ポランスキが正攻法で撮った文芸大作。

ロマン・ポランスキ『テス』


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トマス・ハーディの小説を映画化。

どちらかというと、B級感覚に溢れた映画を撮っていたポランスキが本格的な文芸作品に取り組むというのは、ちょっと驚きですが、70年代は、ベルトルッチ『1900年』とか、キューブリック『バリー リンドン』などが上映されていた頃なので、こういう作品が結構撮られてはいたんですね。

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19世紀のイギリスのお話で、ナターシャ・キンスキー扮するテスの一家、ダービーフィールド家は、ノルマン朝まで遡ると、ナイト爵だったらしく、遠い親戚のダーバヴィル家(実際は、金で家名を買っているので、血をひいているわけではない)で働くこととなりました。

という、ハウス名作劇場的な始まり方で、今時考えられないようなお話です。

イギリスは、なんとか朝の王様であった、○○2世の末裔です。みたいな人が結構普通に暮らしているらしいので、こういうテスのようなすっかり零落してただの百姓になっている場合は考えられます。

そういう「おのぼりさん」の視点から、貴族社会を見てみよう。という事なので、まさにハウス名作劇場なのですが(笑)、こういうのは、ドンだけガチにウソ臭くなくできるのか。で、作品としてのクオリティがほぼ決まってしまうので、撮るのは、ある意味楽ではないですね。

ダーバヴィル家の遊び人、アレックが、テスを好きになってしまう事がこのお話しの悲劇でして、まずは、子供ができてしまいます。

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実家では、洗礼も受けさせてもらえず、要するに村八分になってしまいます。

病気でこの赤ん坊は呆気なくなくなってしまいますが、洗礼を受けていないため、教会で埋葬すらしてもらえませんでした。

ローズマリーの赤ちゃん』や『チャイナタウン』もそうですが、ある共同体や集団の慣習(それは外部から見たら、明らかに悪習であったり、マトモでなかったりします)に従属する事への抗議が、ポランスキの作品には見て取れますね。

ココでも教会から相手にされない亡くなった赤ん坊を自分で洗礼を授け、自分で埋葬し、「二度と教会には行かない!」とすら、テスは言います。

この辺の感覚は、もう、現代の私たちには、なかなか実感できないですね。

村にはいられなくなったであろうテスは、別なお屋敷に奉公に出ます。

今度は貴族社会を軽蔑している、農業を近代化しようとしている牧師で大地主という家です。

地主さんは、雇い人たちと同じテーブルでご飯を食べるくらい、多分、当時としてはかなり進歩的な人です。

それにしても、ナターシャ・キンスキーの美少女ぶりは、一体なんなのでしょうね。

この大地主さんの息子のエンジェル(こういう名前なのです)は、ブラジルで酪農などをしていこうと考えており、彼が出てくると、急に話がダイナミックになっていきます(ブラジルのシーンは一切ありませんが)。

敬虔なキリスト教徒の家庭なので、いちいち堅苦しいのですが、ヴィクトリア朝時代のイギリスの雰囲気でもあります。

そういう禁欲的に生きることが当然という時代に起こった齟齬である。という事が掴めていないと、この映画の人々の行動が今ひとつわからないかもしれません。

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エンジェルがテスと結婚しようとしますが、これがうまくいかないのも、この時代特有の倫理観なのですね。

それにしても、なんたる男の都合のよさ! 

しかし、この点に関しては、かなり普遍的というか、時代というものは関係ない気がしますね。

男のズルさ、臆病、甘えが、エンジェルを通して、よく見えてきますね。

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しかし、そんなズルさがわかっていながらダマされてしまうテス。

トコトン、男に都合のよい話ではありますが、そういう風にしか描くことができなかったのだとも言えます。

お話は、ドロドロの三角関係に陥り、文字どおりのゲスの極みの不倫ものになっていきますが、このスピード感、さすがポランスキですねえ。

この辺りは、後の作品の『フランティック』っぽいです。

ポランスキは、本作で巨匠というクラスに至るのですが、実生活では逃亡犯として、現在もアメリカからは指名手配を受けております。

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