まるで松竹映画見ているようであった。

アッバス・キアロスタミオリーブの林をぬけて


『友だちのいえはどこ』に感銘を受けたので、早速次々作(実際にはドキュメンタリーを劇映画の合間にも撮っているので、正確な言い方ではない)を見ました。


なんと、またしても舞台は同じコケル。


映画監督は、現地の人々を使って映画を撮っている悪戦苦闘が、人々のほほんとした超マイペースな雰囲気によって、悪戦苦闘に見えてこないのがミソという、更なる傑作。


登場人物のほとんどは完全に素人であり、演技らしい演技はしてません。


ありのままを撮影しているので、ドキュメンタリーみたいに見えてくるのですが、それ自体が監督の演出というのが実に巧みで、自分が見ている作品が何なのかを軽く混乱させます。


とにかく、テヘランから来た監督以下スタッフの思惑通りには一切いかない、田舎の素朴な人々が最高で、違った意味での「地獄の黙示録」です。

 

ある意味、全員、天然のカーツ大佐みたいな(笑)。


ちょっとコッポラに似てなくもない(?)監督は、こうなる事は想定していたようで、マチの間に撮影を見に来た子供と雑談したり、なかなか根性が座っていまして、しかも、子供をうまくゲームに巻き込んでいくのがうまい。

 

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巧みに人の心に入り込む、監督。


映画の撮影で一番苦労を背負っているのが助監督のシヴァで、うまくセリフをしゃべる事のできない配役を交代させたり、新しい人にセリフを覚えさせたり、監督の意向を受けて仕事をしています。


この映画のテーマは、そんな撮影現場でわかってきた、2人の若い男女の恋愛です。


その描き方が、小津安二郎を見ているような錯覚を起こしそうになるほどよくできてまして、ぷりぷり姫のタヘレとイケてないホセインくんを、キアロスタミの分身である監督の目を通して、優しく描かれます。

 

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タヘレとモハマド


恐らく監督は、テヘラン大学を出ているようなイランの中ではエリートに属する人なのでしょうけども、そういう感じがせず、村人の中に自然と入り込み、彼ら彼女らの話を聞き出そうとしていくんですね。


なんだか頼りなさそうなモハマド青年が、意外にも鋭い事を考えていたり(文字が読めない人どうしが結婚してはいけないなど)、一見、無学な人々(恐らくは義務教育すら全員にはいきわたっていはいないように見えます)にも、キラリと光る知恵がある事が浮き彫りにされています。


さて、本作の通奏低音には、実は、10000人もの死者を出した震災があります。


登場している村人たちの話を聞くと、誰しもが親族に犠牲者がいるほど辛いものです。

 

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しかし、それを乗り越えるような、ホセインとタヘレの、まるで往年の松竹映画を思わせるような奥ゆかしい恋愛映画が核心にあって、ラストはあえて曖昧に描いてますけども、なんともしらん清々しさがまことに見事なんです。

 

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イランの映画。というとなんともとっつきにくそうですが、キアロスタミはココロにスッと入ってくるのが素晴らしいですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

とにかく見せ方のうまさに感心しました。

クレイグ・ギレスピー『アイ、トーニャ』


正直、そんなに期待して見たわけではないんですけども、コレがめちゃくちゃ面白かったですね。


ナンシー・ケリガン選手が、リレハンメル・オリンピックの直前に何者かに殴打された事件は、まあ、大々的に当時騒がれていて、日本でもワイドショーでデイヴ・スペクターが大活躍してましたよ(笑)。


でも、なんも頭に入ってこないんで、当時は何の事がわからず、トーニャ・ハーディングが襲撃したのか?とすら思えてくるような報道の勢いでした。


しかし、真相は、アホなDV元夫が虚言癖のデブのショーン・エカートと共謀して行われた犯罪でした(本来の筋書きをショーンが暴走させて起きたのでした)。

 

