シリアルキラーの日常を淡々と描く作品!

ジョン・マクノートン『ヘンリー』

 


「あー、なんだか疲れたなあ」


の後に、普通は「飲みに行く」とか「バッティングセンターに行く」「サウナに入る」「ジムに通う」などなどが入るわけですよね。


しかし、本作の主人公であるヘンリーさんは、「殺人」が入るんです。


なぜそうなってしまったのか。は、一切明らかにされませんし、ヘンリーの無差別な殺人には、どういう意味があるのか、わからんのです。


そうやって、300人以上の、何の脈絡もない人々を移動しながら次々と殺していったヘンリーの、シカゴでの数日間を切り取ったというものであり、まあ、いって仕舞えば、彼の日常を見せたという事なんですよね。

 

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ヘンリーを演じるマイケル・ルーカーはこの演技て名声を得ました。

 


この作品のコワさは、肝心なところを敢えて見せないんです。


見えないからこそコワいんですよね。


また、見せているシーンがものすごくエゲつない。


ある一家を皆殺しにするシーンが出てくるんですけども、その見せ方のエゲツなさ。観客と2人のシリアルキラー(実はコンビを組んで無差別に殺人を行ってます)が同じ視点で見てるんですよ?という実にエゲつない演出!


観客が共犯者にさせされるという、このイヤな感触は、本作でも白眉ですね。

 

シメが最高に後味が悪い、B級映画の傑作でありました。

 

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こちらが実際のヘンリー・リー・ルーカスです。車で移動しながら無差別に殺人を繰り返しました。

 

 

 

 

 

 

1970年代のソウルミュージックを映像にしたような見事な作品!

バリー・ジェンキンス『ビール・ストリートの恋人たち』

 

 

ウィリアム・ボールドウィン(先ごろ、彼にちなんだドキュメンタリー、『私は二グロではない』が公開されました)の小説、『もしビール・ストリートが話す事ができたなら』の映画化。


前作『ムーンライト』は大変素晴らしかったので、今回はどうであろうか?と心配でしたけども、それは杞憂でしたね。


それどころか、前作をはるかに上回るクオリティの作品でした。


1970年代のニューヨークのアフリカ系アメリカ人の若い男女、ファニーとティシュのお話しです。

 

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ファニーとティシュ。若い黒人の男女が体験する人種差別がメインテーマです。

 


1970年代のニューヨークを舞台にした映画というと、『狼たちの午後』や『セルピコ』のシドニー・ルメットの作品や、マーティン・スコシージ『タクシードライバー』や、変わり種ではチャールズ・ブロンソン主演で、その後シリーズ化された『狼よさらば』などが思い浮かびますけども、一貫しているのは、その治安の悪さ、ニューヨーク市警の腐敗ぶりの凄さが描かれている事ですね。


本作は、それをアフリカ系の立場から、描いていおり、かつ、これまでにあげた作品にはない、味わいをもつ、秀逸な作品です。


見ていてホントに素晴らしいと思ったのは、その画面から滲み出てくる品の良さですね。


それはカラフルなのに落ち着いた画面作り、そして、音楽の使い方のセンスの良さに端的に表れています。


ネタバレさせても面白さにキズがつく事はないので、書いてしまいますが、本作が描くのは、主人公の冤罪から見えてくる、アメリカ社会にある、黒人差別の現実です。

 

プエルトリコ系の女性をレイプしたという容疑で逮捕されてしまうファニーとその恋人のティシュのが、如何にして冤罪に巻き込まれ、そして、それが悪辣で陰湿な警察や検察による仕業である事が明らかにされていきます。


しかも、ティシュはファニーとの間の子供を宿してしまいました。

 

こう書いてしまうと、野村芳太郎の苦い後味タップリな一連の松本清張原作の映画のようですが、この監督の真骨頂はそこにあるのではなくて、その語り口というか見せ方に、品の良さを感じるんですね。


それは、あたかも、1970年代に次々と出てきたアフリカ系のシンガー&ソングライターの人々の、品の良さを感じる、新しいブラックネスととてもよく似通っていているんです。

 

