コポラを破滅寸前まで追い込んだ作品。

フランシス・フォード・コポラ『地獄の黙示録』。

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余りにも有名な作品なんで、説明するのもはばったくなりますが、コポラは、最後のクレジットが一切ないラストを考えていたそうです。

私がかつて見たVHSでは、最後にウィラード大尉が、空軍に無線連絡して(そういうシーンは描かれてませんが)、カーツ大佐の王国が爆撃されて終わるんですが(タイトルもここで初めて出てきます)、コポラの本来の演出だと、ウィラードは無線連絡しないまま、サーファー野郎のランスを連れて、王国を船で去る所で終わりなんです。

カンヌ映画祭では、そのように上映して、クレジットは手元のパンフレットのみだったそうです。

タイトルもスタッフクレジットも一切ない映画。って、結構斬新だなあ。

でも、一般公開版の、ナパーム弾が燃え上がる所に「Apocalypse Now !」と出るエンドロール、結構好きだったんですけどもね。

あと、とても気になったシーンがありました。

カーツがウィラードに向かって、「恐怖」について語る、とても大切な場面がありますよね?

オリジナルの吹き替えは、戸田奈津子がつけているんですが、彼女はそのまま「恐怖」と直訳してるのですが、本作は「地獄の恐怖」と訳してるんですよ。。

これ、結構、ガッカリです。。

カーツが見たベトナム戦争の狂気。は、誰も共有できないものです(ウィラードにすらできないでしょう)。

地獄。と、言ってしまうと、とても意味が狭められてしまいやしませんかね?

たしかに、それは、地獄のような有様だったに違いないんですが、そういうものを突き抜けた狂気の世界にブッとんでいる怪物を、「地獄」という倫理的な規範に収めてしまうと、カーツの怪物性が弱まってしまうというか。

カーツ大佐のイカれたスポークン・ワードを米軍側に聞かせている行為が、厨二のツイートに格下げになりかねませんよね。

牛をと殺するのに使うようなでっかい刃物で、カーツという狂気の王は、「息子」たる、ウィラードに最後は斬殺されるわけですが(カーツが読んでいる本に、さりげなく『金枝篇』がある事に注目されたし!)、最後に「父」がつぶやくのは、「horror....a horror....」
だけなのに、字幕は、
「恐怖だ。地獄の恐怖だ」
となってるのです。嗚呼。。

ここは、字幕に目を一切向けずに見るのが、正しい作法かと思われます。

なっちゃんのがこの辺の機微はわかっていたんですね。さすが。

この前に奥さんが作ったドキュメンタリーがあるんですが、改めて本作を見直しますと、キルゴアのヘリコプター部隊での村の襲撃シーンとプレイメイトに興奮して暴動になるシーンも圧倒的に素晴らしいんですが、ラストのカーツ大佐の王国のシーンは、あの、マーロン・ブランドウの圧倒的な存在感なくしてはありえなかったんじゃないでしょうかね?

コポラの言う通りに激痩せして(原作がやせ細っているのです)演出通りに演じてたら、多分、面白くないですよ。

すげえデブで時々目がイッちゃってるからこその『黙示録』なのではないかと。

つまり、最後の王国のシーンは、ブランドウ演出が結果として濃厚に入ったが故のギリギリ感が、本作のクオリティを上げたんだな。と見ました。

奥さんの作ったドキュメンタリー映画は、その事をかなり冷静に分析していて、だからこそ、マーロン、よくも夫を苦しめたな!許さない!!という感じが全然なくて、むしろ、彼の功績はおおきいと見てるんじゃないでしょうか。

幾つかの瑕疵はあるにせよ、「王殺し」「父殺し」をテーマとするロードムービー、というか、「最後のニューシネマ作品」といってもよい本作は、ユナイテッド・アーティストという映画会社に莫大な利益をもたらし、この利益は、マイケル・チミノ天国の門』で全て失われるどころが、倒産に追い込まれてしまうという、トンデモないオチすらついている世紀の傑作であります。

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