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アホのジェフ(左)とただのデブのショーン(左)。


この事件の経緯を明らかにするだけだったら、別にドキュメンタリーでもいいわけなんですけども、本作は、あたかもドキュメンタリーのような手法を使いかながらも、トーニャ・ハーディングという1人の人間を巧みに浮かび上がらせていくんです。


オレゴン州ポートランドに生まれたトーニャは、父親が愛想を尽かして出ていってしまうほど、母親が心底クソで(笑)、その独裁者のような母親の圧倒的な影響下のもとで、育っていくんです。

 

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鬼のように(という鬼そのもの)トーニャを追い込む母親。ものすごく口が悪いです(笑)。


元父親からの仕送りとウェイトレスの仕事でなんとかカツカツで生活しているビンボな家庭環境で、周囲にいる人間もやっぱりアホでクズみたいな連中ばかり。。


酷いことに、後に夫となる口ばかりが異様に達者で、すぐにトーニャに暴力を振るうどうしようもないジェフ(母親も相当なDVをかましますよ。ドン引きします)。

 

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こんなアホと結婚してしまうんですね。。

 

金銭的には相当苦しかったと思いますが、それでもど根性でスケート界で台頭していくんです。


まあ、要するに、ものすごくガラの悪い育ちでありまして、ほぼギャングスタの生活では。としか思えないような場面すら出てきます。


そんな悪童キャラをアメリカのスケート協会はとても嫌がってまして、彼女の得点を不必要に厳しくジャッジしてたんですけども、当時、伊藤みどりしか成功させていなかったトリプルアクセルを成功させる事で、評価せざるを得なくなるんです。

 

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トリプルアクセルを史上2番目に成功させた瞬間!


こうして書いていくと、なんとも暗い絵が浮かんでくるんですけども、ギレスピー監督はコレを実に手際よく、広告代理店にかつて勤務していたという経験を活かしての、流麗なテクニックで見せるんですね。


本作は、トーニャ、ジェフ、ショーン、ゴシップ専門のテレビ番組のスタッフ、そして、母親の証言という形で進むんですが、トーニャとジェフの夫婦ゲンカでトーニャがデカいう銃を撃った!とジェフが証言した絵をそのまんま再現させながら、その銃を撃ったトーニャがそのまんまカメラ目線になって、「私はこんな事はしてない」と言わせるんです。

 

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インタビューに答える体の現在の母親。反省している様子はなし(笑)。肩にとまっているオウムがツボです。


こういうシーンがいたるところで頻繁して、観客を心地よく混乱させるんです。


当時の語り手と現在の語り手がそのまんま地続きなんですよね。

 

コレに近い方法は、2019年現在放映されている、大河ドラマ『いだてん』でも多様され、ここでは、古今亭志ん生が演者と語り手、そして、50年ほどの年月を行ったり来たりさせてますね。


ケリガン襲撃事件はほとんど事実の再現のみに徹して、ここは面白おかしくしてません。

 

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ナンシー・ケリガン。銀メダリストですが、選手としては凡庸でした。

 

 

ぼ本作はとにかく、クズとクソがメインキャストで(笑)、こんなアホな連中がこんなとんでもない事件をしでかし、それに巻き込まれる形でフィギュア・スケート界から永久追放されてしまったというバッドエンドなのですけども、なぜか見終わった印象が不思議と全く悪くないです。


結局、トーニャを強くしているのは、どんなに否定しても、あのクソ独裁者のような母親から叩き込まれたド根性であり、それが彼女をリレハンメル大会に出場させたという事なんですよね。


トーニャは、恐ろしいほど母親と似てます。


余りに似すぎている事がこの親子の関係を煉獄にしてしまったとも言えますし、それが不屈の闘志の源にもなっています(現在は造園家として、娘と穏やかに暮らしているそうです)。

 

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細巻きタバコの吸い方がものすごくイライラさせます(笑)。


そんな「オイディプス王」を見事に演じたアリソン・ジャネイがアカデミー助演女優賞なのは、むべなるかな。


私はトーニャ・ハーディングをリスペクトしますよ、ガチで。


必見。

 

 

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ベルイマン的な抉りのすごい映画を久しぶりに見ました!