それは、マーヴィン・ゲイカーティス・メイフィールド、スティーヴィ・ワンダーのような60年代から活躍しつつ、70年代になって、シングルヒットチャートを狙うのではなく、アルバム1枚で、自分たちの描きたい音楽にシフトしていくのに呼応するように、ロバータ・フラックやドニー・ハサウェイのような、ロックやジャズなどの周辺の音楽を巧みに取り込んだ、しなやかな黒人音楽が出現した時のようなテイストなんです。

 

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ティシュは、デパートで香水の販売員をしています。


警察にハメられるような形で服役せざるを得なくなる、ファニーの親友ダニエルの「地獄の底のような経験だ」とすら言わしめる刑務所での体験を映像では一切見せず、マイルス・デイヴィスの名演「Blue in Green」をゆっくりとドローン化させ、音響として思いっきり歪ませていく事でそれを表現したり(ダニエルの表情もハッキリと写しません)、主人公ファニーの刑務所のシーンは、ティシュとの面会シーンに絞り込むなど、苦しさや厳しさを敢えて写さずに仄めかすように描くところに真骨頂があります。

 

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回想と現在を巧みに行き来しつつ、黒人がアメリカで生活する事の難しさを浮き彫りにしていきます。

 


それは、アフリカ系アメリカの厳し現実を覆い隠したいのではなく、見せなくても滲み出てしまう、時には溢れ出してしまうものなのだ。つまり、どんなに隠しても見えてしまうものなのだ。という事なのだと私は感じました。


そして、その溢れ出るものを感じることができなかったり、見えてないというのは、余りにも鈍感すぎやしませんかな?という、事が言下にあると思います。


その静かな怒りと言うのでしょうか、そう言うものが、全編に言いしれぬ緊迫感を与えています。


ですので、本作の語り口は一見、ソフトに見えますけども、その本質はとてもハードコアであり、それは、原作者である、ジェイムズ・ボールドウィンの小説に一貫して流れているものと一致するのだと思います。

 


『私は二グロではない』での、ボールドウィンは、常に言葉を慎重に選び、しかし、適切にアメリカ社会に蔓延する黒人差別の実態を明らかにしていますが、こういう「静かな怒り」を言葉ではなく、映像や音で語らせるジェンキンス監督の演出は実に素晴らしかったです。

 

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ジェイムズ・ボールドウィン


本作は1970年代のニューヨークを描いてはいるのですが、残念な事に、人種差別は現在の警察の中に存在している事にこの問題の困難さ、根深さを思わざるを得ません。

 


見た後の余韻、それは鈍い痛みを伴うかもしれませんが、それは避けて通る事は出来ない事を、昨今の日本社会を見ていると尚更痛感せざるを得ないのでした。

 

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1970年代の黒人ファッションの素晴らしさにも注目です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

タランティーノ流ハリウッド、ひいてはアメリカ史への鎮魂作品。しかも多幸感満点!

クエンティン・タランティーノ『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』

 

 

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ディカプリオとブラピが冴えないハリウッド人を演じます。

 

 


面白かったですねえ。

 


またしても3時間近い大作ですが、今回は『デス・プルーフ』のような二部構成になっていて、第1部が伏線で第2部が「シャロン・テイト事件」の顛末となっており、それぞれの一日(正確には3日間)を非常に丹念に描いています。

 


まず驚くのは、全編を横溢する、多幸感ですね。

 

 

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1969年というと、ヴェトナム戦争が泥沼化し、ロサンジェレスやサンフランシスコなどの西海岸はヒッピーだらけみたいな陰鬱な描き方がこれまでは多かったと思いますけども、タランティーノは、タイトル通りの「古きよきハリウッド」の甘い物語として描いています。

 


その多幸感の象徴するのが、シャロン・テイトなんですよ。

 

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マーゴッド・ロビーの素晴らしさ!

