トッド・フィリップス『JOKER』
アーサー・フレックはいかにしてジョーカーとなりしか。
「このモンスターはいかにして生まれたのか?」を作って大失敗した双璧が『スターウォーズ』1~3部と、『羊たちの沈黙』の前日譚、『レッド・ドラゴン』でしょう。
それぞれ、ハリウッドでも最強クラスの悪役である、レクター博士、ダース・ベイダーが如何にして生まれたのか?を描いた作品なのですが、それを見せちゃったら、種明かしした状態で手品を見ているのと同じなのであって、どう上手くやっても面白いはずがありません。
本作の大前提にあるのは、どう考えても、クリストファー・ノーランが作った『バットマン三部作』の第2作目、『ダークナイト』で、ヒース・レジャー演じるジョーカーの鬼気迫る、狂気のキャラクターでしょう。
しかし、そのタネを明かしてしまったら、やっぱりダメなのでは。。と、私も思いました。
が、映画館で見る予告編でのホアキン・フェニックス演じる、アーサー・フレック=ジョーカーは、ヒース・レジャーのソレとは全く違う狂気が漂っていて、単に、ノーラン版の前日譚みたいな安易な企画ではないのでは?という予感がありました。
すると、本作が、なんと、ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞をとってしまい(最高賞です)、アメコミをベイスとした映画で史上初めてメジャーな映画祭の大賞を受賞してしまったのです。
後で知りましたが、監督のトッド・フィリップスは、初めからホアキン・フェニックスにアーサー=ジョーカーを演じてもらう事を想定して脚本を書いていて、相当な熱量で彼にオファーをかけて出演を説得したそうです。
本作の凄さは誰にも分かると思いますが、ホアキン・フェニックスの凄まじい演技ですね。
突然笑い出してしまう障害をもつ、アーサー。
あることが原因で、突然笑いが止まらなくなってしまうという障害を持ちながら、ピエロのアルバイトをしつつ、スタンダップ・コメディアンを目指しているというアーサー・フレックという、不運と不幸が車輪のように回転している男を演じているのですが、この男の不気味さは、まず、その、突然笑いだすというところにもあるのですが、極端なまでにガリガリに痩せていて、しかも身体の動きがホントに薄味悪いのです。
こんなに肉体の動きで不気味さを表現したジョーカーはなかった!
役作りで痩せたり太ったりして、人々を脅かす人は今ではたくさんいますけども、元祖はなんといっても、ハリウッドでは、ロバート・デ・ニーロですが、ホアキンのそれは、その痩せた身体を実に不気味に見せる事を意識しているんですね。
痩せたり太ったりの役作りの次元がかなり違っているんですね。
この辺からして、ものすごいものを感じます。
そして、驚くべきことに、そのデ・ニーロがとても重要な役で出てきます。
「マレー・フランクリン・ショウ」という、ソフィスケイトされた、いわば、大人のお笑い番組の司会者である、マレー・フランクリン役です。
デニーロの出演は驚きであった。
ココでお気づきになると思いますが、デ・ニーロは、マーティン・スコシージ監督『 キング・オブ・コメディ』で、売れない芸人、ルパート・パプキンを演じていて、彼は、「ジェリー・ラングフォード・ショウ」という番組に出演するために、司会のラングフォード(ジェリー・ルイスが演じてます)を誘拐までしてしまうという、かなり狂気じみたキャラクターです。
ルパート・パプキンの妄想部屋は必見です!
