イニャリトゥ開眼の作!

アレハンドロ・ゴンサーレス・イニャリトゥ
バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)

 

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主人公の妄想と現実が同居している作品である事を端的に示す冒頭。

 


去年見た映画ではダントツに面白かったものをDVDにて再見。

 

『バードマン』という、アメコミヒーローものっぽい映画でな主演でスターになりつつも、今ではちょっと落ち目になっている、マイケル・キートン演じるリーガンが、起死回生を図って、なんと、ブロードウェイでレイモンド・ガーヴァー原作の舞台公演をする。というお話なのですが、私は予備知識一切なしで見たので、その余りにもタイトルから内容がイメージできないところがまずは素晴らしいと思いましたね(笑)。

 

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コレがバードマン。

 

リーガンの混乱は、スタッフの名前すらマトモに覚えてない辺りにすでに表れてます。

 

本作で特筆すべきは、一体、どうやって撮っているのか全くわからない、独特の撮影ですよね。

 

ワンシーン、ワンカットを得意とする監督は戦前の溝口健二から、現在の相米慎二までいるわけですが、そういうものとはイニャリトゥの撮り方は全く違います。

 

まるで、一本の作品がまったく途切れずにずーっと続いていくように編集されているんですね。

 

どのタイミングまで撮影してどう編集でつないでいるのかわからないです(笑)。

 

カメラの移動の多くはとても狭い空間の中を全く途切れることなく、キューブリック作品のようにスムーズにキャメラが移動していくという(キューブリック独特の全くブレずに移動撮影できる技術は、当時、彼のスタッフ以外には誰にもできなかったようです)、ほとんどあり得ないような事が平然と起こっているんですね。

 

しかもそれが巧みにつながっていて、まるで一本の紐のようになっているんです。

 

コレは見たら間違いなく驚きます。

本作がアカデミー撮影賞というのは、納得です。

 

ちなみに、撮影監督のエマヌエル・ルベツキは、これを含めて、3年連続撮影賞を取っているという、驚異的な人物(しかも、そのうちの2作がイニャリトゥ)。

 

しかも、そんな奇抜な手法がチャンとお話しとリンクしているのが、更に私には素晴らしく思えました。

 

楽屋と通路と舞台が本作のほとんどのシーンなのですが、極端に限定された場所でのやり取りを描くためには、どうしてもこの撮影の仕方が必要である事が見ていて納得します。

 

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こういう、撮り方それ自体が奇抜な作品というのは、ちょっとでも不自然なところがあると、とても気になりますが、そんなレベルはとうに超えて、「どうなってるのコレ?」という、トンデモな水準です。

 

しかも、使われている音楽のほとんどは、ジャズドラマーのアントニオ・サンチェスのドラムだけ(一部、ブライアン・ブレイドが叩いてます)。

 

ハリウッド映画でそんなサントラありますか(笑)。

 

しかも、サンチェスは現在のジャズドラマーのトップクラスのホンマモノ!

 

そのサンチェスを使ってオープニングのクレジットでゴダールごっこをする可愛らしさ。

 

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キートンを困らせるエドワード・ノートン

 

話は少し飛びますが。

 

この映画を見ていて最初に混乱したのは、「プレビュー公開」の意味がわかってなかったことです。

 

プレビュー公開というのは、例えば、「こんな感じですがいかがですか?」と、とりあえずの完成を安価な値段で見せることなんですね。

 

つまり、そこでの反応を見て、修正を加えて本公演をするのが、演劇の一般的なやり方ですが、これは事前に知っといた方がいいでしょうね。

 

わかんない私はやっぱり混乱しました(笑)。

 

閑話休題

 

ティム・バートンの『バットマン』で脚光を浴び、実際は別に落ち目ではないマイケル・キートンが演じる主人公は、ある程度の年齢がいくと、彼の悲哀がイヤというほど身にしみてわかります。

 

パンツ一丁で走るシーンのもろしろ切なさは本編の名シーンです。

 

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ちょっと山崎邦正を思い出しました(笑)

 

それがYouTubeに乗っかって猛烈な再生回数になっているところがまた(笑)。

コレを見ていると、その通りを歩いているところまで含めて、そういう演劇の演出みたいに見えてくるのが面白いし、コレができるのが映画の面白さですよね。

キートンの娘さんと、途中から代役で入ってきたエドワード・ノートンがいいですね。

 

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ノートンは彼女に自分を見ているので、ささくれ立った彼女に「原石」を見抜いているシーンがいいですね。

 

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ノートンはチンコも絶好調ですが。

 

この映画を見ていて、どうしてもアタマに浮かぶのは、『8 1/2』ですね。

 

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マルチェロ・マストロヤンニ

  

こちらは、映画監督のグイド(本作のリーガンよりも設定はずっと若いですね)ができもしない映画をでっち上げて右往左往している映画ですけども、こちらはグイドの妄想や回想がある意味区別されていますし、だからこそ、途中でそれがゴタマゼになってきても、コレはグイドにそう見えている。という事がわかるようにフェリーニは撮っています。

 

しかし、イニャリトゥはリーガンの妄想と現実をどう地平線上に乗せて撮っていて、虚構と現実が冒頭からずっと同時進行です。

 

それを一番如実に示すのが、リーガンが空を飛んで劇場に戻っていくシーンですね。

 

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実際はタクシーに乗って帰っている事がわかるのですが、リーガンと観客は完全に空を飛んでいるわけです。

 

ココがイニャリトゥの独特なところで、ウッカリ、「マジックリアリズム」という言葉が出てきそうになります。

 

とにかく、イニャリトゥは本作で確実にワンステップ進み、何と、次回作『レヴェナント』でまたしても作品賞を受賞してしまいます。

 

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雨に唄えば』や、『サンセット大通り』、『81/2』、『オープニング・ナイト』などなど、映画や演劇の舞台裏を描いた名作は多いですが、本作は間違いなく、そういうレジェンドに加えても全く遜色ない映画だと思いました。

 

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