 


彼女を演じるマーゴット・ロビーが見事に演じきりましたね。

 


登場シーンはそれほど多くないんですけども、ホントに印象に残りますね。

 


アカデミー助演女優賞取れるかもしれません。

 


タランティーノはカンヌでパルムドールを受賞してますので、オスカーが取りにくくなってますけども(コッポラはどちらも獲ってますが、アカデミー作品賞が先ですし、1970年代で、アンチ・ハリウッドが元気だった頃ですから、ちょっと特殊です)、コレは助演女優賞いけるかもしれません。

 


作品賞、監督賞はノミネートされるかな?どうかな?というところでしょうか。

 


この時代を描いた映画は、1970年代にオルトマンやチミノなどありますけども、時代が近すぎてどうしても苦い味わいになってしまいます。

 


それは、別に悪い事でもダメな事でもないんですけど。

 


この時代でしか出せない苦味が画面にちゃんと焼き付いていて、それが時代の証言となってます。

 


タランティーノは、この時代のもつ苦味をようやく甘い思い出に昇華したんですね。

 


それはヴェトナム戦争という苦悩への1つの供養なのだと思いますし、コレだけ時間がかかったんですね。

 


コレは奇しくも2019年現在放映中のNHK大河ドラマ『いだてん』にも言える事かもしれません(本作を2020年の東京オリンピックのプロバガンダと見るのは誤りです)。

 


マクインやイーストウッドのように、テレビドラマからハリウッドスターになれず、映画で悪役ばかり引き受けて、低迷している俳優をディカプリオ、彼の専属スタントマンをブラピが演じ(実際、ハリウッドにはそういう人がいるんだそうです)、この2人が映画を駆動させているんですけども、オルトマン作品のように、中心からはズレたところにいます。

 

 

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イタリア映画に出演しないか?と話を持ちかける、アル・パチーノ演じるプロデューサー。

 


何しろ、やや落ち目の役者とその専属スタントマンですかね。

 


シャロン・テイトはまるで天使のようにお話しの中で空を舞っているような存在でそこにブルース・リーも絡んでくるんですね。

 

リーのシーンに遺族がクレームをつけているんですけども、当時のハリウッドでアジア人が生きていくには、相当大変な事だと思うので、あれくらいビックマウスだったのではないかなあ。

 

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ビックマウスを叩くだけの実力が実際にありましたし。

 

さて。

 

やはり、本作はこのことに触れざるを得ませんね。チャールズ・マンソンです。

 

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劇中のチャールズ・マンソン。実際のマンソンは、獄中で2017年に亡くなりました。

 

 

1960年代アメリカの暗部であり、日本で言えば、オウム真理教による一連の事件とも対比できるような、チャールズ・マンソンとその信奉者、すなわち、マンソンズ・ファミリーによる、1969年に起こった、シャロン・テイトの惨殺事件(これは史実ですから、ネタバレではありません)は、ある程度は知っておいた方が本作は楽しめます。

 

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マンソンズ・ファミリーをハリウッド映画で描いたのはコレが初めてでしょう。

 


手法としては既に『イングロリアス・バスターズ』で行われてはいますけども、シャロン・テイトへの供養という意味で、本作の持つ意味はより深いものがあります。

 


ロマン・ポランスキ監督(当然ながら本作に登場します)も本作を見て喜んでくれているのでは(注・怒ってるらしいです・笑)。

 


タランティーノ作品はある意味、何らかのオマージュだと思うのですけども、本作はそれが彼の個人史とアメリカの歴史の接合と昇華という形に深化した作品であると思いました。

 


また、それほどヤマがあるわけでもないにもかかわらず、3時間近い長さをシンドく感じさせない作りも、作家としての成熟を感じられます。

 


是非、映画館でご確認を。

 

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アメリカの凄さがわかるドキュメンタリーでした!

フレデリック・ワイズマン『ニューヨーク公共図書館』

 

 

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図書館は市の予算と寄付によって成り立っています。


3時間半近い大作ドキュメンタリーだが、全く飽きなかった。

 


内容はタイトル通りで、ニューヨーク市公共図書館はどういうものなのかを淡々と見せるだけなのだが、それがとにかく素晴らしかった。

 


この図書館は、私たちのイメージする図書館では最早ないんですよ。

 


就職活動、作家やミュージシャンを招いてのイベント、就職に必要なスキルを身につけるための無料のセミナー、演奏会などなど、生活していくために必要な事の多くが揃っています。

 


司書のレベルが桁違いにすごく、恐らくは研究者ですね。

 