イ・チャンドン(李滄東)『シークレット・サンシャイン

 


寡作な監督なので、実は全く知らない監督でした。


新作の『バーニング』(なんと、原作は村上春樹の中編です)の前々作で、2007年公開です。


イ監督は、脚本家、小説家、プロデューサーでもあるので、何もしていなかったのではなく、映画を撮る以外の仕事をしていただけのようですね。

 

また、自分で撮るべき脚本がない時は撮らないという信念があるようで、それが寡作になってしまう原因なのでしょう。


ですので、彼の映画ができました!となると、世界中のファンがどよめくわけですね。


旦那さんが亡くなって、彼の故郷の韓国の南部の密陽(ミリャン)に引っ越してきた元ピアニストのシネは、息子のジュンと2人でピアノ教室を開いて生活しています。

 

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密陽に向かう途中にたまたま助けてくれたのが、キム社長。


そんな彼女に気があるのか、不動産仲業を経営するキム社長は、韓国特有の濃厚な先輩後輩関係で生きている、典型的な人です。


ホン・サンスは韓国。というのをほとんど書き割りみたいなものとしてしか考えておらず、その社会と慣習とか風習みたいなものには何の興味もなく、自身のマジカルなテクストの更新をしているのですが、イ・チャンドンはジックリと腰を据えて、人物造形もとても的確で、韓国社会というものにも目を向けいるという、まあ、とてもオーソドックスなスタイルで、ほとんどブニュエルロメールが奇妙に合体したみたいな、誰にもマネできないようなスタイルで年1以上のハイペースで撮っているホン・サンスと好対照です(で、どちらもカンヌの常連)。


ホン・サンスを学習して映画を作るのは大ケガをすると思いますが、イ・チャンドンの地に足の着いた作り方は、ものすごく勉強になるのでは。


ものすごくありふれた小さい町の風景(実際の密陽市です)を写しているんですが、ビンボ臭かったり、貧相さがなくて、なんというか、昔の日本映画のいい絵を見ているみたいなんですよね。

 

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息子のジュンがなかなかいい味出してます。


始まり方は、この親子の物語に、社長が絡んでくる物語なのかな?と思わせるのですが、なんと、息子が誘拐されてしまいます。


なんと、コレ、サスペンス映画なの?と思いきや、実はそうではなくて、ネタバレさせちゃいますけども、結局、遺体で発見され、容疑者はそんなに意外でもない人物が逮捕されます。


で、このお話しの本筋となるのは、ここから先なんですよ(笑)。


ここからがこの監督の真骨頂で、日本に住んでいると気がつかない韓国社会のある一面がよくわかり、イ監督は、コレに対するかなり明確な批判的スタンスを取っています。

 

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儒教社会」だけでは見えてこない、韓国社会。


主人公のシニの「地獄」を淡々と、ラストに於いても特に答えすら与えることなく、スッとカメラがひいていくと所に、凄味を感じますねえ。

 

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シニを演じるチョン・ドヨンはカンヌで主演女優賞です。


ベルイマン的な人間のドロドロな内面を暴いていくような、容赦のない怖さを、久しぶりに思い出させる、骨太な監督です。

 

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ドストエフスキー的な容赦のない対面シーン!


コレを見て、彼の作品はすべて見なくてはならないと痛感せざるを得ない、秀作でした。


ちなみに、タイトルの「シークレット・サンシャイン」は舞台となっている密陽市を直訳したものです。

 

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人間の幸せって何なのでしょうね。

 

 

アクションなしでもフリードキンはすごい!

