マノエル・ド・オリヴェイラ『家族の灯り』
1908年生まれ。と言うことは、朝比奈隆とかヘルベルト・フォン・カラヤン、レスター・ヤングと同い年という事です!
気が遠くなる。。
登場人物が少ない映画は、別に珍しくはないですけども、こんな狭い部屋だけで、とんでもなくワンショットが長い映画というのは、見たことがないです。
全編がほぼこの構図です。
たまにこんなショットが入ります。
狭い部屋の中で延々と続く会話(フランス語ですが、おそらく、ポルトガルのお話しです)は、何か脈絡があるわけでもなく、一体コレが何の話なのかも、全く見えない状態で数10分宙吊り状態というものすごさ。
小津安二郎もビックリなほど何も起きないし、アンゲロプロスの驚異のワンショットの意味すら超越した、完全に固定したキャメラの中で繰り広げられる老夫婦と息子の妻の会話。
原作は戯曲だそうですが、こんな視点がほぼ固定された状態というのは、演劇ですら想定していないでしょうから、本作の極端なまでのミニマリズムは、唖然とします。
老人のモノローグになったり、三人の会話になったり、夫婦だけの会話を黙って息子の妻が聞いていたり。
部屋を出たり入ったりするタイミングで、ショットがスッと切り替わり、また、元のアングルに戻ったり。
そういう、恐ろしく淡々としたリズムと積み重ねだけで成り立っている。という、現代音楽みたいな構造の映画でして、齢100を超えて会得したオリヴェイラの境地というものの、とんでもないものを見ているような感じです。
しかし、それを唐突に打ち切るような展開をポン!とやってしまう。
コレは、実際ご覧になっていたいただいた方がいいと思いますが、思わず、ヤラレタ!と必ず思いますよ。
それにしても老夫婦の妻が、クラウディア・カルディナーレという事実にも、仰天してしまいます。
この場面が一番登場人物が多いです。
ヴィスコンティの代表作『山猫』に出てくるあの美しい女性が、ただのおばあちゃんという。
途中でジャンヌ・モローも出てきます。
お話は大きく分けて3つの場面に分かれるのですが、これまで説明したのが、最初のパートです。
残りの2つは実際にご覧になっていただいた方がよいでしょう。
終わり方が見事です。