ルキーノ・ヴィスコンティ『ヴェニスに死す』
高校から大学にかけて一番好きだった映画監督は、ヴィスコンティでした(笑)。
グスタフ・マーラーが好きだったこともあり、もう、飛びつきましたよ、レンタルビデオに(笑)!
もう、何度も何度も見ましたなあ。
映画館でもリバイバルで見ました。
原作はトーマス・マンの同名小説。
新潮文庫版で読みましたが、読みづらくてアンマリ面白くなかったなあ(いい訳があったら、改めて読みたいです)。
原作は小説家なのですが、コレをヴィスコンティがグスタフ・マーラーと思しき作曲家に改変したのが素晴らしいですね。
グスタフ・エッシェンバッハを演じるダーク・ボガートは、ジョセフ・ロージー作品の常連ですでに素晴らしいキャリアがありましたが、ここでの演技は更に素晴らしい。
完全に変態作曲家と一体化してしまっております。
ヴィスコンティは、代々ミラノ公爵家。という、気が遠くなるような名門貴族の出身で、若い頃にイタリア共産党に入党したりと、かなりヤンチャをしてたんですが(「赤い貴族」とゴシップ紙に書かれていました)、結局、彼が描いていて素晴らしいのは、貴族社会でした。
ただし、その貴族社会の没落を描く事に才能が発揮されました。
この映画のすごいところは、140分ほどの上映時間のかなりの部分が、ボガートの一人芝居と言って良い点です。
つまり、すべてが主人公、グスタフ・エッシェンバッハの心象風景みたいなんです。
セリフもとても少なく(実際にはとても会話は多いです。しかし、ほとんどエキストラがサントラとして話しているのであって登場人物のセリフとは言えません)、とにかく映像で伝えようとしている事ですね。
ヴィスコンティにしては、キャメラの動きがとてもゆったりとしていて、よくやる急にキャメラが寄ってのどアップみたいなのがないんですよ。
全編にわたって流れる、マーラーの交響曲第5番、第4楽章のようにゆっくりとキャメラが移動していきます。
フェリーニはロケーション撮影が余り好きではなく、とにかく、ローマのチネチッタでのセット撮影ですが、ヴィスコンティは基本はロケーション撮影でなんでも再現して撮るタイプですが、本作でもヴェネツィアのリド島を、20世紀初頭にして撮影しております。
そのホンモノ感は、ちょっと今見ても唖然としますね。
ワンシーンのためだけに出てくるようなエキストラにも、上流階級の格好をさせているわけですから、ちょっと桁はずれです。
というか、もうこういう事は今後できる監督はいなくなるのでしょう。
何しろ、エキストラにホンモノの貴族を使える監督なんて、ヴィスコンティ以外にあり得ないでしょうから(笑)。
たったの100年前のヨーロッパはこんな格好をしていたのかとの思うと、いかに20世紀の時代の変化が激しいのかがわかります。
心臓の発作を起こすなどしているエッシェンバッハは(マーラーも心臓が悪かったです)、静養も兼ねて、ヴェネツィアに来たのですが、何か全体的に死の雰囲気が漂っています。
第一次世界大戦前。という、不穏な時代でもあります。
ヴィスコンティが描ける、ギリギリはここまでだと思います。
『家族の肖像』では、完全に現代を舞台にしていましたが、むしろ、その齟齬が目についてしまいました。
相変わらず素晴らしい作品ではありましたが。
それにしても、エッシェンバッハがホテルに到着した初日のホテルの広間のシーンはすごいです。
キャメラは遠くから、なんとなく歩くエッシェンバッハを追っているだけのシーンなのですが、一切カットせず、役者とエキストラはずっと演技したまんまです。
写っていない状態でもずっと演技させ続けて撮っていますね。一切カットしてません。
ハッキリ言って、めちゃくちゃ大変ですよ(笑)!