大学にポストがない事が多いですから、図書館司書として働きながら、研究を続ける事ができますし、そもそも、この図書館は研究するための施設として、ものすごく充実しています。

 

目の不自由な人たちのために、小説を朗読で聞けるソフトも貸し出しているのですが、その朗読を、ブロードウェイに出演しているような役者に読んでもらっているのは、驚きです。

 

イベントに呼ばれる人たちもパティ・スミスエルヴィス・コステロなど、ものすごい人たちです。

 


また、運営陣の様子もしっかりと見せていて、コレがまたものすごく優秀な人たちなのに驚きます。

 


ワイズマン監督は、巨大な文化施設を隅から隅までトコトン見せる事に集中し、インタビューとかナレーション、サントラも字幕もつける事はありません。

 

図書館の人の役職も名前も説明しませんし、コステロも無名の人もおんなじ扱いです。徹底してますね。

 


途中でインターバルはあるものの、コレだけの長さがあるにもかかわらず、ダレるところが全くなく、最後まで興味深く見せてしまう編集の冴えには心底驚きました。

 


また、カメラに映る人々がほとんど映っている事を意識してない事に驚きますね。

 


ワイズマンは今年で89歳になる第ベテランですが、この余りにも自然に撮れている映像に、全くもって脱帽してしまいますね。

 

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数多くのドキュメンタリー作品を作り上げたフレデリック・ワイズマン監督。

 


この作品の原題は「Ex Libris」、直訳すると、from book、本から。という意味ですけども、本というものから人々の人生がどのように展開していくのかをワイズマン監督し見せたかったのでしょう。

 


そのために、徹底してこの素晴らしい図書館の実践を撮ったと。

 


コレは、逆に言えば、本を大切にしないという事は、人間を大切にしていないのと同じ事なのですよ。ということを言っているんですね。

 


私は、この図書館がある事がアメリカの真の強さなよだなあ。と思いました。

 

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娯楽映画は90分で充分!

三隅研次『剣鬼』

 

 

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大映はタイトルカットがいつもカッコいいですよね。

 

 


剣三部作の第3作目にして、最高傑作。

 


三隅研次大映を代表する職人監督ですが、その彼の代表作は何か?と問われたら、本作を含めた剣三部作を挙げない人はいないでしょう。

 


『斬る』(1962)『剣』(1964)『剣鬼』(1965)は、続きモノでもなく、第2作目は原作が三島由紀夫(!)の現代劇ですから(他は柴田錬三郎)、時代すら一貫性がないのですが、主演が市川雷蔵であり、その主人公が剣に魅せられ、それが故に身を滅ぼしていくという、デカダンスの話しである事に共通点がある事から、三部作と言ってよいと思います。

 


三部作の主人公はそれぞれに剣の道を行くんですけども、その立場が一番特異なのが本作です。

 


最初の5分ほどで、雷蔵演じる主人公の生い立ちが展開しますが、精神に問題のある藩主の正室に最期まで使えた女性が雷蔵の母なのですが、父親が最後まで不明です。

 


この藩主の正室が遺言とした事が、この侍女の身分を保証する事と、愛犬を大切に育てる事でした。

 


雷蔵の母は雷蔵を産むとほどなく亡くなってしまいます。

 

 

 

この父親の不明の子供を闇から闇へ葬る事も可能ですが、現在の藩主の母親が大切としていた侍女の子ですから、藩の下級武士(登城が許されません)の子供として育てられます。

 


しかし、この侍女と犬がほぼ同時に亡くなった事から、犬と侍女の間にできた子供ではないのか?という揶揄が広まり、雷蔵は「犬っ子」と蔑まれながら、信州の小藩で生きていく事になります。

 


それから一挙に23年が経過しまして(この辺のザックリ感が素晴らしいです)、雷蔵は蔑まれながらも、造園家としての才能を買われて、登城を許されました。

 

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「犬っ子」と揶揄されながらも、造園家としての才能を発揮する雷蔵


この頃、代替わりした藩主は、その母と同じく、精神に疾患があり、突然、馬に乗って早駆けするという、奇妙な習慣がありました。

 

