じゃない方の『クラッシュ』です!

ポール・ハギス『クラッシュ』

 


この映画の事を全く知らないまま、テレビでの放映で見ました。

 


ロサンジェレスの一日の出来事を、特定の主人公なしに、かなりの登場人物が複雑に絡み合いながら、進んでいく作品で、キャスティングはなかなか豪華ですが、それがそんなにウリでもないですね。

 


一応、有名どころのキャスティングを言いますと、テレンス・ハワードサンドラ・ブロックリュダクリスマット・ディロンドン・チードルなどなどと。

 

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ドン・チードルは刑事です。


これだけのキャスティングで、主演がいないという、ロバート・オルトマンを思わせるお話しですが、オルトマンの70年代の映画のような、ラストに、ズゥゥゥンと来るコワさみたいなところに持っていってない、実は、ちょっとしたクリスマス映画なのです(この辺はオチなので、実際に見てください)。

 

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サンドラ・ブロックは検事の奥さんで、リュダクリスらにクルマを強奪されてしまいます。 


2005年公開で、私はしらなかったのですが、アカデミー作品賞だったと(この頃、一番アメリカ映画を見てなかったんですね)。

 


タイトルを見たときに、「クローネンバーグの映画かな?」と勘違いしている程知らなかったんですけども(笑)、絵を見ていたら、明らかにハリウッド映画で、ベツモノである事に気がついたわけですが、数分画面を眺めていたら、「アラッ、コレ、いい絵だなあ」と気がついたんですね。

 


いやらしい言い方ですけどとも、いい映画かどうかって、五分も映像見てたら、わかってしまいますよね。

 


で、コレは何も知らなかったんですけども、やっぱりよかったんです。

 


こういう経験をする確率は、なぜかテレ東で多いですね(笑)。

 


リチャード・フライシャー絞殺魔』とか、ニューポート・ジャズ・フェスティバルの模様を撮った『真夏の夜のジャズ』は午後ローで偶然見ましたなあ。

 


それはさておき、本作が2005年公開というのが、やはり、重要ですよね。

 


2000年9月11日に起きた複数の飛行機を用いたテロ事件がアメリカ社会を神経症的な発作に駆り立て、それがイラク侵攻、フセイン政権の崩壊へとつながるわけですが、そういう、最中にこの映画が発表されたというのが、やはり素晴らしいんですよね。

 


本作のテーマは、昨今またしても再燃している人種差別問題であります。

 


それが白人/黒人という、単純な二元論対立ではなく、ここに、白人の中でも裕福な白人とプアホワイト、黒人の中にも同様の経済格差/社会階層があって、より複雑化しており、更に、イラン系(映画内ではペルシャ人と名乗ってますが)のアメリカ人の家族が出てくる事で、重層的に人種問題を描いていますね。

 

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テレンス・ハワードはテレビのプロデューサーです。


出てくる登場人物も、刑事、検事、テレビプロデューサー、カギの修理屋、雑貨商、警察官など、一見結びつきそうもない人々が、それぞれひょんなことから結びついていくんですが、それらの結びつきが人種差別問題を着火点としている点が、本作の特徴です。

 

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マット・ディロンは、人種差別的な警察官を演じてます。


タイトル通りの様々な「衝突」を描いているんですけども、とかく、こういうお話は、アタマでっかちになりがちで、そこが白けちゃうんですけども、この作品はそういうものがなく、単なる人々のイザコザを殺伐と描いているんではなく、根底にアメリカらしいニューマニズムが流れているのがとても好感が持てました。

 


見終わった後も後を引く、ジンワリと来る静かな感動がなんとも心地よい映画でした。

 

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この作品でゴダールは作風を確立しました。

ジャン=リュック・ゴダール気狂いピエロ

 

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この斬新なデザインは後世に計り知れない影響を与えましたね。

 

https://youtu.be/ZXiFjS9uLTQ


2019年に89歳となるにもかかわらず、未だに作品を発表し続ける孤高の天才ゴダールの、1960年代の最高傑作(ということは、映画史上の傑作)。

 

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初めて見たのは高校生の頃で、フランス映画社が配給していた、たしか、ソニー製のVHSで、当然レンタルでした。

 


で、なんのこっちゃわからなかったですよ(笑)。

 

 

 