エッシェンバッハは、心臓が良くない中年ですから、ゆっくりと歩きます。
フェリーニみたいに飛んだり跳ねたりしませんからね(笑)。
全員が優雅に着飾ってゆっくりと寛いでるのを延々と演出して撮るなどという贅沢は、もうできないのではないでしょうか。
こういう事を平然とやってしまうのが、ヴィスコンティの並外れたところです。
さて、その時にエッシェンバッハが偶然見つけた美少年。
ビョルン・アンドルセン。
この2人の出会い(というか、変なオッサンが勝手にストーカー行為をしているだけなのですが)をこんな風に映像だけで丁寧に繊細に描いてしまう所が、唸ってしまいます。
カネと時間を惜しまずに作れる身分のお方にしかできない所業でしょうし、何よりもヴィスコンティはゲイですから(次回作の『ルードウィヒ』では、それが更に大爆発します)、こういう機微が実に良くわかっているといいますか。
敢えて、ワンシーンをタップリととって、キャメラもゆっくりと移動させていく。
もう、それだけで酔いしれてしまいますし、コレは映画にしかでき得ない表現だと思います。
ちなみに、美少年を演じるビョルン・アンドルセンに、ヴィスコンティはほとんど演技をつけていないし、多分、彼は素人と言ってよいと思うのですが、その演出が素晴らしいですね。
ビョルン少年は、終始、画面でボヤッとしてるだけで、ダーク・ボガートは一世一代の名演をしてるんですよ(笑)。
その少年の天然の美に、何もかもが屈服せざるを得ない事を、暗に示しているんですね。
ここまで緻密に組み立てておいて、その中心にいるのは、天然の美少年。というは、大胆ですね。
私、見ていてつくづく思うのですが、このエッシェンバッハを現在できるのは、岸野雄一さんをおいて他にいないと思ってます。
コレは、砂浜のシーンも同じですし、とにかくすごいとしか言いようがない。
これに対して、エッシェンバッハと友人の音楽家が議論している回想シーンは、やや中二病気味というか、エッシェンバッハの回想シーンは、概ね中二病ですね(笑)。
ヴィスコンティは意図的に陳腐にしているんですね。
タジオの天然の美との対比なのでしょう。
やや図式的に過ぎる気はします。
変態作曲家をかどわかす、神々の戯れ。
真っ当で道徳的に生きてきたつもりであった、エッシェンバッハが動転してしまうのは、たまたま、彼の日光浴からの帰りとタジオたちの海水浴の帰りに、エレベーターで最も接近する事になった時です。
エッシェンバッハは、ココで初めて、恋をしてしまった事に気付いてしまうのですが、インテリとして生きてきたプライドがコレを許さず、部屋に戻って動転してまうのです。
そして、急にヴェネツィアを去って、ミュンヘンへ戻ろうとしてしまいます(実際のマーラーも、ニューヨーク・フィルの指揮者の仕事を終え、ミュンヘンに戻っています)。
しかし、運送会社の手違いで、荷物がミュンヘンではなく、コモに届いてしまい、エッシェンバッハはやむなくリド島のホテルに戻るのですが、実は嬉しかったりもします。
もう辛抱たまらなくなったエッシェンバッハは、タジオの一家をストーカーし始めてしまい、ドンドン壊れていきます。
そんな事をしていると、街中で消毒液を撒いている人がいます。
この事をホテルの支配人に聞いても、街の人に聞いても、ハッキリとした答えが返ってきません。
「風評被害」を恐れているんですね。
銀行の支配人を問い詰めると、すでに死者が増加し続けていて、病院のベッドの空きもないほどであると、ようやく教えてくれました。
見ていると、少しずつホテルの観光客が減っていってる事に気づきます。
しかし、グスタフの愛は止まりません。
さあ。どうなってしまうのでしょうか。
是非とも見ていただきたい。愛の行方を。
まさに神。
や、やめろショッカー!
オマケ。
マーラーから最も信頼されていたと言われる、ウィレム・メンゲルベルク指揮、アムステルダム・コンセルトヘボウによるマーラーの演奏をどうぞ。