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狂気の君主。


雷蔵は生来、恐ろしい健脚で、この突然の藩主の早駆けを、なんと、走って追いかけていき、馬をなだめる事が出来たんです。

 


この事があり、雷蔵は藩主のお気に入りになり、出世する事が出来ました。

 


しかし、この雷蔵の才能に目をつけてたのが、有望株の家臣を演じる佐藤慶です。

 

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家老の一番の懐刀を演じる佐藤慶


佐藤慶は、こういう絶妙な立場の悪役を演じされたら天下一品の役者でしたねえ。

 


彼は、精神疾患の藩主の存在が公儀隠密の調べによって、幕府の知るところのなっては、この小藩が取り潰されてしまう。と、家老と危惧を共有していたんですね。

 


この佐藤慶が、藩内に潜入する隠密を暗殺する仕事を雷蔵に依頼するんです。

 


えっ、造園家に?という事なんですが、実はこの前に諸国を遍歴しているという浪人の居合術雷蔵は魅せられ、彼に弟子入りしていたんです。

 


しかし、その修行がとても変わっていて、「剣術と居合術は違う。居合術とは要は刀を出して、相手を斬って、刀を収める事のみ。居合術を教える事など出来ないが、私の動きを見ていなさい」と言って、ただ、その居合術を見せるだけなんです。

 


で、雷蔵はその動きを見て「わかりました」と言うんですよ(笑)。

 


その間がものすごく短くて、ホントかよ!と突っ込みを入れたくなりますが、そういう所が呆気ないほどにオミットされている所がこの映画の大胆で面白いところです。

 

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居合の達人となる雷蔵は藩の密命を受ける暗殺者となっていく。


で、そんな折に暗殺指令を受けるようになり、なんだかいつの間にか、暗殺稼業に雷蔵はへんぼうしていき、「犬っ子」という揶揄がいつしか、ホントの藩政を守るための「番犬」になってしまっていくんです。

 


ここで、雷蔵は造園家から、タイトル通りの剣鬼に変貌していくんです。

 

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剣の魔力に取り憑かれていく雷蔵


と、ストーリーはこんなところにしておきまして、あらすじだけを見てしまうと、なんだかご都合主義的で雷蔵が余りにも簡単に居合術の名人になってしまったり、それに合わせて暗殺指令が出たりしているのが、おかしいんですけども、コレが三隅研次の演出にかかると俄然面白くなるんですよ。

 


セルジオ・レオーネを思わせる極端なアップの多様、予想外のキャメラアングル、そして、なんといっても、ほとんど「刀剣フェチ」と言っていいほどの刀を写す時のカメラの食いつきの凄さですね。

 


恐らく、三隅監督は相当に刀剣が好きなのでしょう、監督自身が刀剣の魅力に飲み込まれているではないか?とすら思えるような場面が数多く出てきて、その描写が剣三部作の中でも突出しています。

 


コレだけてんこ盛りなストーリーなのに、上映時間は90分もありません。

 


大映のプログラムピクチャーの1つですから、3本立て上映を基本として作られているので、90分以内に収める事を前提に作るという制約があるんですね。

 


この制約は、市川崑増村保造という、大映のエース級の監督ですらありました。

 


とにかく、時間制限がとても厳しい中で制作されていましたから、余計な事は一切できず、それでいて面白くしなくてはいけないわけですから、監督はアタマを絞らざるを得ません。

 


それが本作のような、非常にスピーディでメリハリの効いた娯楽作品を作る事に成功しており、三隅監督は、年に数本の映画をコンスタントに撮るような、ハイペースに映画を作る監督になりました。

 


そんな中でも、自分の表現というものをキチンと伝えていたわけですから、三隅研次は素晴らしい監督だったといえるわけですね。

 


アクションシーンも素晴らしいのですが、私が特に素晴らしいと思ったのは、冒頭の雷蔵の呪われた生い立ちを非常にコンパクトに語る場面の、極端に様式化された演出ですね。

 


今の映画だったら、30分はかけてしまうところをたったの5分で片づけてしまうための大胆な演出なのですが、ここの撮影がホントに素晴らしかったですね。

 

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フォークナー→村上春樹→イ・チャンドン

李滄東(イ・チャンドン)『バーニング』

 