ウィリアム・フリードキン『真夜中のパーティ』


ハリウッド映画で、恐らくは真正面からゲイをテーマとした最初の映画。


あの大傑作『フレンチ・コネクション』の前年に公開されたのが本作というのが驚きですねえ。


70年代のフリードキンは、まさに絶頂期と言っていいでしょう。


あの、ザクザクと中華料理屋で白菜などを豪快に切っていくような心地よい編集がダイナミズムを与える監督が、オフブロードウェイで脚光を浴びた舞台の映画化をするというのは、どうなのかな?という杞憂がないわけでなかったのですが、実際見てみると、コレまたフリードキンの代表作といっても過言ではない素晴らしい出来映えなのでした。


ニューヨークのゲイ仲間が、夜に誕生パーティーを行うという、その一夜を描いたお話で、舞台のほとんどは、主人公のマイケルの自宅です。

 

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マイケル。写真家で最近頭髪の後退が気になっている。


パーティーが行われる当日に、マイケルの大学時代の友人アランから電話が来ます。

 

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アラン。彼の登場がこのドラマの重要な起点となります。


マイケルは友人たちとのパーティーで、キミの趣味には合わないから今度会おう。と言うのですが、アランは、電話口で突然泣き出して「頼むから会ってくれないか」と言い出すんですね。


コレはただ事ではないと思い、「じゃあ、今から来るといいよ」と言って電話を切ります。


しかし、再び電話が来ると、「さっきは取り乱してゴメン。明日会おう」といってきました。


結局、アランは来ない事となり、友人たちが集まってきて、パーティーが盛り上がってきたところで、アランが突然訪問してきます。

 

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シュープリームズの曲に合わせてノリノリ!男の子たちがキャッキャしているところはいいものです。


ここから物語が動き始めるのですが、ここからは見ていただくのが一番よいでしょう。


中盤、主人公はちょっと引いたポジションになるんですが、そのタメが後半に爆発していく流れは、ホントに見事でした。

 

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ハロルドの登場シーンが最高です(笑)。


もともとの原作が素晴らしいという事もあると思いますが、アクションやサスペンスを得意とするフリードキンは、やはり、人間ドラマをしっかりと撮ることができる確かな力量があったればこそ、あの骨太なアクション作品が撮れるんだなあという事を改めて認識しました。

 

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ウィリアム・フリードキンの凄さをまたしても再認識させられました。


役者陣に関する知識がほぼゼロなのですが、とにかく、全員抜群にうまい。


アメリカの俳優は層が本当に分厚いですね。

 

1970年代の映画が好きな人には、たまらない、非常に優れた人間ドラマでした。

 

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タヴィアーニ兄弟+戦前の小津安二郎=アッバス・キアロスタミ

アッバス・キアロスタミ『友だちのいえはどこ?』

 


コレはホントにうまいなあ。と見ていて何度も唸りましたね。


タイトル通りの内容が展開していく、90分に満たない短い映画なんですけど、8歳の少年には、自分の住んでいる集落コケルから隣の集落のポシュテの友だちの家を見つけるというのは、コレほどまでの大冒険に見えるんだなあ。という事をホントに丁寧に愛情深く描くキアロスタミはホントに素晴らしいで

す。

 

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ちょっとオドオドしている少年の成長を描きます。


ストーリーは、ホントにシンプルでモハマド少年が小学校の隣の席のアフマド=レザ・ネマツァデのノートを間違えて持って帰ってしまったノートを返しに行くという、それだけの事を描いているんですね。

 

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アフマドと隣村に住んでいるネマツァデ。


アフマド=レザは、ちょっとボーっとした男の子で(8歳の男の子なんて、まあ、だいたいそんなもんですけど)、先生の言った通りに宿題をやってこない子で、先生に叱られているんです。


しかも、「今度、ノートにやってこないと退学にする」


と言われてしまうんです。

 