ストーリーなんて、『勝手にしやがれ』(『駅馬車』、『望郷』と並ぶ、素晴らしい邦題。ちなみに、ワーストは『暴力脱獄』)よりも更になくなっていて最後にジャン=ポール・ベルモントがアタマにダイナマイトを巻きつけて死ぬ。って、どういう事ですか(笑)。

 

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北海道のド田舎街に住んでいた私の周りにシネフィルなぞおらず(要するに高二病だったのですが)、せいぜいが『ダイ・ハード』くらいで喜んでいるような程度のオツムには、理解不能なのでした。

 


2回目に見たのは、東京の大学に進学してからで、とにかく、東京に来たら映画を見まくろうと思っていたので、『ぴあ』を購入してGWに初めて名画座に行って見たのが、『勝ってにしやがれ』と『気狂いピエロ』の二本立てでした。

 

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もう、とにかく、何でもいいから見たかったんですね(笑)。

 


今はなくなってしまった、高田馬場の駅からすぐ近くにあった名画座です。

 

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ベラスケスなどのアートに耽溺するフェルディナン/気狂いピエロ


2回目は、不思議とよくわかりましたね。

 

で、今回が4回目です。


ハリウッド映画的な文法から意図的に遠い(ただ、外観は1950年代のアメリカ映画に似せてますけどね)作品なのだ。というのは、1回目でわかりましたから(笑)、そういうものを取り払って、ゴダールの編集のタイミングとか彼ならではの言葉遊びなんかを楽しみながら、彼が意図的に切り刻んだ上でつなぎ合わせたような映像に付き合うように見ると、ベルモントが演じる男の空虚な内面が見えてくるんですね。

 

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一見、デタラメなんだけども、ある男が爆死するまでを一直線に描いているんですね。

 


ゴダール映画は真ん中がダレタレなので、そこが一般的な映画ファンはもうついていけない(笑)。

 


本作は一応、ベルモント(フェルディナン/気狂いピエロ)とマリアンヌ(アンナ・カリーナ)の逃避行やサスペンス仕立てにはなってますけども、それはゴダールが語りたい事のための書き割りのようなもので(ただ、それが余りにも美しくできているので、見ている方は「ゴダールってば、なんてオシャレなんでしょう!」となってしまうんです)、『勝手にしやがれ』から本作にかけて、ストーリーが映画を駆動していくチカラがなくなっていきます。

 

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思いっきりハリウッド映画的な車のシーン。


それが「退屈」を生み出すのですが、ゴダールは編集する事まではさすがに放棄していないので(というか、それがこの人の才能の大半だと思います)、どんなに空疎な記号を弄んでいるように見えても、映画である事から完全に逸脱しているわけではないんですね。

 

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何度も唐突に挿入される、フェルディナンの日記。

 

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こういう言葉遊びはゴダールの得意技ですね。


主人公フェルディナンは恐らくは、ゴダールの分身であり、現実をつまらないものと思っているんです。

 


では、何に喜びを見出したのかというと、それが映画である。

 


本作冒頭で、ゴダール本人も愛してやまない映画監督のサミュエル・フラーが唐突にカメオ出演してますが、フラーに言わせているセリフは、ゴダール本人の考えであり、フェルディナンはこの考えに基づいて、マリアンヌとの逃避行に出るんですが、この2人の考え方は、全くすれ違っている。

 

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「映画とはエモーションである」

 

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『勝ってにしやがれ』もよくよく考えると、ベルモントジーン・セバーグの考え方は最後まですれ違いですね。

 


『勝ってにしやがれ』はベルモントは警察に通報されても逃げようともせずに刑事に射殺されます。

 


コレに対して、本作はベルモントがカリーナを射殺し、更に顔に青い色に塗って頭にダイナマイトを巻きつけて爆死し、タイトル通りの最期を遂げます。

 


前者は衝動的なんですけども、後者は意思をもっての行動です。

 


破滅的なラストを描いているんですけども、全然違うんです。

 


本作は、突然、フェルディナンが車を運転しながら、後ろに向かって話しはじめるシーンがあるんですけども、それに対して、カリーナは「誰に話してるの?」というと、「観客だよ」と言い、カリーナは一瞬カメラ目線になって、ああ、そうか。という表情になります。

 

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私たちは『気狂いピエロ』という

映画を見てるんですけども、それは、この映画は現実の何かを描いているんではなくて、「映画」なんですよ。と端的に示していて、つまり、唐突にサスペンスになったり、意図的にワザとらしいアクションシーンがあったりすることも、「映画」なんですよ。と言ってるんですね。

 

