パオロ&ヴィットリオ・タヴィアーニ『サン・ロレンツォの夜』
この少女が見た戦争の回想です。
イタリアへの連合軍の上陸、すなわち、第二次大戦の末期のムッソリーニ政権の断末魔時代を扱った名作は結構多いです。
パゾリーニの遺作『ソドムの市』は、サドの小説を「サロ政権」に置き換えて描いた衝撃作ですし、サミュエル・フラー『最前線物語』は必ずしも、そこだけを描いているわけではないですが、リー・マーヴィン達が出産に立ち会ってしまうシーンがのとても印象的でした。
また、ベルトルッチの大作『1900年』は、20世紀のイタリアの、南部の農村を描いており、当然、この時代が描かれるわけです。
そして、そこにタヴィアーニ兄弟の本作も入るわけですが、視点が彼ららしいユニークさと貧しい庶民への温かい眼差しがありますね。
ある女性が6歳の頃に体験したことの回想となっています。
連合軍が日に日に村に近づく中、教会でできちゃった婚をせざるを得ないカップルから話は始まります。
神父さんも、「こんな時にしょうがないなあ〜」と、防空壕からいそいそと出てきて大忙しで教会へ。
このなんとも言えないほのぼの感が素晴らしいですね。
村は、ドイツ軍(北イタリアに軍事拠点を持って、連合軍に抵抗しているんですね)の判断でしょうけども、爆破してしまう事になってしまいました。
どこか他の場所でやってもらいたいものですが、「総力戦」ですから、何もかもつぎ込んで、そして、相手がギプアップするまで終わりませんので、そうなるまでトコトン攻撃はとまりません。
そこにパルチザンと思しき若者が戻ってきました。
爆破される事は知らなかったようです。
さて、ドイツ軍は、とうとう村を爆破すべく、住民を聖堂に集めろ。と命令します。
イタリア人は、事実上、ドイツ軍に徴収されてこき使われていて、この村の爆破の手筈も、結局のところは、イタリア人がやっています。
なぜ、こんな事をするのかというと、村を残すと、パルチザンの拠点にされてしまうからですね。
しかし、コレに納得できないカルヴァーノ(オメロ・アントヌッティが演じます)が村から逃げ出してしまおうという大胆な事を言い出します。コレに結構な村人(女性も含む)が賛同してしまいます。
あの、結婚した2人もいます。
黙っていたら、家を爆破されてすべてを失ってしまうのですから、猛然としているんですね。
その闇夜に隠れての同中の描き方も実にほのぼのとしていて、凄絶な覚悟がアンマリないところが、むしろ、リアルですね。
しかし、やがて、黒シャツ隊(ファシスト等の親衛隊です)が逃亡した村人の存在を知り、捜索を始めました。
黒シャツ隊の捜索を知ると、村人から脱落者が出始めました。
そして、午後の3時、逃げずに聖堂に集まった村人達は、なんと、逆に聖堂を爆破されてみな殺しにされてしまいます。
カルヴァーノの予感は当たっていたんですね。
初めから村人を謀殺する事だけをドイツ軍は考えていたのです。
神父すらまんまと騙されていました。
逃げる村人達も、疲労と空腹で次第に弱っていきますが、そんな彼ら彼女らを、爆撃してでも殺害しようとしています。
しかし、ようやく、「ダンテ党」という、ファシストに抵抗しているグループと出会う事ができましたが、彼らもドイツ軍の略奪に備えて小麦を早めに収穫して、隠すのに必死です。
ドイツ軍の空からの捜索をかわしながらの農作業は、凄絶なはずなのですが、そういうシーンを敢えて呑気に描くところがタヴィアーニ兄弟の卓越したところですね。
この映画のタイトルである、「サン・ロレンツォの夜」とは、8月10日を指しまして、この日に星にお願い事をすると、願いが叶う。
という言い伝えのようです。
1944年8月11日。
村人の子供2人がとうとうアメリカ兵に出会います。
そして。。
という所でストーリーを追うのはやめましょうか。
恐らくは実話なのでしょう。
タヴィアーニ兄弟は、この農民たちの勇気を、古代ローマの勇敢な戦士として讃えるんですね。
このお話での「悪」とは、「卑怯」であり、ファシスト達を断罪はしていません。
決して、歴史の教科書に載ることのない小さな出来事の中に、偉大なる精神を見ました。
今こそ、この映画の意味がと問われているのですね。
タヴィアーニ兄弟は、ファシストとは何であったのかは、具体的には一切描いていません。
ただ、普通の人間として描いています。
普通の人間同士が憎み合って殺しあうのが戦争というものである。という、決して声高ではありませんが、とても力強い信念ですね。
タヴィアーニ兄弟は、ファシストたちすら愛をもって見ているのですね。
それを甘い。と考えるかはどうかは皆さん次第でしょうね。
オメロ・アントヌッティ。 ただのオッサンなのがいいですね。