのです。


彼の怒りは、アメリカという国のありようを見ていれば、イヤというほとわかりますし、私たちアジア系の人間が一部の白人たちから向けられる眼差しもまた同じである事であるも知っています。


それでも、私は映画人としての彼が時折映画の中でやってしまう事は容認しがたいものがあります。


些か個人的な怒りが過ぎましたが、以上の点を除けば、信じがたいクオリティの作品であり、しかも、映画館で体験する事こそが最良の経験と思われるのです。


客観的に言って、本作はスパイク・リー最高傑作と言ってよく、ジョナサン・デミを世界的に有名な監督に押し上げた、ライブ映画の傑作、『ストップ・メイキング・センス』と双璧と言ってよいのではないかと思います。  


とにかく、映画館で上映されているのでしたら、万難を拝して見るべき作品であると思います。

 

 

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本作を出したレーベルが「todo mundo」なのを、リーはもう少し考えるべきです。