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アクションや暴力が極端なまでに空虚です。


しかも、それは、フェルディナンのアタマの中で展開している「映画」なんです。

 


それを完結させるためにマリアンヌを殺害し、自分も爆死しているんですね。

 

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一見破天荒に見せてますが、やろうとしている事自体はとてもシンプルであり、この作品自体がゴダールの映画論なんです。

 


後に、ここにゴダール独自の資本主義批判とかが更に重層的に入ってきて、論がドンドン強くなってしまって、一般的なファンを失うんですが(そう考えると、『ワン+ワン』がローリング・ストーンズのドキュメンタリーとして秀逸と考えるのは実は違うのではないかと思います)、実はやろうとしている事はあまり変わっておらず、それは現在に至るまで一緒なのだ。という事なのだと思います。

 

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I’art(アート)にmoを加えてla mort(死)に


勝手にしやがれ』から、本作までは、「映画」というものをいかに映画で語るのか?という事に専心していた時期であり、その巧みな編集と素晴らしい映像を見る上で欠かせない作品ばかりですので、すべておススメします。

 

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見つけた

何を?

永遠を

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「後味悪い映画」の中でもコレは相当な上位なのではないか。

野村芳太郎『疑惑』

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おなじみの、野村芳太郎松本清張映画ですが、今回の見どころは、なんと言っても、桃井かおり岩下志麻のぶつかり合いですね。


バディものでもライバル対決でもないという、かなり異色のドラマです。


というのも、桃井かおり富山県の資産家の夫の殺人容疑がかかっていて、その国選弁護人が岩下志麻という関係なんですね。

 

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事故シーンは結構冒頭に唐突に始まります。ここのクールさがうまいですね。

 

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警察の取り調べでも一切有力な供述は出てきません。


普通だったら、弁護士が無罪の被告人を救うべく奔走する姿が描かれそうですけども(岩下志麻は弁護士としての仕事はちゃんとやってますけど)、そこには力点は置かれていなくて、桃井かおりの暴れっぷりが裁判だろうと、回想シーンだろうと発揮されていて、ある意味、それがメインの作品です。


ショーン・ペン主演でスーザン・サランドンが弁護士役を務める『デッドマン・ウォーキング』もある意味似てますが、こちらは、現在のトランプ政権を支持しているようなかなり右翼的な男の人間的な変化がメインテーマなので、最後まで、ひどい人間性はそのまんまな本作は、ヒューマンドラマですらなく、恐ろしくドライとリアルしか伝えないという、そういう意味では、真の実録映画です。

 


いやー、それにしても、桃井かおりのクソ女っぷりは、ホントにすごいですね(笑)。

 


コレだけ憎たらしい人、そうはいませんよ。

 


しかも、カリカチュアとかでなくて、リアルに憎たらしい。

 


砂の器』という一大オペラを、橋本忍とともに作り上げた野村監督は、こういう作品はもう極め尽くした。と、考えたのでしょう、松本清張の本来の持ち味である、リアリスティックでビターな味わいを追求していきましたが、その方向転換を成し遂げるのに決定的な作品が、以前紹介した『鬼畜』で、ここでの岩下志麻の鬼気迫る存在感は、見ているコッチが震え上がるほどでした。

 


その岩下志麻がクソ女を弁護する。という、どう考えても普通に裁判が粛々と進むか筈がないではないですか(笑)。

 


しかも、本作がうまいのは、なかなか岩下志麻が出てこないんです。

 


初めは資産家の夫の顧問弁護士に弁護を頼むのですが、彼は東京の凄腕弁護士にまで頼んで、万全の体制なんですけども、これが相次いで弁護から降りてしまいます。

 


なので、民事を専門とする、岩下志麻が国選弁護人としてお鉢が回ってきたんですね。

 


その2人の拘置所での初めての面会から、桃井かおりは喧嘩腰(笑)。

 


それに対して「死刑になりたかったら、自分で弁護しなさい」と冷酷に言い放つんですけども、結局、弁護人を引き受けます。

 


さて、裁判のポイントは、いくつかありますが、埠頭からノーブレーキで海に落ちた時、車を運転していたのは誰なのか、彼女に保険金目当ての殺人計画はあったのか、という事なんです。

 

 

 


