実は見てなかったんですね。
イヤな予感があって。
ストーリーはほとんど知らないまんま見ました。
今の目で見て、正直に申し上げて、そんなに面白いとは思いませんでした。
伝説のDJ、ウルフマン・ジャックが、メクシコのレディオ局でDJしていた頃の再現をしてくれてるなど(彼がメクシコでやっていた番組は、すごい電波出力だったらしく、アメリカのかなりの地域で聴くことができまして、彼の名声はこれで固まりまして、やがて、米軍放送の「ウルフマン・ジャック・ショウ」に発展していきますね)、オールディーズが好きな人にはたまらんものがあるのですが、私は山下達郎や大瀧詠一ほどにはフィフティーズのポップスには思い入れはないので、今ひとつのめり込めないのかもしれませんね。
しかし、これに出演してる人が後にとんでもなくビックになってるのに驚きます。
リチャード・ドレイファスは名優ですし、ハリスン・フォードは、この次の『スターウォーズ』で大スターになります。
とはいえ、特に本作では魅力は感じませんが。
プロデューサーは、『ゴッドファーザー』で二連発大ヒットをかまして大金持ちになったコポラです。
このクレジット見た時が、一番胸が熱くなったです。
この映画を見て驚いたんですけども、アメリカって、ほとんどこの映画のまんまなんですよね、今でも。
1950年代から、アメリカってほとんど変わってないんですよ。
主要のキャラクターの痛ましい事故死(と思いますよ)で、継続が困難となってしまった『glee』は、オハイオ州ライマという街を舞台とした学園モノですが(全くの余談ですが、私が大好きなテナーサックスそうしゃである、ジョウ・ヘンダスンがここの出身なのでした)、社会的経済的文化的なマイノリティー問題が持ち込まれている以外の、アメリカのハイスクール〜大学の描かれ方は、全く同じです。
ロバート・フランクという、世界的に著名なカメラマンが1950年代のアメリカのあちこちに行って撮影し、『アメリカ』というかなりの大作の写真集作ってるんですけど、多分、アメリカのないりくぶの景色って、あのまんまでしょうね。
この事をうまくついたのが、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の特に第1作目ですね。
1985年と1955年は全く一緒なんだと。
で、私は、アメリカの学園ラブコメは基本好きでして、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』も『glee』もめちゃ好きなんですが、それと比べると、なんちゅうか、躁病加減が足りないんでしょうね(笑)、私には、あんまりピンときませんでした。
70年代のくたびれ感と60年代の初頭の、ナム戦争前のイケイケなアメリカがあってない気がするんですよね。
映像がなんというか、ジャクスン・ブラウンのネクラな音楽(彼の音楽は好きですが・笑)のほうがあってないか?と思ってしまうのです。
メガネくんが、ロン・ハワードからクルマを借りて乗り回してますが、その感動は、もう私にはわかんないんですよね。
そんなん、レンタカー借りればイイじゃん。という感じになってしまう。
クルマに女の子乗せて如何にモノにするか。みたいなマッチョなノリも今日の日本ではあんまわかんない感覚ですよね。
クルマ社会である、地方だとそうでもないのかもしれませんけども。
一向に話が中味にいかないことに読んでてお気づきだと思いますが、それだけ共感度が低いわけなんですよね。
演出も、さすがルーカス、すごい!と思わせるものは特にないですし、まずもって、登場人物がどれもこれも魅力がない。
全体的に緩慢で憂鬱なトーンがホントにのめり込めないですね。
関心したのは、ルーカスの音楽のチョイスですね。
これはすごいですね。
ラストのビーチボーイズはとてもよかった。
タランティーノが継承していくセンスですよね。
ナム戦争がようやく終わった後の惚けた感に、スッと古き良きアメリカの青春群像が差し込まれた。という癒し効果は、社会学的に大いに理解できますが、それを乗り越えて、今日の私たちに強烈に訴える何かが果たしてあるのかは疑問なのでした。
この映画は思い入れある方が結構いると思うので、この文章を読んでお怒りになる方もいるでしょうが、私の立場は、思い出とか愛着のようなものが一切なくても、見る側に強烈な何かを届けてしまう強度を見る。という所にありますので、その点は何卒ご理解のほどを。