パプキンに誘拐されてしまう、ジェリー・ルイス演じるラングフォード。
マレー・フランクリンは、あたかも、パプキンのその後のようにも見えるんですね。
そして、アーサーはマレーの番組への出演を夢見ているんです。
本作は、まず、『キング・オブ・コメディ』が下敷きにある作品なのです。
そして、やたらと上半身裸でテレビを見ているシーンがよく出てきますけども、コレは明らかにスコシージの『タクシードライバー』です。
アーサーのアフリカ系の彼女(ココが微妙なのですが)が頭に拳銃を突きつけて撃ち抜く仕草を手で行うシーンが何度か出てきますが、コレも『タクシードライバー』の名シーンです。
つまり、アーサーは、ルパート・パプキンであり、トラヴィスでもあります。
しかも、ポール・カージーでもあり、ポパイ刑事でもあるのです。
この2人は、それぞれ、『狼をさらば』、『フレンチ・コネクション』の主人公ですが、本作には、ほとんどこの2作と同じシーンがあり、そのもたらす結果がもとの作品よりも大変な事になってしまいます。
ポール・カージー。
ポパイことドイル刑事。
『キング・オブ・コメディ』以外の3作はすべて1970年代に公開された映画であり、すべてヴェトナム戦争で社会的にも経済的にも荒廃した、ニューヨークを舞台にしているてんで、4作は共通しています。
つまり、本作の舞台ゴッサム・シティは、1970年代のニューヨークなんです。
しかし、本作の更なる凄さは、単なるノスタルジーやレトロ趣味なのではなく、この時代に仮託して、現在のアメリカそのものを描いている事なんですね。
『レッド・ドラゴン』や『スターウォーズ』エピソード1~3がつまらないのは、レクターの狂気、ベイダーの悪への転落は結局のところ、ファンタジーだからなのですが、本作は社会的背景があるリアルとジョーカーの誕生が固く結びついているからです。
つまり、本作は、DCコミックや1970年代に仮託した、「ファシズム前夜」を描いているのです。
では、アーサーの狂気の根底にあるのは、一体なんなのか?と言いますと、「自分が存在しているかわからない」という事なんです。
しかし、「それがだんだんと存在を認められるようになってきているので、嬉しい」とアーサーはカウンセラーにいうんですね。
やってしまった事は、不可抗力だったんですけども、それによって、ゴッサムの市民が「よくやった!」「誰なの?」みたいな事になってくるんです(このお話しは、ネットや携帯が出てきませんし、テレビがブラウン管です)。
これまで、説明しておりませんでしたが、アーサーは、先述の突然笑い出してしまう障害もあり、精神的な問題と経済的な問題を抱えていて、市の福祉サービスとして、無料の処方薬とカウンセリングを受けています。
アーサーは、単に売れない芸人。というだけではなく、社会的に存在していないような扱いなんですね。
私は存在しているのだろうか?
まるで、若い頃、売れない画家をやっていた、アドルフ・ヒトラーのようです。
ピエロで生計をたてながら、コメディアンとしての腕を磨く。
その事へのルサンチマンと彼の狂気が結びついて、あの狂気の犯罪者、ジョーカーとなっていく様が、これでもかこれでもかと描かれているんです。
それは、出生の秘密、幼少期の記憶にまで及ぶんですね。
この階段が実に効果的に使われていますが(芸能事務所の階段もそうです)、オリジナルはコレでしょうか。
しかし、それだけではないところが、本作の更に一筋縄ではいかないところなんです。
見ていて気がついてくると思いますけども、一体、どこからが現実でどこからがアーサーの妄想なのかが、だんだんわからなくなってくるんです。
ソコが実は一番コワい。
実は『キング・オブ・コメディ』も、果たしてどこまでが現実で、どこからが、パプキンの妄想なのかが、判然としません。
売れっ子司会者、ラングフォードに、自分のネタを聞かせるために、自宅でカセットテープに録音するシーンがあるのですが、母親の声がするんですけども、姿が一度も出てきません。
このシーンを見た時、私が思い出したのは、アルフレッド・ヒッチコックの傑作『サイコ』を思い出しました。
古典的名作なので、ネタバレしてもよいと思いますが(知っていても面白いのが古典です)、母親は実は白骨死体になっていて、アンソニー・パーキンス演じる青年が母親の格好をして一体化していました。
ですので、あのシーン自体が、パプキンの妄想であり、『サイコ』へのオマージュではないのか?とすら思えてきたんです。
実は、アーサーも病気の母親と暮らしているのですが、それ自体がアーサーの妄想という可能性すらあるんですね、この作品。ひいい。
本作は、作品の構造上、「狂気と妄想の反復」となっているので、続編など作りようもなく(『もし作ったら、『サイコ』の続編のような惨事となるでしょう)、DCコミック原作の諸作品とも関連づけようのない、「狂ったダイヤモンド」です。
それにしても、こんな救いようのない映画が大ヒットしてしまう世界に生きているという事を、少し考える必要があるのかもしれません。