球磨子はもともとホステスで、いろんな前科があるのですが、それが裁判で検察側が曝露していく事となり、さらに、桃井かおりのかつての犯罪仲間であった鹿賀丈史(昔は、チンピラ役がとても多かったですね)の陳述書を岩下志麻が読んでいるシーンがやはり、そのまんま回想シーンになるので、要するに、桃井かおりのサグライフがコンパクトにまとめられており、どう割り引いても『砂の器』と真逆のイヤーな感情しか湧いてきません(笑)。

 

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鹿賀丈史の陳述書を読む、岩下志麻


検察側が連れてくる、資産家の一族、白川家の人々は、悉く球磨子を憎んでいて(法定相続人の筆頭ですから・笑)、彼らのする証言はもう(笑)。

 


という感じで、裁判はもう酷いのなんのって(笑)。

 

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しかし、この裁判に決定的な証言が2人出てきまして(それは見てのお楽しみです)、コレによって球磨子は無罪となります。

 

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しかし、この映画は実はそこからが実は野村芳太郎の世界でして、岩下志麻桃井かおり双方にかなりビターなラストが待っています。

 


ラストに、2人は初めてシャバで会うんですが、『鬼畜』を見ている私は、「わー、やめろやめろ!口にゴハン突っ込まれて殺されるぞ(笑)!!」と、思わずココロの中で叫んでしまいました。

 


岩下志麻が受けなくてはならないサンクションは、実は、現在の女性も解決していないような実に辛いものです。

 


桃井かおり岩下志麻の双方にとってコレは代表作の1つと言っていいのではないでしょうか。

 

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今村昌平が蘇ってきたような濃厚なドラマでした!

イ・チャンドンoasis


2002年の作品で、『シークレット・サンシャイン』の前作です。


この監督は一作ごとの入魂の度合いがハンパではなく、それが寡作にならざるを得ない最大の原因ですが、本作の入魂度は、1960年代の今村昌平に匹敵する凄さがあります。


社会にうまく適合できない前科者の男と脳性麻痺の女性の恋愛。という、誰も思いつかないような、恐ろしく濃厚な人間ドラマですね。


ひき逃げ犯として2年半の刑期を終えたばかりのホン・ジョンドゥを演じる、ソル・ギョング(薛耿求)のアタマの悪く、かつ、ウザいキャラぶり!


ソルは、作品ごとにまるで別人のように違う役を演じる事で有名なようですが、このウザい男がホントにリアルで驚きますよ。


コレだけの役者、世界的に見てもそうはいないのでは。


ムン・ソリ(文素利)のあまりにもリアルな脳性麻痺の演技は、まさか、ホントに脳性麻痺の人を主演にしているのでは?とすら思ってしまうほどすごいもので(そうではない事が見ているとわかります)、本作での演技は高い評価を受けました。


この女性、実は、ホンが事故で死なせてしまった清掃員の娘なのです。


なぜ、この2人が出会うことになるのかというのが、ちょっとありえないようなジョンドゥの行動によるのですが、このような行動に出てしまう理由は、実は後半にわかってきます。

 

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「洪景来将軍の末裔なんだよ!」「洪景来は叛逆者でしょ」


このような、シチュエーションは、ちょっと今村昌平でも思いつきませんね。


イ・チャンドンは、時にはマジック・リアリズムすら使い(タイトルが意味するところはこの表現に由来します)このユニークな恋愛をキレイごとではなく描ききってます。

 

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後半、この話は予想しない、とんでもない方向に転がっていきます。


このドストエフスキーもびっくりなドロドロが、事もあろうに、ジョンドゥの母親の誕生日から展開します(まさに、ドストエフスキー的です)。

 

究極のKYであるジョンドゥとその一族の、文字通りの地獄絵図は必見(笑)。

 

文字通り、言葉で説明することのできない、怒りと悲しみ、そして、愛。


側から見ていると、どうしようもないし、救いがたいのですけども、それは当人たちから見ると全く違うものが見えてくるお話ですね。


とにかく、圧倒的な作品ですので、是非とも見て確認してみてください。

 

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サム・ペキンパーもビックリな凄絶な戦争映画です!