モハマドは、自分のせいでアフマド=レザが退学になってしまう!と責任を感じてしまって、ノートを届けてあげようと奮闘する。というのが、少年の「大冒険」が始まるんですけども、トリュフォーじゃありませんが、「大人は判ってくれない」が次から次へとモハマド襲いかかってきまして、オチを言ってしまうと、ノートを届ける事は出来なかったんですね。

 

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全く同じノートなので、間違って友人の持ち帰ってしまったモハマド。


お母さんは、「宿題をサッサとやりなさい!」というだけで、子どもの事情を聞こうともしない。


おじいちゃんは、「子どもは、ゲンコをかましてでもしつけるのが大事なんじゃ!」と全く見当違いが事を言って、タバコを持ってくるように言いつける(本作に出てくるおじいちゃんは、主人公の邪魔にしかなりません・笑)。


こういう一つ一つは、大人から見ると他愛のない出来事なんですけども、子どもから見ると、ホントに大変なんだよ!という事が実によくわかります。


基本的には、子供の視点で描かれている作品なのですが、実は、ほんの数分だけ、大人の視点で描いてあるシーンがあり、そこにキアロスタミの言いたい事が込められてますね。


それは、近所の家の軒先で寛いでいるモハマドのおじいちゃんが、「タバコを持ってこい!」と無理を言った後のシーンで、子供の視点ならば、ここで、モハマドをキャメラは追いかけるのですが、そうならず、モハマドのおじいちゃんともう一人のおじいちゃんの会話を追うんです。


そこで展開するのは、子どものしつけ論で、モハマドのおじいちゃんは、自分が父親からゲンコツでよく殴られた事で礼儀正しくなったかを説き、だから、モハマドも規律の大切さを知るために、必要もないのにタバコを取りに行かせるんだ。と結論づけます。


しかし、コレを聞いていたもう一人のおじいちゃんは、


「じゃあ、礼儀正しい子供はどうするんだ」


と。疑問を呈するんです(キアロスタミの疑問ですね)。


ウッ、とモハマドのおじいちゃんは言葉に一瞬詰まりながら、こんな事を言い始めます。


「それならば、どこか問題があるところを粗探ししてでも、ゲンコツをかます理由を見つけなくてはならない。子供はお小遣いをもらった事が忘れてしまうが、ゲンコツは絶対に忘れない。子供をしつけるには、ゲンコツがなくてはならんのじゃ」


会話は、モハマドが戻ってきて立ち消えてしまうんですけども、本作での大人は、「子供というのは、規則をキチンと身につけることが大切であり、それが出来るようになるのが成長である」と基本的に考えていて、その極端さをこのおじいちゃんに代表させているんですね。


しかし、本作最後まで見ていくと、この考え方に対する、キアロスタミの反論を、モハマド少年を通して行っていますね。


それは、「多少失敗をしても、子供が自分なりに一生懸命考え、行動していく事こそが、本当の成長なのではないのか」と。


とはいえ、キアロスタミは、大人を一方的に糾弾したりはしてません。


大人たちが自分たちの事ばかり考えて、子供などお構いなしになっている事の根底に、イランの地方に蔓延している貧しさがあり、子供たちにそのしわ寄せがきている事を、さりげなく描いています。


モハマド少年の奮闘シーンは、実際に見ていただくのが一番だと思いますけども、こんなシンプルなお話を全く飽きさせない巧みな脚本(冒頭シーンから使われる、ドアの伏線の巧みさ)、現地の住民と思われる素人の巧みな配置など、そんなに凝った映像ではないのに、その背後には大変な工夫が込められています。

 

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ネマツァデなんて知らんのう。


イランは、とかく、国際政治的文脈では、「悪の枢軸」として見られてしまうのですが(あくまでもアメリカから見たらなのですが)、実はごくごく普通の人々が同じような、悩みや問題を抱えながら生きている事を、子供のとても小さな事件から見せていく、キアロスタミは、やはり、優れた作家と言えるでしょうね。

 

