片渕須直『この世界の中心に』
大楠公飯を食す名シーン。
見てから読むか、読んでから見るか。
は、角川映画が生み出した最高のキャッチコピーであるが(そして、どれだけの人を失望させたのか)、私は、「読んでから見る」を実践しました。
よって、本作の評論は必然的に原作と映画の双方について論じることとなります。
こうの史代の原作である、「大正/昭和〇〇年〇月」という、1話完結のスタイルは、とはいえ、時間は不可逆的に、ある意味冷酷に悲劇に向かって進んでいくのだが、その原作のテンポ感は、映画に於いてはかなり損なわれていると感じられました。
なんとなくせわしなく、情報過多なのですね。
原作のもつ、豊富な時代考証などを取り込みたかったのと、できうるだけ原作のエピソードを取り込みたかったの事が見ていて痛いほどわかったが、私はもっとカットすべきであったと思ったし、情報ももっと捨てるべきであったと思いました。
本作の決定的な問題は、映画という放映の仕方が、原作のあえて、現実のすずたちの日常のホンの一部をかいつまんで、まるで日記を垣間見るように淡々と描かれた味わいが決定的に削がれていると思いました。
私は、できる事なら、1話完結のドラマ形式に作り変えたら、本作の感銘はもっと上がると思う。
あのラストに登場する子供の出現が、どうしてもわかりづらいのが、私にはとてももどかしかったのです。
とはいえ、このような瑕疵をはらみながらも本作クオリティは、近年見た映画の中ではトップクラスです。
この映画を見ていて思い出されたのは、ヴィクトル・エリセ『ミツバチのささやき』という傑作ですが、少女がスペインの内戦と映画『フランケンシュタイン』というフィクションがごっちゃになっちゃになっていくという、厳しい現実を人がなかなか受け入れられないという事を実に繊細に描いていたのですね。
本作で際立つのは、やはり、すず。という、ファンタジックな事にアタマを奪われがちな少女(結婚しているとはいえ、内面はほとんど少女のまんま。というのが、本作のキモです)の声優を演じたのん(aka能年玲奈)の存在が大きいでしょう。
この、主人公すずのほのぼの感が見事。
戦争。という厳しい現実を描きながらも、どこかファンタジックで、水木しげるのマンガのようなとぼけたユーモラスさに満ちているのは、その優れた作画や美術のスタッフの力によるところが大きいでしょうけども、そこにのんという画竜点睛があったればこそだったのではないでしょうか。
このすずの生き方をポジティブ。と見るのは、あまりに表面的であろう。
奇しくも彼女が大スターになるきっかけとなったのは、東日本大地震の前後を描いた素晴らしいファンタジーである、『あまちゃん』でありましたが、その後の諸事情による活動の停滞を遂に打ち破ったのが、まさかの本作だったというのは、驚くほかありません。
原作と大きく違うのは、兵器や戦闘シーンの描き方で、やはり、男性の監督ですので、ここがリアリズムになりますね。
戦艦大和を精緻に描く。
原爆投下前の広島を再現した美術も秀逸。
原作はここをそんなにリアルには表現していません。
その代わり、ラストの伏線になるすずが妊娠できない原因や遊郭で働く女性との交流とその悲劇が丁寧に描かれています。
また、連載ならではのいろいろな原作に於ける脱線は、どうしても映画で表現することは困難であったと思われます。
インターネットの情報によると、現在公開されているものは、止むを得ず30分ほどのカットしてしまったもののようで、今後の興行収益如何では、ノーカット版の上映もあるかもしれないそうです。
あまり、映画の原作を読むようなことはわたしはしませんが、本作は何よりも原作がものすごく傑作ですので、両方ご覧になる事を強くオススメいたします。
できうれは、1話完結のアニメに作り直していただけると、完成度が100倍ほど上がると思われるのですが、ご再考願えないものでしょうか。
2人は結婚しているはずなのに、原作以上に青春恋愛ものを感じさせる。