岡本喜八血と砂

 

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経営が傾いてきた東宝を救うべく、三船敏郎は、三船プロダクションを設立し、数百人の従業員を抱える経営者となりました。


コレが、時間拘束がとても長い黒澤明との仕事を困難にしてしまった。というのが映画評論家春日太一氏の説ですが、コレは相当説得力があります。


さて、三船プロの初期のいい仕事の1つは何と言っても岡本喜八との一連の作品で、とりわけ本作は、三船敏郎岡本喜八の反骨精神が反映した痛快作です。


岡本作品のほとんどには、第二次世界大戦での自身の辛い体験が何らかの形で滲み出ている事は、すでに有名ですけども、三船敏郎もまた、かなり凄絶な体験をしています。


彼の実家は写真店で、三船は家業を継ぐべく、写真撮影の技術がありました。


その技術を買われ、三船は神風特攻隊として出撃するパイロットの最後の記念撮影(要するに遺影となるわけです)という、かなり辛い仕事をしていました。


これから死んでいく人たちの、しかも、戦争末期には、10代後半の、大して訓練も積んでいないような少年パイロットの遺影を撮り続けていたらしく、ホントに辛い思いだったようです。


この事を息子に泣きながら語っていたそうですね。


三船は、徴兵されて、なんと、7年間も兵役にいたのですが、上等兵までしか昇進していません。


普通、こんな事はあり得ないのですが、三船はよく上官に意見をしたりする、上からかなり睨まれていた存在であったらしいです。

 

三船軍人役を結構やってますが、勇ましい役は全くやっていません。


岡本喜八の代表作の一つ、『日本で一番長い日』で三船が演じる阿南惟幾陸相は、中国大陸に展開している多くの陸軍将兵の立場を考え、彼らを守るべく必死で抗弁し、最後は責任をとって切腹するという役回りです。


本作も、能力はありながら、上官に反抗するために、中国北部の激戦地に左遷されてしまう曹長です。

 

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三船敏郎のアクションが素晴らしいです。


しかも、その部下は学徒動員された音大生です。


派遣された先の司令官が仲代達也というのは、なかなか笑えます。


三船と仲代は、黒澤明椿三十郎』でも浪人と悪徳大目付の右腕役で対決していた事を踏まえての配役ですね。

 

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椿三十郎』は大ヒットしていましたから、岡本監督のイタズラですね。


兵員不足を理由に、軍楽隊は実働部隊に改編され、三船はこれを訓練し、八路軍のゲリラに奪われた陣地の奪回をすることとなるんですね。

 

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岡本作品らしい、太々しいまでのバイタリティで描いているのですが、よくよく考えてみると、こんな状態になっての戦争というのは、もはや正気ではないですよね。

 

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伊藤雄之助佐藤允、団令子というキャスティングがこれまた絶妙!


三船たちの悲劇的な顛末は実際見ていただくとして、サム・ペキンパーもビックリなほどの凄絶な戦闘シーンは、今もって驚きます。


役者としての三船のキャリアハイは本作かもしれません。


あまり知られていない作品かもしれませんが、是非とも見てもらいたい作品です。

 

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黒澤明作品とはまた一味違う三船敏郎を見ることができます。

 

 

内田吐夢の怒りが見事な様式美に昇華した快作!

内田吐夢『浪速の恋の物語』

 

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とにかくね、後半がすごいの。


タメにタメまくった飛脚問屋の婿養子である、中村錦之助の鬱憤が大爆発。


近松門左衛門の『冥途の飛脚』などを原作とした、この頃の内田が連作していた作品の一つなんですけども、どうも評価されていないような気がします。

 

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飛脚問屋の若旦那、忠兵衛と遊女梅川の悲劇を描く、近松門左衛門『冥途の飛脚』の映画化です。

 


というもの、題材が完全に溝口健二と丸かぶりで、どうしても彼と比較されてしまうからですね。


美術や撮影にトコトンこだわりまくる溝口の凄味は、内田からは伝わってはきません。


いかにも東映のセットですしね。


キャメラもそれっぽく溝口に似たアングルですが、やっぱり「それっぽい」を超えているとは思えません。

 

透徹した美。という事を考えると、やっぱり溝口健二のすごさといのは、圧倒的にすごいです。


しかし、内田の演出は溝口とは力点が違うんですね。


溝口の視点はどこまでも冷徹で時に残酷ですが、内田は不条理への怒りですね。

 


まるで、任侠映画のように錦之助は怒り、藩の金250両をぶちまけて、最愛の梅川を強奪していくんです。


チャンバラこそありませんが、異様な凄味があります。


キャメラアングルもココからが異様に冴えていて、コレがやりたくてこの映画が撮りたかった事がものすごく伝わってきます。

 

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溝口だと、役人に捕縛されて刑場に連れて行かれる所で終わるのでしょうが、内田はそこからがすごいですね。

 

本作では近松門左衛門が出てきて、片岡千恵蔵が演じているんですけども、最後は彼が主人公になっていくんですけども、ココからが内田の演出がすごいですね。

 

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「作家というのは、事実そのまんまを伝えることが仕事ではない。私はこの2人の顛末を事実通りに描きたくない」

 


とすら千恵蔵に言わせています。


この、圧巻の後半だけで本作の価値はあります。必見。

 

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ゴダール初期の怪作!