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イランの土着的な文化とか、そういうものではなくて(パラジャーノフのように全く独自の文体を確立して世界的な評価を得た人もいますし、そういう監督も好きです)、子供にとって大人はどういう存在であり、何が子供の成長になるのか。という普遍的なテーマを追求したのも、よかったですね。

B級感覚が戻ってきたイーストウッドの痛快作。

クリント・イーストウッド『運び屋』

 

※公開直後ですので、写真はナシです。

 


現在、88歳のイーストウッドが久しぶりに自作の主演に復帰して撮ったのは、90歳の麻薬の運び屋。をモデルとした作品。

 


イーストウッドは、昔から大学教授や写真家という、どう見てもそんな職業やってそうもない役を演じる事がしばしばあるんですけども、今回も、園芸家。という、あり得ないような役なのでした(まあ、今回は実際に逮捕された園芸家なのですが)。

 


まあ、オチはもうわかった上でのお話ですし、最近のイーストウッドは、そういう作品ばかり撮ってますけど、最近はそこに昔のB級感覚が戻ってきていて、大変うれしいです。

 


中西部イリノイ州の田舎町で家族そっちのけで1日しか咲かない「デイリリー」というユリを育て、とても高い評価を受けているイーストウッドは、妻や娘からも愛想を尽かされているのですが、インターネット通販におされてなのか、自宅と農園が差押えられてしまいました。

 


そんな彼にメキシコ系の若者が声をかけるんですね。

 


「クルマを運転するだけでカネが儲かる仕事があるからやってみないか?」

 


何の事かわからないイーストウッドは、教えてもらった場所に行くんですけども、そこはマシンガンなどで武装したマッチョなメキシコ系のおにいさん達がいるんですね。

 


「コレを言われた場所に運んでくれ。中身は見るなよ」

 


明らかにヤバいブツの運び屋をやらされるのは誰にでもわかりますが、朝鮮戦争の従軍経験者でもある彼は(なぜか、イーストウッドの自作自演作には、朝鮮戦争従軍経験者が多いんですよね)、そんなものは意に介さずに「ああ、わかったよ」と返事をして、テクサス州からシカゴまでブツを運ぶんですね。

 


運び終わると、クルマに信じられない大金が。

 


ここから、イーストウッドは、差押えられた自宅を取り戻したり、退役軍人会の施設を守るためなどのために、運び屋をやりつづける事になるんです。

 


運んでいるブツに最初は無関心でしたけども、つい気になって中を見てしまい、自分がとんでもない量のメキシコからやって来たコカインを運んでいる事を知ってしまいます。

 


しかし、その事実を知っても、あまりにも呆気なく大金が入ってくるので、やめられなくなってしまいました。

 


DEA(麻薬取締局)は、メキシコの麻薬カルテルがシカゴに大量のコカインを流がしている事は掴んでいたのですが、その肝心の人物が全く特定できずにいたんですね。

 


と、ここまで書いていると、なんだかクライムサスペンス感が満点なのかと思いますが、運んでいるのは、90歳のジイさんが安全運転で、カントリーを聴きながら、途中でハンバーガー食ったりの寄り道しながらなので(要するに、言われた通りのルートで走ってないんですね)、ほとんどスリルがありません。

 


時々、保安官に「何を運んでるんです?」と、職質されるシーンなんかはあるんですけども、まさか、こんなおじいちゃんが200kgを超えるコカインを運んでいるとは誰も思いませんので、ちゃんと調べられないんです。

 


DEAも、運んでいるのはメキシコ系であると思い込んでいて、容疑者像からイーストウッドが完全に漏れてしまっているんですね。

 


また、本作の嬉しいところは、イーストウッドがほとんど、ハリー・キャラバンを思わせる、口の悪いキャラを演じていて、メキシコの麻薬カルテルの連中がかなり霞んでしまう事でして、カルテルのボスを演じる、アンディ・ガルシアは、クレイ射撃が大好きなただのデブのおっさんでしかないんですね。

 