 


イ・チャンドンの8年ぶりの新作。

 


原作は村上春樹の短編『納屋を焼く』で、コレを韓国に置き換えて、坡州(バジュ)を舞台にしたお話となってます。

 


もともと、NHK村上春樹の短編をドラマ化するというプロジェクトの一環だったのだそうですが、コレが結局、劇場作品になりました。

 


日本では、NHKで95分の短縮版が放映され、続いて完全版が劇場公開されるという、変則的な形で上映されました。

 


お話しのスジは大変シンプルですが、140分を超える結構なボリュームのある作品です。

 

 

 

主人公のジョンスは、大学を出ながらも、ロクに就職もせず、小説を書いているような、まあ、村上春樹によくいるキャラですね。

 

 

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ジョンス。ちょっとジョイスっぽい名前でもあります。

 


そんな彼が街でたまたま出会った幼馴染みのヘミとその友人である、高等遊民のベンとのお話しです。

 

 

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偶然、ヘミと出会う。整形していたので、ジョンスはすぐに気がつかない(韓国はブラジルと並ぶ整形大国です)。

 


本作のカギとなるのは、アメリカの作家、ウィリアム・フォークナーです。

 

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20世紀のアメリカを代表する作家、フォークナー。『三つ数えろ』や『黄金』の脚本を書いた事でも有名です。

 


フォークナーというのは、なかなか日本では人気のある作家とは言えませんけど、アメリカ南部の因習深さというか、人種差別とか、そういうアメリカの闇を描いているんですよ。

 


しかも、彼が最も脂がのっていた、1930年代(作品が読まれるようになるのは、もっと後なのだそうです)のアメリカですから、ハッキリと書くことはできないんですね。

 

 

何しろ、アフリカ系の人たちには公民権などない時代です。

 


どうしても、仄めかすように書かざるを得ないんです。

 


まあ、ハッキリ言えば、わかりづらい(笑)。

 


しかし、世の中にはというのは、何もかもわかりやすくはできてはいないし、言葉に出して言えないことはいつの世もあるわけですよね。

 


フォークナーが生まれ育ったアメリカ南部にもそういうものが濃厚にあり、それが彼の文学の中心にありました。

 


そんな晦渋な作家を村上春樹も好んでいるようでして、それを『納屋を燃やす』という、あまり注目されていないと思われる短編(村上春樹ファンではないので、間違ってるかもしれません)の中で、主人公に言わせており、それが本作の作品の核にもなっているんです。

 


と、回り道しましたけど、本作は、こんな事から決して万人向けではない事は最初に断っておきます。

 


本作の話しの転機は幼馴染のヘミが失踪してしまう事からサスペンス性が高まります。

 

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ジョンス、ヘミ、ベンの三角関係。

 


が、ヒッチコックジェイムズ・スチュアートよろしく必死になってジョンスがヘミを探すわけでもないんですよコレが。

 

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ヘミの消息は本作では明らかになりません。

 


ジョンスの被害妄想はだんだんと大きくなっていき、失踪の原因を高等遊民のベンに決めつけていくんです。

 


このベンという青年がなぜこんなにカネがあり、日本で言うところの億ションに暮らしているのかは、本作では全く明らかにされません。

 

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ジョンスはベンをストーキングし始める。

 


しかし、没落した酪農家の息子であるジョンスはホンダのオンボロな軽トラックを乗り、ベンはポルシェに乗っている。

 


イ・チャンドンはハッキリとは言ってませんけども、韓国社会の勝ち組/負け組の露骨さを、クルマというもので観客にわからせようとしているんだと思うんですね。

 


また、イ監督は一貫して、ソウルを舞台とした映画を撮らず、必ず、それほど有名でもない地方都市をロケーションして撮るんですけども、この、ソウルと地方都市との格差みたいなものは常に感じさせます。

 


原作の納屋は、映画ではビニルハウスになっていますが、ネタバレさせてしまいますけども、この謎は解けません。

 


タイトルが何を意味するのかは、明かされないんです。

 

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ビニールハウスは何を象徴するのでしょうか。

 