ジャン=リュック・ゴダール『女は女である』

 


すんごい(笑)。


こんなに音楽というものが出鱈目に貼り付けられている映画というものがあるのだろうか。


私はゴダールの作品を20本も見てないと思いますが、こんな素朴な疑問がムツカシそうなゴダールを批評している本には書いてないの。


多分、それは原因はゴダール本人にあって、音楽について書かせまいという力が作品それ自体に内蔵されている気がするんですよね(笑)。


それは、2019年現在に至るまで厳然と存在している力なのではないだろうか。

 

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ミシェル・ルグラン、ジョルジュ・ドリュリューという、フランス映画界を代表する2人を1960年代に起用しておきながら(本作はルグランですが)、あまりにもたくさんのサントラを映像とほぼ無関係に貼り付けるので(丁寧に見ると、ココはあってるかな?みたいなところは何箇所かあります・笑)、映像と音がリンクせず、しかも過剰なので、アタマな処理しきれなくなり、一切記憶に残りません(笑)。

 

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カリーナが歌って踊るシーンは最初にのみあります。


ストーリーも、おそらくは、撮影してからでっち上げているのでしょう、各シーンのつながりが、音楽の使い方と相まって希薄であり、その点で『勝手にしやがれ』をはるかに凌いでおります。

 

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なんとなく、『突然炎のごとく』のような三角関係を描いてはいますが。


長編3作目にして、手法がますます過激となり、当時の観客はほとんど取り残されているのではないでしょうか。


にもかかわらず、本作のプロデューサーである、カルロ・ポンティは、再び『軽蔑』でプロデューサーをしてまして、更にハイバジェットな作品となるんです(作品としては、本作よりも技法の過激さは抑えてます。音楽はジョルジュ・ドリュリュー)。

 

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雨に唄えば』へのオマージュ的なシーンかな?


トリュフォー突然炎のごとく』のような三角関係、ドゥミ『ローラ』が直近でゴダールを刺激したのでしょうね、ゴダール流のミュージカル映画を作ろうとしたんだと思います。


ところが、いつものように、特にに何も決めないで、映像を撮りまくり、編集段階でイメージを固める。という所やり方では、音楽。という問題が出てきます。


多分、これまでのゴダールは、音楽は、自分でザッと切り貼りしてたんだと思うんですね。数も少ないので。


しかし、ミュージカル映画というのは、映像と音楽の極限のシンクロをやっていく事ですよね?


ところが、本作には、ゴダールとルグランがそんな事を行なったとは到底思えないんです。


ルグランはゴダールに言われた通りに莫大なサントラを納品したんだと思います。


しかし、それをルグランとは一切相談しないで、あんな風にやらためったら映像に貼り付けました。


セリフに音楽が思い切りかぶっていて、セリフが聞こえなくなるような事すらしている(笑)。

 

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ベルモントがあんまり魅力的でないのが、ちょっと不満かな?


ハッキリ言って、ルグランに嫌がらせをしているのではないかとすら思えます。


ミュージカルなのですから、音楽とストーリーの関連性がかなり密接ですから、適当に映像を撮ってそこに音を当てるなどという手法と相容れないですよ、どう考えても。


ゴダールがなぜはちゃめちゃな事をしたのかという事についての本人のコメントを特に読んだことはないですし、ルグランがこのような扱いを受けたことについて、どう考えたのかは知らないのですが、ルグランのその後の莫大な仕事ぶりを見ていると、特になんとも思ってなかったのではないかと(笑)。


ゴダールによる、「登場人物が歌わないミュージカル」は、ハッキリ言って、失敗作だと思うのですが(でも、コレ、ベルリン国際映画祭で賞もらってるんですよね、信じがたい事に)、映像や編集は相変わらずの絶好調なので(言葉遊びや文献の引用のうまさは音楽に反比例して素晴らしいです)、結局、「変わった映画」として楽しめてしまうんですよね。

 

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地下鉄のザジ』の主人公が映ってますね。


天才の所業というのは、ホントにすごいと思います(笑)。

 

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FIN