グレタ・ガーヴィク『Little Women』
この原題でないと、ラストの意味が失われるので敢えてこうしました。
幾度となく映像化されてきた、ルイーザ・メイ・オルコット『若草物語』の映画化。
何の予備知識もなく見始めた最初の印象は、正直、
「なんだかいそいそとして、堪能できないなあ」
というもので、よくなかったです。
しかし、もう少し我慢して、この悪印象について付き合ってもらいたいのですが、コレはガーウィグ監督の意図するところなんですね。
現在のニューヨークで仕事を掛け持ちしながらも短編小説を書きながら生きているジョーと、伯母に連れられてフランスに渡っているエイミーの現在と7年前のマサチューセッツ州のコンコードでの4姉妹の楽しい生活という、この三場面がものすごいスピードで切り替わりながら進んでいき、およそ、19世紀後半の人々の時間感覚ではなく、完全に21世紀の現在の感覚ですね。
おなじみ、メグ、ジョー、ベス、エイミーの4姉妹。
しかしながら、映像それ自体は、時代考証もしっかりとしたもので、19世紀のままなのです。
ココが面白いですね。
バズ・ラーマン『Romeo+Juliet』はセリフはシェイクスピアのままで、完全に現在を舞台としていましたね。
映画は過去と現在が目まぐるしく変わっていくので、ボヤッとしていると、同じ人物が過去も現在も演じているので、わからなくなりそうになりますが、軸にあるのは、ジョーのニューヨークとコンコードの生活と、パリで大おばと生活する四女のエイミーの対比で、ここに、ローリーとの三角関係を作っての、かなりのスピード感のある恋愛物語なのです。
実際には地理的な距離があるのですが、時間軸が自在に動く事で、空間的にも自由になっていき、ちゃんと恋愛ドラマになっています。
しかも、ここに目いっぱい原作の様々なエピソードをドンドンと放り込んでいくので、相当な情報量なんですね。
見ていて思い出すのは、昨年、史上最低の低視聴率を誇りながらも、一部で熱狂的なファンを生み出した大河ドラマ『いだてん』ですね。
原作のいわゆる第三若草物語のベア学園のところまでを140分ほどで駆け抜けているのですから、それはギュウギュウです。
しかし、古典文学の持つ格調の高さとか、ピューリタニズムとか、そういう本作の持つ部分を監督は呆気なく捨て去っている事にだんだんと気がついてくるんです。
そして、過去が猛烈なスピードで現在に追いついていくような構成がやがて過去と現在がほとんど一つになっていくところからが、実はこの監督の描きたかったところなんですね。
それが見ていてだんだんとわかってきて、コレは古典文学の構造から揺るがしていって、とうとうジョーなのかオルコットなのかが、もう混濁してしまって、見事に改変されたラストに結実していきます。
この監督のもはや使い古されたタノではないのか?と思われた題材から、ものすごいモノを、しかも取ってつけたようにくっつけるのではなく、恐らくは結末から考え、結末にいかに必然性を持たせるのかに考えに考え抜かれた、敢えてのスピードと情報過多。
そして、この斬新な構成に説得力を与える見事なキャスティング。
当然ながらですが、シアーシャ・ローナン演じる、ジョー・マーチなくして、本作は有り得なかったでしょう。
見事にジョーを演じきった、シアーシャ・ローナン。ガーウィグ監督の前作でもコンビでした。
アカデミー主演女優賞は、当然です。
時々ジャンヌ・モローなのでは?と思われる、フローレンス・ピュー演じるエイミー、ローラ・ダーン演じるマーチ夫人、そして、大おばを演じるメリル・ストリープも、さては、「ポスト・マギー・スミス」を狙っているのではなきのか?という好サポートも素晴らしいですね。
ジャンヌ・モローに見えてきて、見続けるともうモローにしか見たなくなる、エイミー。
ローラ・ダーン演じるマーチ夫人。
アレクサンドル・デスプラの音楽は、やや貼りすぎですけども、とても素晴らしいですね。
この貼りすぎだけが本作の欠点でしょう。
余談ですが、エイミー役がジャンヌ・モローと言いましたが、ジョーは、ジョン・レノンにしかみえません。
レノンとモローとティモシー・シャラメによる、「シン・トリュフォー映画」という側面も本作はあるのでした。
なぜか、「ビートルズ感」があるんですよね。それはジョーがレノンにしかみえないからなのです!