この韜晦っぷりは、ハリウッド映画にはちょっと見られないものです。

 


で、そういう晦渋と韜晦というイ監督の気質が、村上春樹〜フォークナーとものすごいフィットしてるんですよね。

 


つまり、本作は、もう題材として選択した段階で成功しており、その意味で、NHKがイ監督にドラマ制作を依頼した事の見識の確かさは誇ってもいいのではないかと思うのと同時に、日本の監督にどうしてコレが撮れないのか?という事も思ってしまうのでした。

 

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このネコちゃんは見てのお楽しみ。

 


いずれにしましても、いざ、監督するとやはり傑作を作ってしまうイ・チャンドンは現代を代表する巨匠と言わざるを得ませんね。

 


彼の作品は全てオススメです。

 

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ブニュエルは最後までブニュエルであった(笑)。

ルイス・ブニュエル『欲望のあいまいな対象』

 

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フェルナンド・レイの語る、奇妙なお話し。


最後のシュルレアリストにして、うなぎのような反骨精神を貫いたブニュエルの遺作。

 


と言っても別にそんなに重く受け止める必要はなく、シルベルマン/カリエールと組んだ、アタマのネジが一本取れたような、あのトボけ感と、いつもの唐突なラストに、更に老人力が加わった、肩の力が抜けた快作。

 


ブニュエル組。と言ってもよい、怪優フェルナンド・レイが電車の中で語る、コンチータという女性の回想。という体裁で、進む、谷崎潤一郎なお話しです。

 


にしても、この肩の力の抜けっぷりがもう素晴らしいですね。

 


若い頃、と言っても、もう50歳は過ぎてたんですけども(1900年生まれ。デューク・エリントンヒッチコックよりも1つ歳下)、メキシコ時代の多作ぶりとその反骨精神は、まことに天晴れという他ない監督ですけども、フランスに渡ってからの「ユルすごい」という、他の追随を一切許さないオリジナルな作風もコレまた絶品であり、しかも、レオン・リー並みの高打率(喩えが古過ぎてスンマソン。若い子はググってね)なのです。

 


そんなブニュエルですから、もう、私なんかは安心して見てられるんですども、まあ、ハリウッド映画しか見たことない人には、「あれ?」みたいな展開が唐突に起こるので、そこがイライラ、モヤモヤしっぱなしでしょうね。

 


ブニュエルは、そういう人を明らかにおちょくっていて、「そんなハリウッド映画みたいに全部がつじつまが合うように説明できるなんて、強迫観念っしょ」という信念に基づいて、つじつまがどこかおかしい映画ばかり作り続けた、ホンモノの反骨です。

 


基本は金持ちのおっさんと若い女性を巡るメロドラマなんですけども、それがとても奇妙でどこかおかしいんですね。

 

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コンチータとの出会いがこの中年男を狂わせる。見ている側とともに。


ハナからぶっ飛んでいるのではなくて、ディテールがおかしいんですよ。

 


その最大のポイントは、すでに指摘されていますが、フェルナンド・レイが演じる中年が恋い焦がれるコンチータを演じる女優が2人いまして、何の説明もなく、2人は入れ替わってます。

 


2人一役という、とんでもないイタズラをブニュエルは仕掛けていたんですね。

 

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はい。コンチータを演じているのは、このお二人でした。

 

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しかし、公開当時、この事に気付いている人は少なかったんです(笑)。

 

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フェルナンド・レイの「欲望の対象」は明確なのに、映画のタイトルが「あいまいな対象」となっているのは、そういうイタズラであったと。

 

 

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その他にも、通奏低音ように、テロが何度か唐突に起こっており、コレが最後の大爆発の伏線には一応なってますけども(新聞で飛行機墜落!みたいな虚構新聞もビックリな見出しも出てきます)、ブニュエル作品にしばしば見られる、「強制終了」ではあります(笑)。

 


ハリウッド映画の、ある意味、強迫観念とも言える伏線張りまくり、起承転結ありまくりばかりを見ていると、何が面白いのかわからないどころか、途中で不愉快にすらなる作品かもしれませんが、そういうものを放棄して虚心坦懐に見ますと、これほど痛快な作品もないと思うので(爆発)

 

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