ちなみに、イーストウッドの娘役は、実の長女が演じていて、子供の頃、女優のサンドラ・ロックと同棲生活をしていて、家庭を一切顧みなかった事実と、完全に重なります。

 


それにしてもこの映画、共和党支持者として有名で、トランプ支持を早くから表明しているイーストウッメキシコからやってきた麻薬は、ヒスパニックやチカーノが持ってきているのではなくて、そのウラをかいた白人の老人がとんでもない量の麻薬を運び続けていた事実を、恐らくはイーストウッド流に大胆に改変して作られたというのは、誠に痛快ではないですか。

 

トランプさん。アメリカをドライブしてみなよ。アンタが思っているほど、アメリカは簡単じゃないですよ。と言っているフシがあります。

 


本年のアカデミー作品賞を取った『グリーンブック』もとても良かったんですけども、私には、こっちの方がより好感を持ちました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

久々のウディ・アレン監督、主演!!

ウディ・アレンウディ・アレンの6つの危ない物語』


あらかじめ断っておきますが、本作は映画ではなく、アマゾンプライムでしか見ることのできないドラマでして、一本が大体25分くらいで、タイトル通り6作からなります。


久しぶりにウディ・アレンが主演を務め、相変わらず、神経症ぎみの二流作家を演じております。

 

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ジェームズ・ディーンの髪型に近づけてくれ」とムチャを言うシド。


しかし、本作の面白いところは、なんと、ヴェトナム戦争真っ盛りの1960年代後半が舞台の映画なんですね。


ウディ・アレンは、1920-30年代、もしくは現代を舞台に映画を撮ることが多いので、コレはかなり驚きました。


2019年現在、83歳となってからこういう事をしだすとは、相変わらず若いとも言えますが、映画の調子は、相変わらずのウディ・アレン主演モノではあります。


話しのスジはといいますと、二流作家のシドと結婚カウンセラーのケイの老夫婦の住んでいる、ニューヨークの郊外に、ケイの姪であるレニーが早朝にやってくるんですね。

 

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ごくごく平凡な生活をしている、シドとケイ。


その姪は、なんと、学生運動極左集団に所属していて、FBIに追われているんです。

 

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極左集団のメンバーとして指名手配されているレニー。


シドは「早く警察に突きだせ!」と騒ぐのですが、ケイは可愛い姪なので、しばらく匿ってやることにします。


パゾリーニは、『テオレマ』で、金持ちの家にやってきた謎の美青年が一家を破壊していくという怪作を撮ってますけど、ウディ・アレンは、そういう事にはならず、ケイの主催する読書会で『毛沢東語録』を読んだり、ニューヨーク大学の大学院に通っていて、婚約者までいる下宿人のアランがマリファナでハイになりながらカストロの本を読んだら感動した。みたいな事が起きて、だんだんと平穏な家族が不穏になってくるんですね(笑)。

 

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二人の意見はことごとく食い違う。

 

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レニーの思想に心酔して爆弾製造までエスカレートするアレン。

 

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カフカを読んでいた読書会が毛沢東語録マルクスを読むように(笑)。

 

更にウディ・アレン作品では珍しい、アクションシーンも見ることができます。

 

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第6話にはそのてんやわんやがピークに達して大爆発するのでお楽しみに。


登場人物の少ない作品なのですが、最終話はべらぼうに増えるんです(笑)。


当時の学生運動を揶揄しつつも「小さい革命」は老後の健康にはいいのではないか?という、アレンらしいシニカルな視点が楽しい作品。


彼の作品には珍しく、モダンジャズがサントラに使われてまして、ジミー・ジュフリー3の「トプシー」がとても効果的に使われてますけども、私が気に入ったのは、ビル・エヴァンス・トリオ「ワルツ・フォー・デビィ」がチラッとだけ使われるシーンですね。

 

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まさか、アレンの頑張りに刺激されて、イーストウッドは監督、主演を復活させたとかじゃないすよね(笑)。