高畑勲『ホーホケキョ となりの山田くん』
こんなスカスカな絵をスムーズに動かすのは、正気の沙汰ではない。
「もうリアリティは極めた」とし、線のヨレ、色のムラをそのまんま活かした動画。という言葉にしてしまえば簡単ですが、実際の作業はほぼ冥府魔道。というケタ外れに容赦のない事を要求した、今もってこんな途方もない事を商業映画で実行した監督は世界的に見てもいないという作品。
しかし、その努力が見ている側には、単に「スカスカした絵が動いているだけの散漫な作品」にしか見えなかったため、興行的にも惨敗したのではないか。
ジブリ作品。というと、どうしても宮崎駿のメリハリがシッカリとした、昔ながらのアニメの絵が驚異的に動き回るものをよくも悪くもイメージしてしまい、高畑が追及する世界との齟齬があまりにも大きくなってしまった事が原因であると思います。
この作品が、『じゃりン子チエ』の直後であったならば、まだ、「高畑勲の世界」として確かに受け入れられ、あそこまで興行が悪くはなかったのかもしれない。
わ
高畑勲には、2つの重要な世界があります。
1つは『アルプスの少女ハイジ』にからある、非常に精緻な構成の中での、少女の成長物語です。
ほとんど弁証法的と言ってよいほどの構成力を持つ傑作、『アルプスの少女ハイジ』
『赤毛のアン』そして遺作となった『かぐや姫』はまさにこの系譜であり、よく考えるとすべて文学作品ですね。
もう一つが『じゃりん子チエ』をテレビアニメ化したもので、本作は明らかにこの系譜の作品であり、連載マンガのアニメ化です。
中山千夏、西川のりおの声優起用が見事にハマった『じゃりン子チエ』。
前者の二つのテレビアニメは、宮崎駿を場面設定として起用している作品でもあり、このコンビの最良の仕事でもあります。
この二つの作品の決定的な違いは、世界観の違いですね。
前者は驚くほど精緻な構成で作られていて、一話たりともダレや間延びがないです。
最近、改めて『ハイジ』を見て、特に前半のオンジとの山小屋の生活を丹念に描いている前半がこんなにミニマルな話なのに、全くつまらなく場面が無いことに心底驚きました。
『赤毛のアン』などは友人のダイアナが出てくるのはなんと第9話です。
それまで、アン、マリラ、マシューの3人に何人かのゲストキャラクターがいるだけです。
週1回の放送だったわけですから、2ヶ月いっぱい、アンの心の友、ダイアナは出てこないんです(会話の中には出てきますが)。
19世紀後半のカナダの田舎の時間感覚をホントに表現しているんですね。
『ハイジ』で確信を持った高畑が、更に大胆に時間感覚というものに挑戦したわけです。
それに対して、ある意味、どこから見ても話についていけると言ってよい、循環的、もしくは前近代的な時間観念が支配しているのが、『じゃりン子チエ』であり、『となりの山田くん』です。
『チエ』の主人公チエちゃんは大阪に住んでいる小学校5年生のままであり、『山田くん』の登場人物も年齢が変わることはありません。
『チエ』はまだ一話完結型のマンガですから、まだ、各話の起承転結がありますが、『山田くん』は、『朝日新聞』に掲載されている四コマです(のちに『ののちゃん』に改題し、現在も連載中です)。
要するに、物語に何か中心になるようなものを何も置くことができないし、起承転結もないわけですね、もはや。
敢えて似てる作品といえば、小津安二郎『お早よう』であろうが、アニメでそれをやろうというのが普通ではないのです!
コレを映画という形で提示してしまった事がより無謀でありました。
コレがNHKの何かの番組のつなぎの5分間ほどのアニメの連作として作っていたら、よかったのかも知れません。
しかし、前述した苛烈な作画への要求はもはやテレビでは実現不可能であったわけですね。
意図して、単なるエピソードの羅列とし、何の起承転結もなく、ラストに「適当」という、メッセージを示して終わる。というのは、いくら何でも人を食い過ぎでありました。
が、そう言った諸々のディスアドバンテージが高畑の死によってすべてが外れ、要するに一つのテクストとして本作に改めて向かうと、本作のとてつもなさ、そして、遺作となる『かぐや姫』への布石はすでに本作で打たれていた事がイヤというほどわかる作品であり、やはり、天才の偉大な仕事である事がわかるわけです。
ジブリらしいアクションシーンは意外とありますが、この絵でやっているのが、尋常ではありません。
一見、単なるエピソードの羅列に見えて、やはり、構成力の見事さははっきりされていて、そこは場面のリズムや間だけで最早ダレないように作り上げているんですね。
そして、サントラの使い方の絶妙さ。
高畑作品に一貫している、耳の良さと趣味の良さはこの作品でも見事に発揮されていて、どこにでもありそうなエピソードにワザとマーラーの交響曲という、ドラマティックの極みのような音を敢えて当てるとか、矢野顕子の歌を、浮遊感のある映像に当てるなど、ホントにうまい。
鉛筆でササっと描いて、水彩絵の具でサッと色を塗ったような動画がタンゴを踊ったり、荒波を超えるような、いかにもジブリっぽいダイナミックな絵を挿入したりして、決して単調な動画に落とし込まないんです。
この辺は宮崎駿への対抗意識もあるのかも知れません。
ファンタジックな事は私にだってできるのだと。
声優はプロフェッショナルを敢えて起用しない。という方法論は、『チエ』で確立した大胆な手法ですが、あそこまで過激ではありませんが、やはり、プロの声優ではないのに、違和感がないどころがピッタリ過ぎてプロを起用していないことに気がつかないくらいで、それってよく考えてみたら、更に凄くなっているのではないか。
で、この手法を宮崎駿も使うのですが彼の作風には、ちゃんとした声優をキャスティングした方が私はいいと思います。
このプロを使わない手法は、やはり、『かぐや姫』でも一貫していています。
それにしても、やはり、根本的な疑問は、何故に新聞の四コマ漫画を原作とするという作品を作ったのか?という問題がどうしても解消しません。
この、何という事もない一家の日々の断片集を以て、大袈裟に言えば、人間の生というものの全肯定を描きたかったのでしょう。
そういうものを描く事に、アニメーションというものは向いていないのではないか?やはり、超人的な主人公が飛んだり跳ねたりする活劇こそがアニメの本領なのではないのか?というものへの解答を作品として提示したという事なのかも知れません。
それをジム・ジャームッシュのようなオフビートなコメディでもなく、ありきたりな出来事の積み重ねとして描くという、ある意味で絶壁に敢えて爪を立てて登ろうという挑戦ではなかったのでしょうか。
同じ場面をシリアスとコミカルに巧みにかき分けているのですが、コレは必見です。
『ジャリん子チエ』で作り上げた手法を更に極限までおしすすめた、ものすごく過激な、故に、大衆的な支持は失ってしまわざるを得ない、恐るべき作品。
今こそ再評価したいですね。